小谷城は、浅井亮政により、琵琶湖を一望できる伊吹山系の小谷山に築城された城で、浅井亮政・久政・長政三代の居城になった。
日本100名城の49番に選定されている。
小谷城への公共交通手段がないので、自家用車で、向かった。
湖北町観光協会の看板がある休憩所 (現在の小谷城址ガイド館?) の脇の駐車場に車を止めた。
木製の説明板 「国指定史跡 小谷城跡」
「 小谷城は、戦国乱世の大永四年(1524)、
浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、
久政を経て、 三代長政が、織田信長に抗して敗れる 天正元年(1573) までの50年間、
浅井氏が根拠としたところであり、 六角氏との戦いや姉川の戦いにも、
この城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
また、この城は、信長の妹お市の方の住した所であり、
その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあって、
ひとしお旅情をそそるものがあろう。 (以下略) 」
説明板には、なかなか味わいのある文章で書かれていた。
又、「小谷城跡案内図」 があり、城の歴史と城の輪郭図 が描かれていた。
「 小谷城は、標高四百九十五メートルの急峻な山の小谷山の山頂に築かれ、 前面には虎御前山・山脇山・丁野山、西に高時川が流れ、 背後に伊吹山系の山々が控える自然の要害に囲まれた山城である。 」
「大手道」 と書かれた道標の道を直登する。
ここには火の用心の木柱に 「 浅井氏の三代の夢 草生いて 城址の辺り 法師ぜみ啼く 」 と書かれていた。
なお、途中までは伊部林道が通っていて、番所跡の手前まで、車で行くことができる。
それでは城を探索する意味がないので、山をジクザク上る車道を横断しながら上っていくと、
「出丸」 があった。
説明板「出丸」
「 小谷城最前線の基地。 二段に構えた陣所を囲む土塁は今尚往時の姿をとどめ、
中世山城の特徴を示す貴重な遺構である。
この出丸は、三段の削平地から成り、周囲には土塁が築かれ、二ヶ所に虎口の跡が認められる。
山頂部の城跡のように整備はされていないが、中世城郭の様子を良く残している。 」
大手道を更に上ると車道に合流。 道脇にしめ縄で囲まれた大岩があった。
少し行くと、「望笙峠」 の標識があったが、ここからは琵琶湖が一望でき、
竹武島が見えた。
出発地の案内板に 「 小谷城は北国街道、中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり、 湖上交通を利用すればはるか湖南、湖西、京都に通じる、地の利を占める上に、 江北三郡を一望におさめ得る要所である。 」 とあったが、 正にその通りで、姉川の合戦は眼下で行われているのが見られたのでは、と思った。
少し行くと車道は終わるが、その手前の左手に、「金吾丸跡」 の石柱と説明板がある。
その先には、「間柄峠」 の石柱と説明板が建っている。
「 大永五年(1525)七月江南の六角定頼が小谷城に来攻した際、 浅井亮政を助けるため、越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。 越前軍が布陣した地を金吾丸、真柄峠とするが、地元では古くから間柄峠として伝わる。 」
車道の終わりには、数台車が置けるスペースがあり、 湖北町観光協会が建てた 「小谷城跡案内図」 がある。
道なりに少し行くと、「番所跡」 の標石が建っている。
その先の三叉路には、「小谷城跡本丸跡」 の道標がある。
矢印に従い進むと、「御茶屋跡」 の標石がある。
木立の中を少しづつ高くなっていく道を行くと、
「馬洗池」 の標石があり、近くにみずたまりのようなものがある。
ここは、 御馬屋の曲輪 があった場所である。
説明板「馬洗池・御馬屋」
「 馬洗池は湧水ではないが、往時は年中水が絶えなかったという。
西隣に土塁で囲まれた馬屋があり、北の柳の馬場に通じていて、馬関係の一画である。 」
かなり急な道になると、右側に 「首据石」 の標石があり、大石があった。
説明板「首据石」
「 この石の上に罪人の首をさらしたという。
天文二年(1523)一月初代城主亮政は六角氏との合戦の際、
家臣今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺しここにさらしたという。 」
その先の三叉路には、「右赤尾美作守屋敷」 の標柱と、「赤尾屋敷→」 の道標がある。
説明板には、
「 赤尾屋敷 ここから約百メートル先に重臣赤尾氏の二段になった屋敷がある。(以下略) 」 とあった。
右折して進むと、少しじめじめした所に、「赤尾屋敷跡」 の標石が建っていた。
「 三代目城主・浅井長政は、織田信長の妹お市の方と結婚し、 信長と義兄弟になった。 元亀元年(1570)、織田信長が浅井との同盟している越前の朝倉氏を攻めると、 義兄信長から離反し、織田・徳川連合軍を朝倉軍とともに姉川で迎えうった。 浅井・朝倉連合軍は、姉川では敗れ退陣したものの、その後、志賀の陣で優勢となり、 一進一退の攻防を繰り返した。 一度は和睦を結んだが、天正元年(1573)大嶽城を攻め落とされ、 ここを守っていた朝倉軍は退却し、朝倉義景は越前国大野で自刃してしまう。 織田信長により小谷城へ総攻撃をかけられ、天正元年(1573)八月二十八日、 長政はこの屋敷に入って、自刃し、二十九才の生涯を閉じた。 」
