賤ケ岳は信長の後継者争いを柴田勝家と羽柴秀吉をした古戦場である。
賤ケ岳戦い
「 越後の雪も解け始めていたので、佐久間盛政は、柴田勝家の先陣として、一万五千の兵を率いて、近江の柳ヶ瀬に討って出た。
天正十一年三月五日、柴田勝家は、越前北の庄を発し、九日、
近江柳ヶ瀬に着陣、直ちに江越の山々に布陣する。
先陣の佐久間盛政は、四月二十日午前一時、行市山を発して、権現坂を経て、
払暁、大岩山の中川清秀の砦を奇襲し、秀吉側の中川清秀は奮戦するも、戦死した。
同日、羽柴秀吉は、大垣にて、大岩山の敗戦の報を聞き、午後二時、大垣を発ち、
夜半までに、全軍木の本本陣・田神山に着陣。
翌二十一日午前二時頃、田神山を下り、黒田観音坂を経て、払暁、盛政軍に、奇襲攻撃を開始。
秀吉自ら、重臣の七本槍を引き連れ、大音峠を経て、賤ケ岳猿ヶ馬場に来て、
退却する盛政軍を迎え撃つと、盛政軍は敗逃する。
これが、 世にいう 「賤ケ岳合戦」 である。
賤ケ岳の頂上から北側の中腹、及び、余呉の湖畔では、両軍の雄叫び、死闘が繰広げられ、余呉の湖が真赤に染まった。
秀吉軍は追撃を続け、狐塚にある柴田勝家軍と対戦。
勝家ひたする奮戦したが、忠臣・毛受庄助の身代わりの忠告に従い、一時、北の庄に落ちる。
忠臣・毛受兄弟は、身代わりで、奮戦するが、林谷山に於いて戦死。
羽柴秀吉、長駆して、北ノ庄を攻め落とす。
二十三日、柴田勝家と妻のお市の方は自刃する。
勝家の辞世の句 「 夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 」
お市の方辞世の句 「 さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな 」
賤ケ岳南麓から、リフトで、山頂に上る。
リフトを降りると、 「賤ケ岳合戦戦没者霊地」 の石碑と説明板が建っている。
説明板
「 数万の兵士の命が散ったといわれ、当時、南麓の大音の里に、二十四軒の農家があり、
合戦の死傷者の霊を弔う石仏が点在していた。
その後、これらを一角に集めて供養していたが、
昭和五十七年にここに移転し、年一度の山開きの日に、供養祭を開いている。 」
さらに登っていくと、右手に、旧北国街道が通る家並が見えた。
さらに登ると、展望が開け、「史跡賤ケ岳七本槍古戦場」 「新雪賤ケ岳の大観」 と、 書かれた木柱が立っていた。
展望台には、朽そうになった、「賤ケ岳古戦場」 の説明板が建っていた。
説明板
「 織田信長が本能寺で明智光秀のために滅ぼされた本能寺の変後、
天正11年(1588)4月 信長の重臣、柴田勝家と、羽柴秀吉 (のちの豊臣秀吉) が、
この賤ケ岳を中心として、
信長の後継者争いをし、 秀吉が勝利をおさめ、 天下取りを決意したといわれています。
また、この合戦において、秀吉の近習加藤清正ら7人が、槍をとって真先に進み、
柴田軍を突きくずした、といわれていることから、賤ケ岳の七本槍として、
よくしられています。 」
ここから見た余呉の湖は、鏡のように静かだったが、 戦いの時には、 血で真っ赤に染まったというから、 どれだけ激しい戦いだったか、 想像ができた。
賤ケ岳リフトへは、北陸本線木の本駅からバスで15分、大音下車 またはタクシーで5分
訪問日 平成二十年(2008)五月十六日