JR長浜駅の西口を出ると、四百メートル程で、豊公園に着く。
豊公園は、豊臣秀吉が築いた、長浜城の跡地に開設されている。
「 長浜は、古来から、琵琶湖海運や北陸道の交通の要衝であった。
当初の名は、今浜である。
室町後期に、 北近江守護職・佐々木高氏(法名 京極道誉) が、当地に築城したが、
跡継ぎ闘争により、廃城となった。
道誉の家臣の浅井長政が、北近江守護職を継ぎ、
今浜城の支城である小谷城を居城として、北近江を治めた。
長政は、、越前朝倉氏の庇護を受け、織田信長の妹・お市の方を嫁にもらい、
領地の安泰を図ったが、信長に背いて、天正元年(1573)に、滅ぼされた。
信長は、その戦いで活躍した羽柴秀吉に、浅井氏旧領の 湖北十二万石 を与えた。
秀吉は、小谷城に入城するも、交通の不便な小谷城を廃し、今浜城跡に新城を築いた。
地名も、今浜から信長の名から一字拝領して、長浜に改めた。 」
長浜城はJR長浜駅の南西の琵琶湖湖岸に造られた水城である。
近年、琵琶湖の中に、それを証明する、石垣の一部が発見された、という。
訪れた時、琵琶湖湖面を見たが、確認できなかったが、・・・・
「 羽柴秀吉は、琵琶湖北部の今浜の湖岸に城を築くことにしたが、城造りも始めてのことであった。
小谷城で使われていた資材や、竹生島に隠されていた材木などを見つけ出し、
それらを使用して築城を開始し、天正三年から四年に完成し、入城した。
長浜城は、湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に、船の出入りができるようになっていた。
また、小谷城下から、商人などを移住させて、城下町を整備した。
また、地名を長浜へ変更した。 」
公園の中央に、「長浜城本丸跡」 の石柱があり、その先に建っているのは、 昭和五十八年(1983)に、 犬山城や伏見城をモデルに、再建された模擬天守である。
「 天正十年(1582)に開かれた清洲会議で、
長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家だった。
勝家の甥・柴田勝豊が、長浜城の守将として、入城するが、
同年末には、勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏。
天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が入り、六年間在城。
徳川幕府が誕生し、慶長十一年(1606)、長浜藩が設立され、内藤信成・信正が城主になるが、
大坂の陣後の元和元年(1615)、内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城となった。
天下普請で築城された彦根城には、長浜城と佐和山城の多くの用材が使用され、
家康の手により、長浜城は徹底的に破壊された。 」
長浜城の跡は、現在、豊公園、長浜城歴史博物館、国民宿舎豊公荘になっている。
長浜城の遺構として、城跡に残るのは、一部の城石と堀、太閤井戸のみである。
城跡に植えられた桜は、「日本さくら100選」 に選ばれている。
桜の写真は、後日、写したものであるが、満開で美しかった。
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公園内に、 「 これより東長浜領 これより南長浜領 」 と、 記された 「旧長浜領境界」の石碑 と、説明板がある。
説明板
「 長浜は、秀吉によって、特別に、町屋敷の年貢米三百石を納めることを免じられた。
この特権は、徳川幕府でも認められて、他の地域を区切るための石碑が、江戸時代のはじめ、
長浜町のまわりに、三十数本建てられたといわれる。
しかし、今はわずかに十余本を数えるのみで、そのうち、
もとの位置にあるものは数本のみである。
この境界碑は、長浜の年貢免除の範囲を知る上で、貴重である。
この境界碑は、「これより東長浜領これより南長浜領」 と記され、
もとは長浜町の北西限に建っていたと思われる。 」
最後に、鉄砲鍛冶の里 「国友」 を訪れた。
北陸自動車道の長浜IC近くで、 姉川の東にある国友鉄砲資料館の前に、
「鉄砲鍛冶の里 天領・国友」 の説明板が建っている。
説明板「鉄砲鍛冶の里 天領・国友」
「 国友では足利将軍からの制作の命により生産が始まる。
以来、国友鍛冶は信長、秀吉の保護を受け、徳川家康は天領として統治。
国友鍛冶は御用鍛冶として分業制度を導入して大量生産につとめた。 」
また、「国友鉄砲鍛冶」 と書かれた丸い石碑がある。
石碑の文面
「 国友村に次郎助という若者かじがいた。 年の頃はわからないが、若者のような気がする。
かれは螺子(ねじ)についてさまざまに想像し、試しに刃の欠けた小刀でもって大根をくりぬき、
巻き溝つきのねじ形をとり出し、もう一度大根にねじ入れてみた。
これにより雄ねじと雌ねじの理をさとり、老熟者に説明すると、一同、大いに次郎助をほめた。
その名が国友鉄砲記にとどめられていることからみても、
かれの名と功は感嘆されつつ伝承したものかとおもった。 (司馬遼太郎「街道をゆく」より) 」
国友村は、江戸時代に入り、太平の世になると、鉄砲の需要がなくなり、
鍛冶師たちは、金工彫刻や花火などに、活路を見出していった。
金工彫刻は、臨川堂充昌と、その弟子たちによって、技が磨かれ、
今も長浜の曳山に、その粋を見ることができる。
「天文一貫斎旧居跡」 の石碑がある、立派な建物がある。
「 江戸時代後期に、東洋のエジソンと呼ばれた、科学者国友籐兵衛(一貫斎)の住んでいたところである。
彼は、自作の望遠鏡で、日本で宇宙をのぞいた人で、国友は日本の天文学発祥の地とも、
いわれる。 」
長友は、小さな集落であるが、歩いていると、歴史上貴重な場所であることが、 実感できた。
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長浜城へはJR琵琶湖線長浜駅から徒歩5分
訪問日 平成二十年(2008)五月十六日