千早城は、元弘二年(1332)に、
楠木正成が挙兵した時、楠木城(上赤坂城)とともに、中心的山城として築城された。
標高約六百六十メートルの金剛山中腹に築かれた山城で、
金剛山の尾根の麓の下赤坂城が出丸、 中腹の上赤坂城が本丸、
千早城が、詰の城となる、曲輪群を形成していた。
千早城へ行くため、南海電車の河内長野駅から、南海バスに乗る。
約30分で、金剛登山口バス停に到着した。
進行方向に進むと、左側に石段があった。
「
千早城の参道の石段で、左側に 「日本百名城(千早城)千早城跡 ↑ 千早神社まで約25分)」 と書かれた、 まさしげ君のイラストがある道標が建っている。
その隣には、壊れかけた武者人形があった。 」
右側には、 「国史跡千早城跡」 の説明板が立っていた。
説明板 「国史跡千早城跡」
「 千早城は、元弘二年(1332)、
楠木正成公の挙兵の時、楠木城(上赤坂城)とともに中心的山城として築城されました。
太平記の記述によれば、
寄手は数百万騎、味方は僅かに千騎足らずであったにもかかわらず、
「 誰ヲ憑ミイツヲ待ットモナク、城中ニ怺(こら)ヘテ防ギ戦ヒケル、
楠ガ八ツ程コソイカメシケレ」 とあるように、
冷静沈着であった正成公は、その武略と智謀に富んだ奇策によって、
百日間のろうじょう戦に耐えました。
この城は、いわば、鎌倉幕府の討幕、そして、
建武の中興の原動力となった難攻不落の名城です。
(以下略)」
石段を上り始めたが、石段の一段が高いので、歩きずらい。
少し行くと金属製の一の鳥居があり、その先には常夜燈が建っている。
この石段は千早神社が出来て参道として造られたものと思われる。
一の鳥居までの石段は整然と整理され、幅広い石段だったが、除々に狭くなり、
道も曲がりくねって続いている。
十五分程歩くと左側に、 明治三十一年に建てられた 「楠公之功興比山倶」 の大きな石碑が建っている。
石段の高さは低くなったが、少し幅が広い部分もあり、また、 石が不ぞろいで、土がむき出しになっているものもあって、歩きずらい。
麓から五百数十段を上ると、整備された石段の先に看板が見え、石段が終わる。
ここは、四の丸曲輪で、 「千早城跡」 の看板があり、灯篭が建っている。
「 今は営業していないが、
かっては参拝者を相手にした茶屋があったところである。
その先は広くなっていて、
縦に長い玉子形と円錐を組み合わされたように形状で、
四の丸曲輪だったところである。 」
その先に、常夜燈と狛犬が祀られていて、その先にニの鳥居があった。
「 千早城は、ここから南に三の丸・二の丸・本丸と続く。
城の南は妙見谷、 北は風呂谷、 西が大手口で、
今上ってきたバス停との高低差は、百五十メートルである。
東方だけが、尾根伝えに金剛山に通じる、という天然の要塞である。 」
ニの鳥居をくぐると、道の両側が狭くなる。
そのさきの途中に凹んでいるところが、堀切の跡 のようである。
この付近に金剛山登山道から上ってくる道があり、合流する。
その先には右に下る道があるが、
直進する石段が続く道の周囲が、三の丸曲輪跡である。
「 この道には、「千早城」 の道標があり、
その先の常夜燈の先には急な石段がある。
三の丸曲輪は、石段を上った区画と一体で形成される。 」
石段を上ると右手奥に 社務所のような建物がある。
左側には、「史跡 千早城跡」 と書かれた、 昭和十四年建立の大きな石碑が建っていて、その横には、武者人形があった。
「 千早城は、昭和九年に 「赤坂城跡(下赤坂城跡)」、
「楠木城跡(上赤坂城跡)」 と共に、国の史跡に指定された。
戦前の国定教科書には、楠正成とその子、正行の桜井の別れが載っていて、
後醍醐天皇に仕えた忠臣として英雄視されていた。
石碑もその時代に建てられたものである。 」
その先には小さな祠が祀られている。
正面の石段の左手前に、「大阪市住友吉左衛門」 の石柱と、 「千早神社」 の道標がある。
石段を上っていくと、二の丸曲輪跡である。
「
ここはかなり広く、左側に手水所があった。
千早神社の三の鳥居の左側には、城址記念碑が建っていた。 」
三の鳥居の手前の左側に、「標高634米」 を示す板と、 千早神社のいわれを書いた板がある。
千早神社のいわれ
「 千早神社は、千早城本丸に、八幡大菩薩を祀り、
千早城の鎮守として創建された。
後に、楠木正成、子の正行、妻の文子を合祀し、楠社 と称した。
