彦根城は、家康の命令により、天下普請として、
井伊直継により、慶長八年(1603)から二十年かけて、彦根山に築城された平山城である。
豪華華麗な三重三階の天守は、城郭国宝の第一号に指定された。
彦根城は日本100名城の第五十番に選定されている。
JR彦根駅から彦根城へは歩いてもたいしたことないが、彦根駅からタクシーに乗り、 二の丸駐車場前で降りた。
ここには、佐和口多聞櫓と馬屋があり、国の重要文化財に指定されている。
道の反対にあるのは表門橋で、橋脇に 「琵琶湖八景 月明彦根古城」 の石柱が建っている。
「 彦根城は、徳川四天王の一人・井伊直政が、
琵琶湖畔の磯山の地に、城を築こうとしたことに始まる。
直政が死んだため、築城は計画のみに終わった。
慶長八年(1603)、徳川家康は、彦根藩主の直継が幼少なので、
直政の遺臣で、家老の木俣守勝と相談し、
琵琶湖に浮かぶ標高約五十メートルの 彦根山(金亀山) に築城することを決め、
公儀御奉行を三名を派遣し、 尾張藩や越前藩など七か国十二大名に、天下普請を命じた。
慶長九年(1604)から築城を開始し、佐和山城や大津城などの周辺の廃城から、
用材や石材などを調達、急ピッチで進められ、 慶長十二年(1607)に,、
天守など主要部を完成させた。
しかし、城下を含む城の完成には二十年あまりの年月を要した。 」
天下普請で行なれた彦根城は
本丸・二の丸・三の丸と、北側に山崎曲輪で、構成された連郭式平山城である。
表門橋の先には江戸時代には表門があった。
両側の石組の大きさ、そして、堀を囲む水掘を石垣が続く姿には、圧倒された。
橋を渡ると、右折して進む。
江戸時代には枡形になっていて、その先両側の石組と共に、表門を形成していたのである。
その先に、城登城の料金所があるが、手前に 「登り石垣」 の説明板が建っている。
説明板「登り石垣」
「 登り石垣は、山の斜面を登るように築かれた石垣で、
ここでは、高さ一メートル程の石垣が、鐘の丸に向って伸びている。
石垣に向って左側が溝状に窪んでいるのは竪掘で、
登り石垣とともに、斜面を移動する敵の移動を阻止する目的で築かれている。
かって、石垣の上には、さらに瓦塀が築かれていたという。
登り石垣は、朝鮮出兵の時、日本軍が築いた倭城に見られる城郭遺構だが、
日本では洲本城や松山城など限られた城にか見られない。 彦根城には五ヶ所築かれている。 」
左側には、上に伸びていく登り石垣があった。
その先にある彦根城博物館は、表御殿跡に建っている。
表門道を上っていくと、両側に石垣がある。
その上に橋が架かっていて、
ここは山を切り開いて谷底のようにしている 「大掘切」 である。
敵兵は坂を上ってきても、上から弓や鉄砲で攻撃されてしまうしくみである。
大堀切の奥には、小生が上って来た道とは違う道、 城の正門のある大手門橋から、大手門を経て、上ってくる大手門道がある。
大手門道を下に降りてみる。
大手門道を進むと、大手門からの入城者用の料金所があったので、ここで引き返したが、
その先に大手門の石垣が残っている。
大手道の石段を上ると、先程下り始めたところが見え、高石垣が聳えていた。
大堀切の先にある石段を上る。 これは、鐘の丸の虎口(出入口) の石垣である。
「
鐘の丸には、その先右側にある石段を上っていく。
鐘の丸の正面玄関が鐘の丸虎口で、 往時は城門と番所があり、
石垣の上には、多聞櫓と塀で厳重に防御されていた。 」
石段を上った突き当たりの石垣の下に、 鏡石 の説明板がある。
「 攻め手に威圧の意味を込めて、城門手前の石垣に、
二つの鏡石が配置され、威風堂々とした面構えだった。
遺構調査では、石垣の上に建っていた二階御多聞櫓と、
御多聞櫓の二棟分の基礎が、良好に残っていた。
また、石垣の一部は佐和山城で使われたいたものである。 」
上ったところにある、草ぼうぼうの空地は、鐘の丸跡 である。
