今帰仁城 (なきじんぐすく) 、別名、北山城は、 十四世紀頃から約百年に渡り、
北山王の居城であった。
昭和四十七年(1972)に、国の史跡に登録された。
平成十二年(2000)十一月には、首里城跡などとともに、
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 として、
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
今帰仁城は、沖縄県国頭郡今帰仁村にある。
那覇空港から、沖縄自動車道を北上し、数久田ICから国道58号に入り、名護市内を、
名護東道路(71号)、国道58号、と通り、、、
伊差川ICから国道58号を北上し、伊尾次(北)交叉点で、国道505号を西に向かう。
今泊交叉点で左折して、千六百メートル走ると、今帰仁城跡駐車場に到着する。
距離 94km、 所要時間 約1時間40分
今帰仁村文化センターは、少し高い所にあり、その下に今帰仁グスク交流センターがあり、 日本100名城のスタンプの捺印できる休憩所・入場券の販売所と売店がある。
今帰仁城跡に入るには入場料がいる。 販売所で入場券を購入し、入場するしくみになっていた。
「今帰仁城跡」の石碑が建っていた。
「 琉球王国が誕生する以前 ( 十四世紀頃)に存在していた王国 ・
北山(ほくざん) は、今帰仁城(グスク)を中心に、その勢力は本島北部から奄美大島まで及んだといわれる。
今帰仁城は、 約百年に渡り続いた北山王国を統治していた北山王の居城で、
発掘調査により、 石作りの城壁は十四世紀中頃に構築されたことがわかり、
日本国内より百年以上も前に石積みの城は始まっていた。 」
入城すると、 「世界遺産登録資産の石垣石材」 の説明板がある。
近くに、「首里城跡の石材」 、「勝連城跡の石材」 、「中城城跡の石材」 の標板と、
岩石が置かれている。
説明板「世界遺産登録資産の石垣石材」
「 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 として、世界遺産に登録されたグスクは、
今帰仁城・首里城跡・勝連城跡・座喜味城跡・中城城跡の5つの遺跡があります。
いずれのグスクも、城壁は石垣で築かれています。
石垣の構築技術は、中国や朝鮮など大陸からの影響と考えられていて、
これを琉球独自に発達させたものとされています。
この石垣には、 石灰岩 という石が使われていますが、
それぞれのグスクが立地する土地によって、石灰岩の種類が異なるため、
各城で個性ある石垣が築かれています。 」
今帰仁村文化センターによると、 「 今帰仁城は、沖縄の他のグスクによくみられるような白い石 (琉球石灰岩) ではなく、 硬く割れにくい古期石灰岩でできた城壁で、 地形に沿って曲りくね、雄々しく立ちはだかっている。 」 という。
なだらかな坂になっていて、上っていくと道の右側に、今帰仁城のジオラマがあった。
以下、今帰仁城を取り巻く歴史を述べる。
「 沖縄で農耕が始まったのは、十一世紀頃からで、
国のような社会構造が形成されたのは、十二世紀以降である。
本土や中国や朝鮮に比べて、大変遅かった。
隣国との交流が活発になり、陶磁器や鉄器が手に得られるようになり、
また、稲作が始まって、漁労 採集から農耕社会に移行していった過程で、
集落が形成されるようになり、 集落を統率する 按司(あじ)と呼ばれるリーダーが台頭した。
十三世紀頃になると、勢力争いが生じて、グスク(城) が造られるようになった。
この時期をぐすく時代と呼ぶが、 島内に三百以上のぐすくがあった。
十四世紀 (本土では室町時代初期にあたる時期) に入ると、
各地の抗争も、三つの勢力に集約され、三山時代を 迎える。
北部地域では、強力な力を誇った 今帰仁城の按司が、 本島北部各地の按司を束ね、
十四世紀前半に、北山王国が誕生させた。
中国の史書に 「 琉球国 北山王 (はにじ)、 中山王 (みん)、 南山王 (はんあんち)
の三王が 登場する。
三山とは、北山( ほくざんー今帰仁城 ) 、 中山( 那覇市北部の浦添城 ) 、
南山(糸満市の南山城) である。
北山王は,、沖縄本島の北部を支配下とし、運天港を使って、中国と貿易をしていた。
