観音寺城は佐々木六角氏が築いた巨大山城で、多くの郭で囲まれた本格的な石垣の残る城である。
観音寺城は日本100名城の第52番に選定されている。
観音寺城への公共交通手段はないので、 安土駅前の安土城郭資料館に置かれている、百名城のスタンプを捺印後、 レンタカーで向かった。
観音寺城があったのは、繖山(きぬがさやま)である。
「 観音寺城は、
湖東平野の中心にある標高約四百三十三メートルの繖山(きぬがさやま)の南半分を中心に築かれていた。
城主は佐々木六角氏であるが、彼を支えていたのは湖東地域の
自立性の強い国人衆である。
支配権を維持するためには、彼らと連合体をとらざるをえなかった。
観音寺城は、その体質を表すように、南腹の斜面に、
家臣や国人領主の広い屋敷を配した多数の曲輪(郭)を展開しているが、
明確な防衛施設がなく、規模こそ大きいものの、非常に単純な構造になっていた。
国人領主らの屋敷(郭)は、城主が住む山頂の本丸を中心に、麓まで散らばって建っていて、その数は正確には把握できないが、至るところに削平された平坦地を確認することができる。 」
向かった先は観音正寺である。
山道を走り、駐車場に車を入れ、歩いていく。
途中に,、 「奉納 南無大慈大悲観世音菩薩」 と、書かれた赤い幟がいたるところにある。
道の左側に、「伝目加田屋敷跡 古井戸あり」 と書かれた標木があった。
また、入山志納金500円が必要と書かれた標板もある。
その先に、「←観音正寺 風土記の丘資料館 大字川並→」 の道標があった。
この道標は、巡礼道の川並口道を案内しているもので、
観音正寺は、西国三十三ヶ所第三十二番札所である。
その先の右側には、 「 ←佐々木城跡107m 三角点800m 」 の道標があった。
「 佐々木氏は、宇多源氏を名乗り、源成頼を家祖とし、
成頼の孫の経方が佐々木庄小脇館に住み、
佐々木氏を名乗ったが始まりである。
治承四年(1180) 源頼朝の挙兵に参加し、功あり、
佐々木定綱が、近江国の守護に任じられて、近江支配の基礎を築いた。
佐々木信綱の時代に、四家に分れ、
湖南六郡を佐々木六角氏が、 湖北六郡を京極氏が分国支配する体制になり、
戦国時代を迎えた。
佐々木城は、佐々木氏が最初に城を築いた城で、
今は石碑が建っているだけである。 」
< 直進すると、右側に鳥居があり、「おくのいん」 と書かれた石柱があるが、 岩がごろごろ転がっている異様な光景である。
奥の院の由緒
「 聖徳太子が巨岩の上に舞う天人を見て、その岩を天楽石と名付けた。
現在は奥の院として巨木の中に大きな岩が点在しており、
天楽石の磐座の内部には聖徳太子が彫ったと伝わる妙見菩薩を中心に五仏の仏が描かれている。 」
奥の院には行かず、そのまま直進すると、「ねずみ岩」 の表示があった。
その先は見晴らしがよく、観音正寺の境内に入ると、
両側に仁王像が祀られていた。
寺の案内には、 「 山門を持たない当寺の門固め 」 とある。
「寺のいわれ」 (寺のパンフレットによる)
「 観音正寺は今から千四百年前、聖徳太子が創建と伝えられる寺である。
聖徳太子は、天照大神と春日明神の二神のお告げにより、山上に涌く水で墨を摩り、千手観音の姿を描かれた。
その後、釈迦如来、大日如来の二仏が現れ、観音の化身である聖徳太子に、千手観音像を霊木で彫像するように、
との啓示を受け、聖徳太子は尊像を刻み、安置されたのが寺の始まりである。
本堂は平成五年に焼失し、本尊の千手観音像も焼失したが、
御前立の千手観世音菩薩は偶然にも焼失を免れ、その像を三十三年に一度、
扉が開かれる開帳秘仏として修復した。 」
境内にある釈迦如来坐像(濡仏)は、江戸時代より安置されたもので、 第二次世界大戦の際、供出されたが、 昭和五十八年に再建された、とあった。
観音寺城は本堂の裏側にあるが、入る道は釈迦如来のあるあたりで、 下に降りて境内に沿って歩き、本堂の裏側に出る。
「 観音寺城は、湖東平野の中心にある独立丘陵・繖山の南半分を中心に築かれていた。
南麓は中山道に面し、西麓は琵琶湖に面する、
水陸交通の要衝に位置する位置である。
六角氏が観音寺山に城砦を築き始めたのは、南北朝の争乱の頃と記録されているが、この時期の遺構は見つかっていない。
本格的に城郭としての整備が行われたのは、応仁の乱以降と考えられ、
大永五年(1525) の六角定頼による、江北出陣の際には、
城に留守居役を置くほど、整備されていたようである。
天文元年(1532)には、足利将軍を迎えているので、この頃、
居住性を重視した城が、ほぼ完成したと考えられる。
さらに、鉄砲の伝来による戦術の変化に対応し、1550年代頃に石垣を整備し、