「 鐘の丸は彦根城の中で、最も早く完成した曲輪である。
ここは独立した空間で、関東地方に多くある馬出しである。
馬出しは平地に造られることが多く、
このような高いところに造られるのは珍しい。
築城当時は鐘楼があったため、鐘の丸と称したが、
鐘の音が城下北方に届かなかったため、太鼓丸に移されたという。
鐘の丸には、大広間や留守居などの建物があったが、
大広間は、享保十七年(1732)に解体されて江戸に運ばれ、
彦根藩江戸屋敷の大広間に転用されたと伝えられる。 」
鐘の丸の反対側に、下で見た橋があるが、橋は敵が攻めてきた時は切り落される構造になっている。
堀切の上の架け橋を渡った突き当たりに天秤櫓がある。
この櫓は、高石垣の上に建っている。
「 天秤櫓は、長い多聞櫓の左右の端に、二重二階の一対の隅櫓を構え、
あたかも天秤ばかりのような独特な形をしていることから、 天秤櫓 と呼ばれた。
この形式はわが国城郭で、彦根城ただ一つといわれる。
この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城の大手門を移築したと伝えられる。
」
天秤櫓台石垣は、天秤櫓の向かって、右が 「牛蒡積み(打込みハギ積み)」 、 左半分は、嘉永七年(1854)に、中央部から西方の石垣を、 足元から積みかえるほどの大修理を行った時、 「落し積み(切り込みハギ積み)」 で積み直された。 今回の調査でも、確認できたという。
江戸時代には、門をくぐった先は太鼓丸であった。
「 太鼓丸は、本丸と鐘の丸に挟まれたゆるやかな斜面に立地し、 南に天秤櫓、東西は土塁の両斜面に、石垣を設けた石塁で防御され、 その上に塀が建っていたといわれる。 」
左には、鐘楼と茶屋がある時鐘櫓があり、茶屋は鐘楼の管理棟だったという。
「 時報鐘は、十二代藩主井伊直亮の弘化元年(1844)に鋳造されたもので、 当初、鐘の丸にあったが、 鐘の音が城下の北隅に届かなかったので、時鐘櫓に移された。 」
石段は四十センチ〜五十センチ位の幅なのは、駕籠を意識したものか、 防御のためなのか、わからない。
石段を上り切ると、右手に本丸に入る太鼓門がある。
ここに至る登城道は、右折、右折と、百八十度回転するようになっている枡形である。
「 太鼓門は、本丸の表口を防御する櫓門で、 ] 築城の時、廃城になった佐和山城から、移築されたと伝わり、 太鼓門櫓と続櫓は国の重要文化財に指定されている。 」
太鼓門をくぐった先も枡形になっている。
門をくぐって振り返ると、櫓門としては珍しく高欄付きの廊下になっている。
江戸時代には枡形の先に、もう一つ、門があった筈だが、残っていない。
その先は本丸で、正面に天守閣が見える。
「
江戸時代には、天守閣の他、藩主の居館の御広間や宝蔵、そして、
着見櫓などの建物が建っていた。
慶長十一年(1606)、天守が完成すると、井伊直継が入城したが、その後も工事が続けられ、
元和八年(1622)に、彦根城は完成した。
今も残るのは天守閣だけで、その前にひこやんのボードが建っていた。 」
彦根城天守は、現存十二天守の一つである。
明治維新の廃城令や彦根空襲の戦災をまぬがれ、
旧国宝保存法による城郭国宝の第1号に指定された。
「 華麗な装飾を施された白壁の天守は、
三層三階地下一階の複合式望楼型で、 牛蒡積み(ごぼうづみ) といわれる石垣の上に
造られている。
屋根には切妻破風、入母屋破風、千鳥破風、唐破風を多用に配して、
二階と三階には華頭窓(花頭窓)、
三階には高欄付きの廻縁を巡らせた、 変化に富んだ美しい姿をしている。
天守は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げられていく方法で作られていて、
全体としては、櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式をとっている。