三山時代の終焉は、本島南部の一地方の無名の佐敷の按司(あじ) 尚巴志(しょうはし)
により、行われた。
尚巴志(しょうはし)は、南山最強の按司である島添大武寧を倒し、更に、中山王を倒して、
中山をも支配した。
移住してきた中国人を重用し、政治の中枢に配して、中国との交易を積極的にすすめ、
財力を増し、他の二山を凌駕する勢力となった。
また、居城を浦添城から首里城に移した。
北山王は、応永二十三年・永楽十四年 (1416)、本島統一を目論む、尚巴志連合軍と、
合戦を交えたが、腹心 ・ 本部平原 (もとぶへいはら) の裏切りにより、
今帰仁城内に火の手があがり、北山王は切腹して果て、三代続いた、北山王国は消滅した。
尚巴志は、その後、南山も倒して、沖縄本島の統一を成し遂げた。
この時代を第1尚氏時代といい、七十年間続いた。 」
道案内の表示に沿って進むと、左側に見える城壁は 外郭である。
「 高さは二メートル前後と、比較的低い石垣が、
延長数百メートル蛇行して続いているが、
これが発見されたのは、昭和五十年、沖縄海洋博覧会の工事中のことである。
石垣が積まれた箇所が発見され、その後、城郭の一部であることが確認され、
昭和五十四年には、 国の史跡・今帰仁城跡 の一部として、追加指定された。 」
「古宇利殿内」 という説明板の脇に、 祠がある。
説明板「古宇利殿内」
「 沖縄の方言で、古宇利のことを 「フィ」 と言うことから、
「フィ殿内」 と呼ばれています。
祠(ほこら) は、古宇利島のある北東の方位を向いていて、
今帰仁村唯一の離島である古宇利島の人々が、旧8月に遙拝します。
また、今泊の神行事の時には、今帰仁ノロが拝みます。
平成二十二年に、古写真を基に移築、復元されました。 」
城壁に囲まれた中にある入口は、今帰仁城の正門 ・ 平郎門である。
「 十八世紀に編纂された 「琉球王国由来記」 に
「 北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス 」 と掲載されている、今帰仁グスクの正門である。 昭和三十七年(1962)に修復された。
門の天井部分は、大きな一枚岩を乗せてあり、両側(左右)に狭間が設けられていて、
堅牢なつくりとなっている。 」
平郎門を通り抜けて、大庭に向かって左側部分は、「大隅 」 と呼ばれているところである。
説明板「大隅 」
「 平郎門をくぐって、左側に広がる城郭で、堅牢な城壁が周囲を囲んでいる。
広い郭で、かつて兵馬の訓練を行ったと伝えられている。
現在は立ち入り禁止だが、御内原からその全域が眺められる。
大隅には城外への抜け道といわれている洞穴がある。
実際に抜け出せるのかは不明だが、
危険なため、現在は金網で入口を塞いで立ち入り禁止である。 」
大隅には蜜柑や桜が植栽され、内地より早く咲く沖縄の桜が咲いていた。
平郎門(へいろうもん) からはずれた右側のくぼ地になったところを、「カーザフ」 という。
「 ここは一段と低い所で、その両側は切り立った谷底になっていて、 露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったと想像できるが、 現在は大掛かりな工事中だった。 」
平郎門をくぐって、右側にある道は旧道で、グスクの奥に向う、本来の通路である。
主郭に向ってまっすぐに伸びる七五三形式の石階段は、1960年代に整備されたものである。
説明板「旧道」
「 平郎門から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。
本来の登城道は、平郎門から城内に向って石階段の右手側にあります。
昭和三十五年(1960) の発掘調査によって、石敷きの小道が発見されています。
旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、
敵兵が攻め入っても、大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないように、
工夫されたつくりになっています。 」
平郎門からまっすぐ伸びた七五三形式の階段を登りつめると、開けた広場に出る。
ここは、「大庭」 とよばれる、政治や宗教儀式が行われたと考えられる場所で、
