名所訪問

「 織田信長の居城 安土城 」  


かうんたぁ。


安土城は、織田信長が、「天下布武(天下統一)」 の拠点の城として、 琵琶湖湖畔の標高約百九十八メートルの安土山に、 天正四年(1576) から、七年の歳月をかけて築いた城である。 
信長が安土に築城したのは、琵琶湖の水運も利用できるための利便性に加え、 岐阜よりも、京に近く、北陸街道から京への要衝に位置していたことから、 越前や加賀の一向一揆に備えるため、あるいは上杉謙信の京上洛に備えるためなどが理由とされる。 
築城の総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、 縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。 
金、朱、黒などに彩られた五重七階の豪壮な天主、そして、総石垣の普請、麓に計画的に設けられた城下町などは、それ以後の城づくりに、 はかり知れない影響を与えた。 


JR安土駅の東北東にあり、徒歩二十五分で麓の駐車場に着く。 
駐車場右側に、「安土城址」の石碑と、「特別史跡安土城跡」  の説明板が建っている。 

駐車場の先の発掘された石垣が並ぶあたりが。大手門の跡である。
「石塁と大手三門」の説明板があり、 発掘調査時の写真などで、発掘された様子が掲載されていた。 

説明板「石塁と大手三門」
「 安土城の南口は、石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁でさえぎられています。  この石塁が設けられた部分は、東西約110mあり、 その間に4箇所の出入口が設けています。  通常の城郭では大手門といわれる出入口が1箇所だけです。  織田信長は、天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、  西枡形虎口以外の三門は、行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。 
東側石塁は、北側に溝がなく、基底幅は約4.2m です。  石塁は一直線でなく、大手門のところで、への字に屈曲しています。  石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたが、江戸時代の水田耕作などの開墾により、大半は消失し、築城当時の高さは不明です。  そのため、復元にあたっては、 南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。  東平入り虎口は、間口約5.5m、奥行4.2mで、柱を受ける礎石等が残っていないため、門の構造は不明です。
石塁の中に、詰められている栗石のない部分が、約30mあり、 この間に大手門があったと思われます。 
 (以下の文章は省略)                

その先から有料で、入城料を支払い、中に入る。

安土城址碑
     大手門跡      安土城登城口
安土城址碑
大手門跡
安土城登城口


登城用の杖が置かれ、大手道の説明板がある。
目の前の真直ぐ続く道が、安土城の大手道で、左右にある石組は、 武将が住んだ、虎口(出入口のこと)がある曲輪の跡である。

説明板「大手道」
「 目の前の真直ぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。  安土城の大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る、 城内では最も重要な道です  大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲り部分、主郭外周部分の三つで、 構成されています。 
大手門から山腹まで、約180mにわたって直線に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両脇に幅1m〜1.2mの石敷側溝があり、 さらに、その外側に高い石塁が築かれています。  道の東西には、複数の郭を雛段状に配した伝羽柴秀吉邸跡・ 伝前田利家邸等の屋敷があり、これらは書院造の主殿を中心に、厩や隅櫓等、 多くの建物で構成されています。  まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。 
山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザクに屈曲しながら、 延びています。 この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、 屈曲部に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが 特徴です。 
伝武井夕庵邸跡の北東付近から、大手道は東へ屈曲し、 主郭部の外周を構成している高い石垣の裾を巡り、 本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。  屈曲部は、幅4m程に狭まりますが、 本丸裏門近くでは6mを超える広い道になります。 
安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道と、 その延長上に聳える天主は、街道を行き交う人々に、 信長の力を強く印象付けたことでしょう。 」

大手道のところどころに、「石仏」 の表示がある。 よく見ると石仏である。

「  この石仏は築城の時に石材として使用されたものである。
城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取されたが、 石仏や墓石等も含まれていた。 」

大手道
     大手道      石 仏
大手道
大手道
石 仏


右側の高石垣の上にあるのは、ハ見寺(そうけんじ)である。

「 この場所は徳川家康邸跡と伝えられている。
ハ見寺は、織田信長により、百々橋口道に創建された寺院である。
本能寺の変では類焼を免れたが、 江戸末期の嘉永七年(1854)に、伽藍中枢部を焼失。 
その後、大手道のこの地に寺地を移し、今日に至る。 」 

山腹部分は傾斜が最も急なところで、ジクザクに屈曲しながら延びている。 

「 この付近は、踏石や敷石に石仏が多く使われている。 
また、屈曲部分に平坦な踊り場を設けることなく、踏石列を扇状に屈曲させているのが特徴である。 」

大手道は、「伝武井夕庵邸跡」の石碑のあたりから、 東に屈曲し、主郭部の外周を構成している高い石垣の裾を巡り、 本丸に直接通じる本丸裏門に至る。 
途中の樹木に「天守閣まであと百九十段。頑張って」という表示があり、 気合いを入れた。 

