名所訪問

「 沖縄戦 南部の戦跡めぐり 」  


かうんたぁ。



昭和二十年(1945)、第二次世界大戦の終結時、 沖縄では米国を主力とした連合軍の攻撃により、日本軍は北部・中部で抵抗するも敗戦を続け、 ついに、軍の司令部を首里から、南部の摩文仁に移し、最後の時を迎えることになりました。 
当時、南部には、疎開していた民間人も多く、また、学生も学徒動員により、働いていて、 兵士と民間人がごちゃまぜの状態になっていた。 
軍の最終決戦の選択は、 民間人だけが投降を許される雰囲気とはならず、多くの民間人が、自決または特攻により、 命を落とすという、悲惨な出来事を起きたのである。


◎ 南部の戦跡めぐり

那覇空港から南部戦跡へは、国道331号を南下する。 

途中、糸満を通る。 
この道は埋め立て地に立地しているようで、港に架かる橋を渡る景色は絶景である。 

時間があるので、 道の駅糸満 ゆくら に寄った。 
農協が経営する建物に入ると、新鮮な野菜が山積みされていた。 
内地ではセット販売が主流だが、御地はばら売りが普通のようで、 うりの種類も多く、これでチャンプルを作るのだろうと思った。 

漁協が運営する建物では、魚のまま売られていると思い訪れたが、案に反して、 切り削いて刺身にしたり、伊勢エビをフライにして1500円で売るなどしていて、 持ち帰ればそのまま食べられるようになっていたのには、驚いた。 

糸満港
     うりの山      伊勢エビ1500円
糸満港
うりの山
伊勢エビ1500円


学徒女学生隊のひめゆりの塔に向う。 

しばらく走ると、左側にひめゆりの塔があった。
道の反対のお店やさんの駐車場に、車を止めた。  ここは自由に停めてもよいようである。 
園内に入ると、「沖縄戦とひめゆり学徒隊」 の石碑があり、以下のようなことが書かれていた。

「 昭和二十年(1945)三月、米軍の上陸作戦開始とともに、 沖縄の男女学徒が戦場に動員された。 
三月二十三日、南風原の沖縄陸軍病院に配属されたのは、 沖縄県立第一高等女学校と、沖縄師範学校女子部の女学生で、 それぞれ、 乙姫、 白百合と名付けられた。 
その両方の名前から、 姫百合、戦後の平仮名で、 ひめゆり と呼ばれるようになった。 
戦場の病院は、丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕に、ベットを備えただけの施設で、 砲煙弾雨の中、学徒は、医者と看護婦の下、 負傷兵の看護・水汲み・伝令・食糧の運搬などを担った。  米軍の攻撃が、日本軍司令部がある首里まで迫り、 五月二十五日、陸軍病院の南部への撤退が始まった。  学徒たちは、砲弾と悪路のなか、真壁、伊原地区までたどり着いた。  病院としての機能を失った後も、六つの壕に分散して避難し、 伝令や水汲み、食糧の確保の任にあたった。  六月十八日夜、ひめゆり学徒に、突然、 「解散命令」 が下された。  負傷した学徒は、壕に取り残され、外に放り出された学徒たちは、砲弾の飛び交う中、 逃げまとい、追い詰められて、多くの命が失われました。 」

ひめゆりの塔は、 沖縄戦末期に、 沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑である。 
まっすぐ進むと、正面に 「沖縄戦殉職医療人之碑」 が立っていた。 
その左側には、「陸軍病院第三外科職員之碑」 があり、 その下に戦没者の氏名が書かれていた。 

沖縄戦とひめゆり学徒隊碑
     沖縄戦殉職医療人之碑      陸軍病院第三外科職員之碑
沖縄戦とひめゆり学徒隊碑
沖縄戦殉職医療人之碑
陸軍病院第三外科職員之碑


その左手に、 「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」 の石柱があり、その右側に穴が見える。
その奥の白い石碑が、 「ひめゆりの塔」 である。 

説明板「ひめゆりの塔」
「 伊原第三外科壕  − このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、 南風原町にあった沖縄陸軍病院第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、 南部への撤退後に避難した場所。 1945年6月19日朝 の 米軍の攻撃により、 ガマに入っていた 約100名中80余名 ( うち42名がひめゆり学徒と教師 ) が亡くなった。  ひめゆり学徒の最期の地の一つである。 
ひめゆりの塔 − 沖縄戦で亡くなった女師 ・一高女 の教師 ・ 学徒の慰霊碑。 
終戦翌年、付近の収容所にいた真和志村民により、建立された。 」

その奥に、ひめゆり平和祈念資料館がある。 

ひめゆりの塔
     伊原第三外科壕(自然洞窟)      ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔
伊原第三外科壕 (自然洞窟)
ひめゆり平和祈念資料館


この後、平和祈念公園へ向かう

平和祈念公園は、糸満市の摩文仁の丘を南に臨み 、南東部に美しい海岸線を眺めることができる台地にある。 

「 当該地区は、我が国の歴史上唯一の地上戦が繰り広げられた、 沖縄戦の最後の激戦地であったことから、昭和四十年に琉球政府により、 沖縄戦跡政府立公園の指定を受けた。  昭和四十七年までに、参拝道・噴水広場・平和祈念広場等が出来、 本土復帰後の昭和五十年六月に、沖縄県立平和祈念資料館が開館した。 
公園中央部のエントランス広場には、平和の礎や平和祈念資料館、平和の丘、 沖縄平和祈念堂等の施設がある。 
本園の東南部一帯の丘陵地は、沖縄戦で最後の激戦地となった場所で、 国立戦没者墓苑や各県の慰霊塔が建立されている。 」

中央口から入ると、駐車場があり、左側の高台に沖縄平和祈念堂が建っている。 
正面はエントランス広場である。 
その奥に半円形の施設があり、中央に平和の火、そして、手前に平和の礎がある。 
とにかく広く、園内を100円で周回する電動カーが走っていた。

沖縄平和祈念堂
     平和祈念資料館      式典広場
沖縄平和祈念堂
平和祈念資料館
式典広場


日本の敗戦から七十八年という年月が経過し、戦争時代の経験も持つ者は少なくなった。 
この摩文仁の丘も、今日は良い天気で、すがすかしい、健康な空気が流れている。
しかし、1945年の六月二十三日からの沖縄南部残存日本兵掃討作戦により、 この地で日本兵が九千人弱、 民間人の戦没者の内、六割が沖縄南部で亡くなっている。 
戦争は悲惨なもので、二度とあってはいけないと、この静寂な式典広場で、思った。 


訪問日    令和三年(2021)十月二十九日



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