今日見られる城構えになった。 」
細い坂道を上って行くと 「↑桑実寺 観音正寺↓」 の道標と、 「←屋敷跡(平井、落合、池田)観音寺城本丸跡」 の道標が建っている。
ここは左折して進むと、「←屋敷跡 ↑本丸跡」の道標があり、右側に石段がある。
これが本丸への大手道の石段だが、けっこう急な石段である。
石段を上った先には野つばきが咲いた空地があり、 「本丸跡」 の標柱が建っている。
「 本丸跡は空地で、木が多く茂り、見通しは悪い。
本丸は土塁と石垣で囲まれていたようで、
本丸奥(北部)の石垣は他の曲輪より石は大きいように思えた。 」
本丸石垣は隅部の算木積などは未完成だが、 初めて本格的に石で築かれた城石垣である。 説明板が立っていた。
説明板「観音寺城跡」
「 観音寺城は近江の守護佐々木六角氏の本城であって、
中世の代表的な大山城である。
築城は永い歳月を経て、応仁二年(1468)に完成し、さらに弘治年間、
鉄砲に備えて、大々的に石塁が改修されている。
永禄十一年九月、織田信長は当城に入城したが、城はそのまま残し、
佐々木氏に守らせたが、天正十年、安土城とともに滅亡した。
昭和44・45年、近江風土記の丘の関連として、本丸付近を整備し、
発掘調査し、当時の遺物や遺構が発見された。
全山いたるところに昔を偲ぶ遺構が数多く残っている。 」
搦手道の食違虎口(見付)にも石垣が残っていた。
虎口(出入口)の先に、「桑實寺」 の看板があり、
「ここから先は境内で有料」 の表示と、説明板が立っている。
説明板
「 桑實寺は養蚕を伝えたことからその名があり、
室町時代に足利義晴将軍が仮幕府を開いたところである。
本堂は国の重要文化財に指定されている。
本丸北部と桑実寺の間には、「伝長束丸」
の井戸跡や伊藤・小梅・松吉の郭があったとされ、その石垣が残っている。
桑実寺の上の 「伝伊藤丸」 の石垣は、
桑実寺から上がってくる敵を見張っていたのではないかと思われる。 」
桑桑實寺へは行かず、引き返す。
本丸の石段を下り、道標に従い、伝落合氏屋敷跡に向う。
右側に石垣が見えてきた。
正面の石垣の前には、「伝落合氏屋敷跡」 の標石が建っている。
平井丸虎口の石垣は、長辺二メートル以上の巨石によって築かれていて、 高さ約三・八メートル、長さは約三十二メートルにも及ぶ。
正面のの石段を上ると、 「伝平井氏屋敷跡」 の標石が建っている。
今は樹木が茂る林になっている。
「←ここは平井丸 大石垣まで5分」 の道標がある。
城跡図では、 宮津口見付 とあるところであろう。
道標に従って進むと、前方の右側と正面に石垣が見える。
ここは、 「伝落合氏屋敷跡」 の石垣と虎口(入口)である。
落合氏屋敷は、小さな曲輪が低い石垣で、区切られていたようである。
その石垣に沿って、南に下っていくと、右側に数段の石段がある。
「ここは池田丸 大石垣まで3分→」 の道標が立っている。
池田丸はかなり広く、周囲は土塁と石垣で囲まれていた。
平井氏屋敷跡と比べると、石は小さめであるが、周囲をしっかり取囲んでいた。
これまで見てきた、平井丸・落合丸・池田丸に共通するのは、 戦国時代の曲輪の特徴である、 馬出や枡形のような防御構造は一切ないので、 籠城には向かない構造である。
「 六角氏は、南近江の守護職を任じられたが、
応仁の乱以降、同族で北近江を支配する京極氏と対立する。
六角氏が、京極氏と違い、最後まで強力な戦国大名になれなかったのは、
支配権の違いである。
この地区の自立性の高い国人層に対する支配権を維持するためには、
連合政権的な支配形態をとらざるを得なかった。
そのため、六角氏は有事に際しては数度に渡り、観音寺城に籠城。
足利氏による親征を受けた際は、
一時的に観音寺城を脱出し、また城を奪還するなど、戦うことはせず、
一旦退いて勢力の回復を待って、帰城する戦術を常としていた。
永禄十一年(1568)、織田信長が上洛する際、近隣の城を猛攻するそのすさまじさに、六角義賢、義治父子は城を捨てて逃げ出し、
以後、廃城となったとされる。 」
西側の一辺に出入口があり、「ここは池田丸 大石垣まで3分→」
の道標があった。
その下に大石垣があるようだが、時間の関係で、ここで城の探索は終了した。
観音寺城へは、JR東海道本線「安土駅」から徒歩約40分で登城口、登城口から「伝本丸跡」まで徒歩約35分
観音正寺の近くまで車で行くことができるが、冬季は車両専用道路が閉鎖されることがあるので、事前確認を要する。
観音寺城のスタンプは、現地にはないので、安土駅前の安土城郭資料館(9時〜17時 月休) にて
訪問日 令和二年(2020)一月十八日