かっては、ここを囲むように、正殿・北殿・南殿が配されていた、といわれる。
説明板「大庭(ウーミヤー)」
「 政治や宗教儀式が行われたと考えられる場所で、
首里城の 御庭 (うなー) と同様の機能を有していた郭と、考えられています。
七五三の階段を登ってきて、大庭を取り囲むように、 正面には正殿(主郭)、 右側は南殿、
北側の一段高いところに北殿跡があったと考えられます。
北殿跡には、建物跡 と見られる礎石が今も残っています。 (以下略) 」
「志慶真乙樽」 の歌碑が立っている。
説明板「志慶真乙樽(しげまうとうたる)の歌碑」
「 今帰仁城 しもなりの九年母(くにぶ)
志慶真乙樽が ぬきやいはきゃい 」
大意: 今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に、「乙樽」 という美女がいました。
黒髪が美しい乙女の噂は、国中に広がり、「今帰仁御神」 と呼ばれ、
時の山北王も側室として仕えさせました。
なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、
高齢の王には、長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も、
世継ぎを授かることばかりを祈っていました。
やがて、王妃が子を授かり、そのことを、季節はずれの蜜柑が 実ったことに例え、
子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。 」
大庭の東南側に、 カラウカー と呼ばれる、くぼんだ岩石があり、常時水をたたえている。
かって、女官たち髪を洗い、水量で吉凶を占ったと伝えられる。
大庭の北側は、 北殿跡 (ハサギミヤー) と呼ばれ、現在も香炉が設置され、
重要な祭祀の場になっている。
説明板「ツイツギ (城内下之御嶽) 」
「 今帰仁城跡内には、 御嶽のイベ (最も聖なる場所) が二つあります。
大庭の北西にあるツイツギは、「琉球国由来記」 (1713年) に、 「城内下之嶽」 、
神名 「ツイツギノイシズ御イベ」 と記され、旧八月の グスクウイミ という祭祀の時、
今帰仁ノロ が五穀豊穣等を祈願します。
御内原にある、 テンチジアマチジ ( 「城内上之御嶽」 ) や、 神ハサギ跡 と共に、
祭祀場として拝まれます。 」
大庭の北側に位置する一段高い広場は、 御内原 と呼ばれ、 かっては、今帰仁グスクに仕えた女官の生活の場と、伝えられている。
説明板「御内原(ふーちばる)」
「 北殿跡の北側にある一段高いところを、御内原と呼んでいます。
この場所は、伝説では女官部屋があったと伝えられており、
城内で最も重要な御嶽 (イベ) があります。 」
御内原の隅にある、自然石が高さ一メートル位の石垣に囲まれた拝所は、 テンチジアマチジ (城内上の御嶽) である。
「 今帰仁城で、一番神聖な場所とされたところで、 オモロで、「今帰仁(みやぎせん)のカナヒヤブ」 と謡われた。 」
大庭の東側、一段高くなった郭を、主郭 (俗称本丸) と呼んでいる。
「 正殿など城、内で最も主要な建物があった場所とされる。
主郭には、多くの礎石が現存し、一部移動させられた石もあるが、
かつての建物の姿が想像できる。
四年間の発掘調査の結果、十三世紀末から十七世紀初め頃まで、
機能していたことが明らかになった。 」
御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて、 今帰仁城壁のほぼ全てを望むことができる。
「 国頭の山並みや、離島の伊平屋・伊是名島も眺めることもできる。
特に晴れた日には、
沖縄本島北端の辺戸岬の先 22km洋上にある、与論島 (鹿児島県大島郡) を見ることができる。 」
「 今帰仁城は、北山王が滅ぼされた後も、中山王が北部地域の管理のため、
北山監守を派遣し、監守の居城として利用された。
その際、北山王国の建造物は破壊され、首里城と同じように、正殿などが整備された。
慶長十四年(1609)、薩摩藩は、琉球王国に侵攻し、奄美大島・徳之島・沖永良部島・
そして、沖縄本島を攻略する。
その攻撃の第一目標となったのが、今帰仁城である。