明治七年に再建、明治十二年には、更に 祠を建て、千早神社と称する。
昭和七年に現在地(空地になっていたニの丸跡)に社殿、社務所を新築する。
昭和九年三月十八日、千早城、赤坂城、楠木城が一体で国の史跡に指定された。 」
石段を上り、社殿でお参りをして、右側に出ると 「本丸跡」 の表示がある。
社殿の裏側の小高い丘陵部分が本丸部であるが、
「立ち入り禁止」 の標札が建っていた。
「 本丸は、千早神社の奥の一段と高い標高六百七十三メートルのところに、円状の曲輪とその下に撥状の帯曲輪を設けていたようである。
本丸に如何なる施設があったか分からないが、
物見台になっていたことは間違いないだろう。 」
その周囲を探ろうと石段を降り、
左折すると 「←茶宴台経由金剛山登山道」 の道標が建っていたので、
その道を行ってみた。
左側は急斜面の丘で、雑木林に囲まれていて、奥の方が確認できない。
この上に、円状の曲輪がああり、この付近は帯曲輪跡だろう、と想像した。
しばらく行くと、コンクリート製の休憩所みたいなものがあった。
これが茶宴台なのかなと思った。
道はその先で、急な下り坂になる。
この先は楠木正儀の墓の手前で、金剛山登山道と合流する。
「 千早城の非常時には、この山道を使って金剛山頂へ逃げる、 または、大和側(奈良県御所市、五條市)へ行く着くことも、可能になっていた。 」
この先には行かないで、引き返す。
帰りは三の丸の堀切跡付近で、右側に下りる道があるので、
この道を降りていくと、金剛山登山道に出た。
「 ここには、 「←金剛山 千早神社↑」 の道標と、 「千早城」 の標札があり、
杉に注連縄がさがっていた。
この坂道は左右にくねくねした山道で、
行きに石段で四の丸へ行くことにこだわらないのなら、
この道で上った方が楽だと思った。 」
金剛山へ登る人達がいた。
左折し、道を下って行くと、
右側に 「←日本100名城スタンプ 山の豆腐まつまさ」 の大きな看板がある。
入ると、左側に食事処があり、入口入ったところに、スタンプが置かれていた。
スタンプを押してから、千早神社の御朱印を入手した。
「
千早神社の社務所は閉鎖され、ここで入手するようにあったが、
神社の預かりものなので、あらかじめ用意されたものを手渡され、
日付けは各自で記入して欲しいといわれた。
なんだか、妙だが、いたしかたないか? 」
帰りは富田林駅行きの金剛バスにのったが、途中、千早赤坂役場と中学校前を通り、
富田林の駅に着いた。
今回の城の旅はここで終わりである。
千早城へは南海電車河内長野駅から南海バスで約35分、金剛山登山口下車、
四の丸まで徒歩30分、四の丸から千早神社まで徒歩20分
近鉄富田林駅から金剛バスで35分、金剛山登山口下車、
千早城のスタンプは千早城山麓の食事処まつまさに置かれている
ご参考 「 太平記巻七(千早城) 」 には、
「 此の城は東西谷深く切れて、人の上に上がるべき様もなし。
南北は金剛山につづきて、しかも峯そばたちたり。
されども高さ二町ばかりにて、廻り一里に足らぬ山城なれば 」 とある。
「 元弘元年(1331)、後醍醐天皇が、笠置山で挙兵すると、
この地の豪族楠木正成は これに呼応し、当地で挙兵したが、
にわか造りの下赤坂城は、大軍の鎌倉軍の攻撃に耐え切れず落城。
正成は、金剛山に潜伏。 翌年、正成は下赤坂城を奪還して、
再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城、千早城に後退して、抗戦を続けた。
この千早赤坂の戦いで、上赤坂城は二月二十二日、
平野将監入道、楠木正季が鎌倉方の阿蘇治時、長崎高貞、結城親光らと戦い、
閏二月一日に落城した。
一方、楠木正成は、詰めの城である千早城に、千人ほどで籠城して、数々の奇策で対抗、
城を囲む鎌倉幕府の大軍に大石や大木を落したり、
火攻めにするなどして、幕府側に予想以上の苦戦に追い込んだことで、
全国的に倒幕の気運が高まった。
千早城に、鎌倉幕府軍が足止めされている間に、新田義貞が東国で挙兵したことで、
鎌倉幕府は滅亡した。 」
太平記にはわら人形に甲冑を着せるなどの様々なアイデアを用いて、
幕府軍に応戦したことが記されている。
千早城は、その後の南北朝時代に、畠山氏に攻められて落城し、廃城になったようである。
訪問日 令和元年(2019)六月十七日