屋敷跡の一角に、「浅井長政公自刃の地」 という石碑が建っている。
三叉路に戻り、直登すると南北に長く、長方形の台地に出る。
ここは、桜の馬場・大広間・本丸と、続く尾根伝いの幾段もの削平地である。
「桜の馬場」 の石標の近くに、石垣で囲まれた中に、「浅井氏及家臣供養塔」 がある。
また、一段高いところに、 「小谷城跡」 の標柱と、
大きな 「小谷城址」 の石碑が建っている。
その先にあるのは、「大広間跡」 の標柱である。
説明板「大広間跡」
「 一名千畳敷という、約三十五アールの広さがある。
主殿の跡と推定され、その昔多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。
礎石、貨銭、陶器片その他が発掘された。 」
大広間跡の一画で、桜が咲いていて美しい。
その先の一段と高くなっているところに、説明板「本丸」がある。
説明板「本丸」
「 鐘の丸ともいう。 石垣をめぐらした約十二メートルの高さに、
約三十メートルに二十五メートルの広さをもつ。
落城寸前まで城主長政が居住していた処である。
彦根城西の丸三重櫓は元小谷城天主と伝える。 」
本丸の石垣は、大部分が自然崩壊で崩れていた。
曲輪を登ると、下の大広間跡がかなり下に、見えた。
城主長政はここから、大広間のある主殿や桜馬場を見ていたのだろう、と思った。
本丸北側は、谷のようになっていた。
これは 「大堀切」 と呼ばれる大きな空掘である。
説明文
「 大堀切は、深さ約十メ-トル、幅約十五メ-トル、
長さ約四十メ-トルにおよぶ、大きな空堀である。
これは、小谷城が本丸までしか作られていなかったころ、
北の尾根筋を切断するために築かれたものと思われる。 」
本丸を大広間跡側に降り、本丸の左側を歩いて行くと、「中丸跡」 の石標がある。
「 中丸は三段からなっていて、東西の幅が約三十メ-トル、 南北幅が約六十メ-トルの曲輪で、 落城の時、浅井七郎・大野木茂俊が守っていたと伝えられ、 ここで、秀吉に約束書きを渡したといわれている。 」
北東の隅に、「刀洗池」 の石標があり、わずかに淀んだ水があるが、 城内の井戸の一つであったと考えられる。
更に上っていくと、「京極丸」 の石標と説明板がある。
ここは、小谷城落城の最大ポイントになったところである。
京極丸の周囲には、土塁が良く残っている。
「 大永四年(1524) 浅井亮政が、主君京極高清、高廷父子を迎えた処である。
天正元年(1573) 八月二十七日夜半、
この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て、侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され、
小丸の久政と、本丸の長政との連絡を絶たれた。 」
更に上ると、「小丸」 の石標と説明板が建っている。
説明板「小丸」
「 二代目久政の隠居後の居所である。
久政は、天正元年八月二十七日、信長の先鋒秀吉軍の進攻を受け、
鶴松太夫の介錯により、四十九才を一期として、ここに切腹して果てたのである。 」
桜の馬場から本丸・中の丸・京極丸・小丸と歩いてきた。
小谷城の主郭は、小谷山の尾根に、直線的に築かれ、
この先にある最高地点の山王丸へと続いている。
小丸からは険しい坂道だが、少し歩くと、「山王丸」 の石標と説明板がある。
説明板「山王丸」
「 山王権現(現小谷神社) が祀られていたところ。
海抜三百四十五メートルの高所にあり、詰ノ丸 と思われる。
東南部の巨石による野づら積の積み石垣は興味つきない遺構の一つである。 」
そのまま進むと、小谷山の北側で、下に落ち込んでいて、道は左に向う。
ここには、「 哀史秘ぶ石垣崩れ萩乱る 」 という歌が、書かれた木柱が立っていた。
その先には、 「←至 大嶽 清水谷」 の道標が建っている。
進んでいくと、 その先は谷に落ち込むような急な下り坂になっている。
このまま進むと、下った先に、 六坊跡 があり、峰続きに進むと、上りになって、 清水谷に沿った対岸の尾根の最高地点に、 天正元年(1573)には朝倉軍が守っていた、大嶽(おおづく)城跡 がある。
小生は、ここで小谷城の探訪を辞めて引き返すことにした。
小谷城は、後方防備のため、
大嶽城から先の尾根に、福寿丸・山崎丸などの曲輪を築いていたのである。
小谷城を訪れての感想だが、自然の地形を余すことなく、
巧みに取り込んだ要害であることがよく分った。
また、秀吉軍が尾根に連なる曲輪の側面を突破したことで、
小谷軍の戦闘能力が殺がれたことが致命傷になり、また、お市の方とその姫君の引き渡し
交渉にも繋がったのだな、と思った。
小谷城へは、JR北陸本線「河毛駅」から徒歩で約30分、
麓の上り口から本丸までは徒歩で約40分
バスでは、河毛駅から湖北町コミユニテイバス小谷山線で、約20分「小谷城址」下車
本丸までは徒歩で約40分
旅をした日 平成二十年(2008)四月十二日