ハ見寺
     山腹部分      伝武井夕庵邸跡碑
ハ見寺(伝徳川家康邸跡)
山腹部分
伝武井夕庵邸跡 碑


ここから主郭部の外周道までは、道幅は四メートルと狭くなる。 
左側の一段高いところに、「伝織田信忠邸跡」 の碑がある。 

「  織田信長は、大手道の下部に、有力武将の居宅、 ここから上部に小姓や親族など、信頼の深い人の居宅を配置していた。 」

木立の中を進む。
石段を登ると道の脇に、「織田信澄邸跡」、「森蘭丸邸跡」 の石碑が建っている。 

少し険しい先に数段の石段があり、それを上ると高い石垣が囲む外周道がある。
ここには 「黒金門跡」の石碑が建っている。 
黒金門周囲の石垣はこれまで見てきた石塁や郭の石垣に比べ、 使われている石が大きく、石垣が高い。

説明板「黒金門跡」
「 ここは、安土城中枢部への主要な入口の一つである黒金門の跡です。
周囲の石垣をこれまで見てきた石垣や郭の石垣と比べると、 使われている石の大きさに驚かれることでしょう。  平成5年度の調査では、黒金門付近も天主とともに、 火災にあっていることが分かりました。  壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、 信長より選ばれた側近たちと、日常生活を送っていた、 安土城のまさに中枢部となります。
高く聳える天主を中心に、本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成される、 この一帯は、標高180mを越え、安土山では最も高いところにあります。
東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で囲まれ、 周囲から吃立しています。 高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、 山裾から通じる城内路道と結ばれています。 外周路の要所には、 隅櫓・楼門等で守られた入り口が、数カ所設けられています。  この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入口なのです。 
 (以下省略)                   」

伝織田信忠邸跡
     織田信澄邸・森蘭丸邸 跡      黒金門跡
織田信忠邸跡
織田信澄邸・森蘭丸邸 跡
黒金門跡


その先の左側には樹木が覆い被さる程繁茂しているが、下は高石垣である。

「  黒金門から天主に至る通路や、天主から八角堂への通路上には。 覆いかぶさるように建物が建ち並んでいた、といわれる。  今樹木が繁茂しているところに、建物があった訳で、 当時の人々は地下通路を通って、 天守に向うような錯覚を覚えたのではないだろうか? 
天主とともに焼失した郭群。  焼失した跡の痕跡を残る石垣が、今も残るのは頑丈だった証拠である。 」

黒金門を入ると、左側に伝長谷川邸跡、 右に進み、石段を二か所上がると、  右側に、仏足石 がある。

説明板「仏足石」
「 この仏足石は、大手道などに見られる石仏同様に、 築城当時単なる石材として集められ、石垣に使われて居たようすで、 昭和初期、登山道整備のとき、此の付近の崩れた石垣の中から、 発見されました。 仏足跡は御釈迦様の足跡を表現したもので、 古代インドでは仏像に先立ち、崇拝の対象にされて居ました。  わが国では、薬師寺のものが現存する最古のものとして有名ですが、 この仏足石は中世(室町時代中期)の数少ない遺物として、 大変貴重なものです。 」

左手の狭い石段を上がると、「二の丸址」 と「織田信長公」   の石碑が建っている。
奥まったところには、 豊臣秀吉が建立した、織田信長廟がある。

「 中にある慰霊塔は、 天正十年(1582)、京都大徳寺で信長の葬儀をとり行った羽柴秀吉が、 信長の菩提を弔うために建立したもので、この時、秀吉は、 ハ見寺の住職は代々織田家縁のものがつとめ、 信長の菩提を弔うようにといった、と伝えられる。 」

高く頑丈な石垣
     仏足石      織田信長廟
高く頑丈な石垣
仏足石
織田信長廟


二の丸の右手に進むと、広い場所に出る。
天主を仰ぐこの場所は、 千畳敷 と呼ばれ、安土城の本丸御殿があったところである。 
今は広場に樹木が生え、説明板が立っている。

説明板「本丸跡」
「 天主を眼前に仰ぐこの場所は、千畳敷と呼ばれ、安土城の本丸御殿の跡と 伝えられてきました。  東西約50m、北東約34mの東西に細長い敷地は、 三方に天主台・本丸帯郭・三の丸の石垣で囲まれ、南方に向かってのみ、 展望が開けています。  昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、 東西約31mX南北約24mの範囲で、 碁盤目状に配置された110個の建物礎石が発見されました。  7尺2寸(約2。18m) の間隔で、整然と配置された自然石の大きな礎石には、 焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸の柱跡が残るものがありました。  4〜6寸の柱を6尺5寸間隔で立てる、当時の武家住宅に比べ、 本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。 
礎石の配列状態から、中庭をはさんで、3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである、内裏清涼殿に非常によく似ていることが分かりました。
 (以下省略)                        」

清涼殿風の建物は、太くて高い床束が一階の床を支える高床構造だった、 と推定される。 
これらの建物は、実現しなかったが、天皇の行幸のために信長が用意した行幸御殿だった可能性が高いようである。 