昭和三十二年(1957)から昭和三十五年(1960)に行われた天守解体修理の時、
見付けられた墨書きのある建築材から、天守の完成は慶長十二年(1607)年頃とされる。
この天守閣は、京極高次が城主を務めた大津城の四重五階の天守閣を移転し、
三重に縮小したもので、
天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されているという。
天守三階には破風の間という小部屋がある。
派風内に設けられた破風の間には鉄砲狭間が切ってあり、
防御のための小空間になっている。
この部屋はその下屋根の軒近くまで突き出ているので、
屋根面の死角が少なく、防御に有効だった。
階段は敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。
また、はしごのような階段はただ上の小さな掛かりが掛かっているだけなので、
敵が登ろうとすれば、蹴って階段を落とす構造となっている。 」
城郭考古学者、奈良大学教授の千田先生は、
「大津城の五階建ての天守を彦根城では三階にしたのは、家康の江戸城や徳川家の名古屋城の五階に対する遠慮からだろうとのこと、 また、色々な破風を付けて派手で華麗にしたのは、石田三成の佐和山城が豪華で壮大であったので、 地元民に対し小さくて立派だねえ、といわせるものと造ったのだろう。 」
と、述べておられる。
天守の左側を通り抜けると西の丸跡である。
今は樹木が茂っていて、西の丸井戸が残るのみである。
「 西の丸の北側にあるのは小谷城から移築したと伝わる、国の重要文化財の三重櫓である。
西の丸三重櫓は本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、東側と北側にそれぞれ一階の続櫓をくの字に付設している。
>訪れた時、九月に近畿を縦断した台風の被害により、西の丸のある北に進めず、西の丸三重櫓には行けなかった。
なお、西の丸の先に深い空堀があり、木橋で渡るとそこにするのが馬出しである。
前述の鐘の丸と共に、これらの馬出しが、彦根城の本丸を強固に守っていた。 」
天守北面から右に下る石段があり、黒門山道を下る。
その下にあったのが井戸曲輪である。
門跡の石垣と思えるところに、「井戸曲輪」 の説明板がある。
説明板「井戸曲輪」
「 黒門から本丸に向う坂道の途中に設けられた小曲輪である。
弧状に築かれたこの曲輪の北東隅には塩櫓が築かれ、周囲は瓦塀で巡っていた。
塩櫓の近くには、方形と円形の桝が現存していて、
石組溝で集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸だったと考えられている。
曲輪の名も、これに因んで名付けられた。
井戸曲輪は、黒門から侵入する敵兵に対する守りと同時に、
城を守る兵士の水と塩という生命維持に必要な物品の備蓄庫でもあった。 」
井戸曲輪の上下の石垣は、高さ十メートルを超える高石垣である。
特に下方の石垣は、十九・四メートルあり、彦根城の石垣で、
もっとも高く堅牢な構造になっている。
黒門山道を下ると、虎口が現れる。
江戸時代には枡形虎口を形成し、門もあったが今は石垣が残っている。
「 黒門跡には入城料を支払う小屋があり、黒門橋は土橋だが、
江戸時代には木橋だったと思われる。
黒門橋からの内掘は、一部、腰巻石垣になっている。
なお、黒門の北側には山崎曲輪があり、筆頭家老の木俣守勝の屋敷があり、
三重櫓が建っていたが、明治初期に破却された。
筆頭家老の木俣家は、一万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、
月間二十日は、西の丸三重櫓で執務を行っていたという。 」
橋を渡ると、 「井伊直弼の生誕地」 の石柱と、その隣に、 「槻御殿」 の説明板が建っている。
