那覇国際空港から、国際通りへ行くのには、ゆいレールか、バスである。
以前はバスか、タクシーを利用していたが、道路が渋滞するので、
モノレールであるゆいレールを利用した方がよい。
「 小生が、初めて沖縄に行ったのは昭和五十年で、海洋博が開催された年である。
本土復帰に関係する仕事をしていて、沖縄へ行ったのであるが、交通手段が自家用車・タクシー・
バスしかなかった。
本土復帰に伴い、日本政府は、高速道路などの新たな道路建設と、既存道路の拡張と改修を
積極的に推進した。
政府の沖縄振興策の結果、沖縄本島中南部へ人口や産業が集中し、那覇市内の道路交通が渋滞し、
バスの円滑な運行が出来なくなってきた。
それを打開するため、計画されたのが都市型モノレールである。
計画から二十五年後の平成十一年(1999)、駅の工事に着手し、工事が進められ、
平成十三年(2001)、那覇空港ー小禄間で試運転開始。
平成十五年(2003)、那覇空港ー首里間で営業を開始した。
現在は、首里の先・てだこ浦西まで延長して、運行されている。 」
ゆいレールに乗り、県庁前駅で下車。 そこから、国際通りを歩く。
「 国際通りは、県庁北口交叉点から、安里三叉路までの、
約千六百メートルの通りである。
昭和二十三年(1948)に建てられた、アーニ―パイル国際劇場があったことから、 国際通り と呼ばれるようになった。
昭和二十八年(1948)、道路の改修工事が終えた頃から、大繁華街に変身し、
戦後の焼け野原から、目覚ましい発展を遂げたことと、
距離がほぼ一マイルであることから、 奇跡の一マイル と、呼ばれた。 」
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小生は、昭和五十年代に、沖縄の本土復帰の仕事で、ほぼ毎月、沖縄へ出張していた。
当時は三越や沖縄を代表する会社など、地域生活に密着する施設が国際通りに並んでいた。
今は様相を変え、観光用の施設が並ぶ商店街になっている。
「 沖縄は、米国統治下では外貨が自由に使えないため、
自家用車の普及が遅れていた。 そのため、交通はバス・タクシーが交通の主力であった。
沖縄の本土復帰により、内地から安い中古車が流入し、バス主体からマイカー主体にに変貌する。 国際通りは、駐車場の問題から、大型ショッピングセンター等は郊外に、
生活に密着した店舗は、裏通りの平和通りか、その周辺に移って行った。
、
国際通りは、その穴埋めに、土産物店・有名飲食店・ホテルなどが増加し、
観光客向けの通りに変貌して行った。 」
今回、歩いてみると、撤退した三越の名はバス停に残すのみで、
跡地は、国際通りのれん街 になっていた。
通りの店を覗くと、店名は違っても、類似の商品を扱う店が多い。
更に、同系列の店舗が二号店・三号店・・ と、同じ通りに、乱立している。
「 この戦術が、新型コロナの流行による観光客の激減で、
大きなダメージを受け、多くの店が、臨時休業か、閉鎖に追い込まれた。
それに追い打ちをかけるのが、那覇以外の地で、独自開発商品を販売するようになったこと、
と、旅行客が宿泊拠点を沖縄の海の素晴らしいホテルに移す傾向にあることである。 」
訪れたのは土曜日の昼頃であるが、通りには人がほとんどいなかった。
ホテルの数が増えたなあ、と思いながら、人数の少ない国際通りを歩く。
「
那覇観光の目玉は公設牧志市場と、首里城である。
古いが昔懐かしい雰囲気の公設牧志市場は、 建て替えで、 仮設営業になっており、
首里城も焼けてしまった。
外国人の来日目的の一つは、免税店であるが、これは空港でも対応ができるので、
コロナが終わっても、国際通りに、かってのような賑わいは難しいのではないか?、と、
今回、国際通りを歩いて見て、感じた。 」
ステーキ屋も客が減ったことから、昼営業を止めていた。
国際通りのれん街に入り、昼飯を食べた後、ゆいレールの牧志駅まで歩き、
久しぶりの国際通りの散策は終了した。。
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訪問日 令和三年(2021)十月三十日