その先の石垣の奥にあるのは三の丸の跡である。 
南に開けていたとされる展望は樹木に覆われて、下界は一部しか見えなかった。 

左手にある天守に登る石段を進むと、途中に 「天主台址」 の石碑がある。
その先に石垣で囲まれた中に、礎石が整然と並ぶ土地がある。 
ここが天主台跡である。

説明板「天守台跡」
「 安土城の天守台は、完成してわずか三年の天正十年(1582)六月に焼失し、 その後は訪れるものもなく、永い年月の間瓦礫と草木の下に埋もれていた。  昭和十五年に調査が入り、厚い堆積土を取除くと往時のままの礎石が現れた。 
これは、天主を支えていた礎石で、この上に外観の瓦層は五層、 地上六階、地下一階の全七階の建物が建っていた。 
今いる場所は、地階部分で、天主の高さはこれよりはるかに大きく、 二倍半近くあったが、石垣の上部の崩落が激しく、 その規模の大きさは確認できない。 
天主の内部は、 狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、 当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られた、といわれている。」

天主台跡の石垣の上に立つと、周囲の景色が一望できる。

信長も城下町とそこに通る下街道の旅人や町民を確認し、 また、比良山や比叡山の方を眺め、天下布武を目指していたのだろうと思った。

本丸御殿跡
     天主台跡      天主跡からの展望
本丸御殿跡
天主台跡
天主跡からの展望


「 信長は、天正五年(1577)六月、十三ヶ条の掟を定め、 城下町を楽市楽座諸役を免じて、商業活動の自由を認めた。 
翌年の天正六年正月、諸将を城内に招き、城内の見物を許す。 
十一月には、近江や京都から相撲取を集めて、興行する。 
翌天正七年(1579)五月十一日の吉日に、信長は安土城天主に移り、住居にしている。 
天正十年(1582)の元旦、諸将を礼金百文にて、ハ見寺と本丸御殿の見学を許す。 
五月十九日にはハ見寺にて能の興行をもよおす。 
翌二十日徳川家康一行を城中の江雲寺御殿で接待。 
五月二十九日に、本能寺に入り、六月二日に明智光秀により本能寺の襲撃があり、自刃した。 
六月五日、光秀が入城するも、十二日には山崎合戦で秀吉により、 光秀は逃亡途中に討たれ、 六月十五日、安土城天主は炎上して、焼失。 」

帰りは、百々橋口道を下る。 

「 百々橋口道は、百々橋から、信長が創建した寺院・ ハ見寺の境内を横切って黒金門に至る道で、天主と城下町を結ぶ道であった。 
城を訪問する人々はこの道を利用して信長のもとに参上した、と記録にある。」

林の中の石敷きの階段を降りて行くと、空地があり、 その前に 「ハ見寺本堂跡」 の石柱と、説明板が建っている。 

説明板「ハ見寺跡」
「 ハ見寺は、織田信長によって、安土城内に創建された本格的な寺院です。  天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、  城内を訪れた人々の多くが、この境内を横切って、信長のところへ参上したことが 数々の記録に残されています。  本能寺の変の直後に、天主付近から炎上した際には、 類焼をまぬがれることができましたが、 江戸末期の嘉永七年(1854)に惜しくも、伽藍中枢部を焼失してしまいました。  その後、大手道脇の 伝徳川家康邸跡 に、寺地を移し、現在に至るまで、 法灯を守り続けています。 
平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から、 時代を異にする多くの建物跡が発見されました。  南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、 その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。  本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。  境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の二王門・表門から、 本堂の前を通り、東の裏門に通じています。  建立に当っては、これらの建物の多くが、甲賀郡を中心に、 近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。 
その後、豊臣秀頼によって、本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と、 庫裏等が増築されました。  江戸時代になると、伽藍の東側に、長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、 寺の生活を支える、多くの建物が建てられました。 」

三重塔は本堂跡前方の石段を少し下ったところにある。
嘉永七年(1854)の火災を免れた貴重なものである。

旧な石段を下ると、楼門式の山門・二王門があり、説明板が建っている。

説明板 重要文化財「ハ見寺二王門」
「 正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を三間一戸楼門といって、 実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛力士をまつるため、 二王門と名付けられている。 
この門は、棟木に元亀二年(1571)の建立を示す墨書銘があるが、  織田信長が天正四年(1576) 築城に着手し、あわせてハ見寺を建てる際し、 甲賀郡から移築したと伝えられる。 
 (中 略)           
木造金剛力士像は応仁元年(1467)の作で、重要文化財に指定されている。 
 昭和五十二年二月十日     安土町教育委員会          」

以上で、安土城の見学は終了である。

本堂跡
     三重塔      二王門
ハ見寺本堂跡
三重塔
二王門


安土城へはJR東海道本線「安土駅」から徒歩約20分で登城口、登城口から天守台まで徒歩約25分  

訪問日    平成二十年(2008)九月十三日




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