説明板「槻御殿」
「 槻御殿(けやきごてん)は、第四代藩主井伊直興が延宝五年(1677)に着手し、
同七年(1679)に完成した。
下屋敷として築造されたものである。
木材はすべてケヤキで、その華麗さは各大名も驚嘆したものである。
大老井伊直弼は、文化十二年十月二十九日に、ここで生まれた。
けやき御殿は、数棟の東屋からなり、今日に至るまで、しばしば修理が加えられたが、
往時のおもかげをとどめている。
第十二代藩主井伊直亮が、文化年間(1804〜1817)に、楽々之間を増築して以来、
正式名のけやき御殿 より、楽々園 の方が有名になった。
楽々園の名は 「 仁者は山に楽しみ、智者は水を楽しむ 」 の意からとったとされ、
民の楽を楽しむという、仁政の意をもっているともされる。 」
中に入ると、玄関があり、式台が見える。 左に、身分の低い者の玄関 (内玄関) がある。
右に回るとあるのが、御書院である。
「 第十一代藩主・井伊直中は、文化九年(1812)の隠居に際し、
大規模な増改築を行った。
御書院も、その一つである。
御書院は御上段(十畳)、上之間段(十二畳)、御次之間(十五畳)、御小座敷(十三畳)の四室と二辺に設けられた御入側で構成されている。
御上段は一間半の床に一間の棚と明床を備え、床の大壁や小壁は金地に小文様を散らして、豪壮の中にも可憐な趣が勝っている。
各部屋とも天井は棹縁天井で、長押を回し、斜格子の欄間を配する。
屋根は入母屋造りの柿葺きである。
御書院の南西は御鈴之間と鎖口などの部屋につながり、両部屋とも楽々園の御殿の表向きと裏向きを限る部屋であり、
御書院が奥向きの建物だったことを示している。 」
御書院の右奥にある建物は、地震の間(お茶座敷) と 雷の間 である。
「
雷の間は工事中のようだった。
その隣には今はないが、楽々の間があり、
江戸時代にはその先は琵琶湖の水が入っていたので、夏は涼しいかったようである。 」
地震の間(お茶座敷)と雷の間の前は庭園になっている。
「 井伊直中時代の楽々園は現存する建物が建つ面積の五倍程の大規模な建物が建ち、
表書院、能舞台、奥御座之間、御亭「安楽亭」、侍女詰所などがあった。
井伊家の藩主は江戸詰で参勤交代がないため、藩主時代には彦根にはこられなかったが、
隠居するとここで十分楽しめたのではないか? 」
楽々園庭園の南に玄宮園がある。
玄宮園と楽々園は大名庭園として評価され、「玄宮楽々園」 として、
国の名勝に指定されている。
「 江戸時代、これらの庭園は松原内湖に面し、入江内湖も望めたが、
今は埋め立てられて、
玄宮園の池の東北隅に船着場跡があるだけである。
池の東側からは苔むした臨池閣と風翔台越しに天守が見え、絶景である。
井伊氏は加増を重ね、寛永十年(1633)には、
譜代大名の中では、最高となる三十五万石の所領となった。
明治の廃城令で各地の城が破壊、売却されていく中、
明治十一年十月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際、彦根城の保存を命じたため、
破却は逃れた。
巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、
天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説とがある。
玄宮園は、中国湖南省洞庭湖にある玄宗皇帝の離宮庭園を参考に、作庭されたとされる。
天守を偕景として、中心の入り込んだ池には四つの島と九つの橋が架かり、
畔には臨池閣、風翔台、八景亭などの建物が配される。 」
鳳翔台は鳳凰が大空を舞い上がる場所という意味で、名付けられた高台である。
ここでは抹茶がいただける。
以上で彦根城の探訪は終了である。
彦根城へはJR東海道本線彦根駅から彦根城の表門橋までは徒歩約10分
訪問日 平成三十年(2018)十月二十七日