島津軍は、運天の浜から上陸し、今帰仁城は炎上してしまう。
四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、
独立国家の琉球王国は、中国からの冊封体制をとりつつ、
徳川幕藩体制の中に組み込まれる時代に入った。
そして、1665年、監守が首里へ引き揚げて、今帰仁城は廃城となりました。 」
主郭の一角にある、火神の祠の前に、城監守が残した、「 山北今帰仁城監守来歴碑 (さんほく なきじんじょう かんしゅ らいれき ひ ) 」 が建っている。
説明板 「山北今帰仁城監守来歴碑記 」
「 今帰仁按司十世宣謨が、 1749年、
首里王府から、今帰仁城の永代管理と、典礼を司ることを許されたことを記念し、
故地を顕彰すべく、建立したものである。
今帰仁監守は、 尚巴志が、1416年に、山北王を滅ぼした5年後に、
第二子 尚忠 (しょうちゅう) を派遣に始まり、
その後、 尚真王代に、第三子 尚韶威 (しょうしょうい) を派遣し、
以後、 同家が代々世襲で、現地の監守を勤めました。
碑文の内容は、三山時代の事績から、説き起こし、
今帰仁按司が、今帰仁城を立派に治めたことを記し、
後世の子孫に伝えるための顕彰碑となっています。
碑文は、保存状況も良く、琉球王国時代の地方監守の歴史を知る上で、貴重な資料です。 」
説明板 「火神の祠 (ひのかんのほこら) 」
「 火神の祠 は、
今帰仁城監守が、首里へ引き揚げた、1665年頃に設置された、と考えられる。
現在の祠は、戦後に改築したものを城の整備事業に伴い、現在の位置に移築した。
祠には、第二監守一族の火神が祀られていて、
旧暦八月十日には、今帰仁ノロ以下の神人 (かみんちゅ) が、
城ウイミ の祭祀を現在も行っている。 」
今帰仁城廃城後は、今帰仁城跡は御嶽として、広く県内からの参拝者が、 精神的拠り所として、訪れたといい、 今帰仁上りの重要な拝所として、今も参詣者が絶えないという。
志慶真門郭は、 城跡南側に位置し、 主郭より一段低いところにある。
「 志慶真門郭は、今帰仁グスクの裏門にあたり、 戦略上重要な所であった、と思われる。
城壁は、原形に近い形で残っており、 築城技術を知る上で重要な場所になっている。
この郭は、 城内で最も東に位置する郭である。
石垣は、地山を削り、自然岩を利用して、積み上げる工法がなされている。
志慶真郭は、昭和55年度〜57年度に、発掘調査が実施され、
埋もれた階段や石畳道、段々畑のように宅地の造成された平場や、
そこに築かれた建物跡がいくつか発見された。
発掘調査では、志慶真郭と大庭(ウーミャー)との通路石敷が、確認されている。
郭内の当初の地形は、緩やかな傾斜地で、宅地の造成工事により、段差を設け、
建物の建立がなされている。
建物は、 約6mX6m あるいは 4mX5m 程度の規模で、中に炉跡が見つかっている。
瓦が出土しないことから、茅か板で屋根を葺いた掘立柱建物であったと、考えられている。
出土品には、武具類、陶磁器、装飾品、子供用遊具などがあり、
これらの出土遺物により、 「家族単位」 の生活が営まれていたことが考えられる。 」
現在、そのうち、四棟の掘立柱建物跡の遺構が、表示されている。
志慶真門郭は、城内の重要な郭の一つで、 按司の家臣たちが生活した場所と、考えられている。
郭の南側に、 城壁が途中で繋がらず、 崩れ落ちているところが、 志慶真門の跡である。
「 この門は、城の裏門で、その先には、志慶真集落があったと、伝えられる。
「琉球国由来記」 には、 「 本部大原、裏門、志慶真門郭ヲ守護シタル 」 として登場、
かって、城門は木造りの供門がのっていたと、推定される。
この地区は、志慶真川の渓谷を利用して築かれた天然の要塞で、
発掘調査で、四棟の建物跡などが確認された。
今帰仁グスクは、標高100mの独立した丘の上にあり、
城内の生活用水は、ここから志慶真川からの水をくみあげ、
急な崖を登って、水をかつぎあげたと、いわれている。
志慶真門郭の東北部に、水揚げ場跡が残っている。 」
以上で、今帰仁城跡の見学は終了した。
今帰仁城へは、名護バスセンターから本部循環線で約40分、 「今帰仁城跡入り口」下車、徒歩約15分
訪問日 平成十七年(2015)二月十五日