勝連城は琉球王国の王権が安定していく過程で、
国王に最後まで抵抗した、有力按司 ・ 阿麻和利(あまわり) が居住した城である。
昭和四十七年(1972)、国の史跡に指定された。
平成十二年(2000)には、首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
勝連城は沖縄本島の中央部のうるま市にある。
勝連半島の南の付け根にある、標高60m〜100mの丘陵に築かれた城である。
沖縄自動車道沖縄北ICから東へ約十キロ、勝連半島の南の付け根部にある丘陵を目指す。
駐車場は道の左側にあり、うるま市の名物が置かれた売店のある休憩所が隣にあり、
外には、勝連城のジオラマがある。
(注)小生が訪問した時は城跡への入城は無料であったが、
2021年10月より、あまわりパーク歴史文化施設 という名で、有料(600円)になった。
営業時間 午前九時〜午後六時 入館は五時三〇分まで 年中無休
また、休憩所は、2021年10月に閉所になっている。
道路の左側一帯は、勝連城の中の内と、東郭があったところである。
また、道路は勝連城の北城と南城の間にあった、中の内を横断する形で、通っている。
城跡に入ったところにある、説明板 「勝連城跡」 には、以下のように記されていた。
「 勝連城は、五つの曲輪からなり、最も高い一の曲輪に上ると、
北は、遥か金武湾を囲む山原の山々や、太平洋の島々が望まれ、
南は、知念半島や中城湾、それを隔てて、
護佐丸の城である中城城が一望できる景勝地になっています。
城は、琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司(あじ)・
阿麻和利( あまわり) が住んだ城です。
伝承によると、 城主は、勝連按司から最後の城主阿麻和利まで、10代と伝えられています。
勝連城や城主(按司) について、 沖縄最古の歌謡集である 「おもろさつし」 に、
数多く謡われていて、
勝連は 「 きむたか(肝高) 」 と表現され、
日本本土の京都や鎌倉にたとえられるほど繁栄していたとあり、
阿麻和利も 「 千年もこの勝連をおさめよ 勝連の名高き王 」 と讃えてられています。
阿麻和利は、国王の重臣で中城城に居城した護佐丸を1458年に滅ぼし、
さらに、王権の奪取を目指して、国王の居城である首里城を攻めましたが、
大敗して滅びました。
阿麻和利が滅ぼされたことで、首里城を中心とする中山の王権が、いちだんと安定しました。 」
道路を横断して、城に向うと道の左手で、発掘調査が行われていた。
見つかったのはカー(井戸)である。
このあたりでは、仲間ヌウカー、門口のカー、その奥で、ミートゥガー、ウタミシガーが
発見されているので、その一つである。
右側に石垣が続いていたが、両側の石の間に、小さな割石を入れた頑丈な石垣に思えた。
その先は四の郭で、 「史跡勝連城跡」 の石柱があり、 現在も保存工事が行われているのか? その先の上部に、工事車の姿が見られた。
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勝連城は、標高約60m〜98mの高地に、自然の地形を巧みに利用しながら、 石灰岩の石垣を巡らした五つの郭(曲輪)で、構成されていた。
「 北西の最高部から一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪 と、 各平場が階段状に低くなっていく北城 と、再び南東側側が高くなる、東の曲輪の南城(ヘーグシク) で、構成されていた。 」
右側には石垣に囲まれた曲輪があり、海の先には勝連半島が見えた。
左側の四の曲輪の石垣は一部だけで、その上に三の曲輪の高石垣が周囲を囲んでいるのが見えた。
三の曲輪に入るには、曲輪前の曲がりくねった石垣の中の道を上っていく。
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石段を上ると、三の曲輪の入口で、かっては門があったと思える石組がある。
三の曲輪の説明板があり、三の曲輪図が掲示されている
説明板「三の曲輪」
「 三の曲輪では、これまでの調査の結果、時代の移り変わりの様子がわかりました。
古い時代は、掘立柱の建物が建ちならび、
表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構も、中央部で見つかっています。
これは水を貯める施設ではないかと考えられています。
新しい時代になると、この三の曲輪全体が、二の曲輪に建っていた殿舎建物と一対をなし、
儀式などを行う広場に変わっていきました。
その後、城が滅んでからは、祭祀の場として使用され、
中央西側に、「肝高の御嶽 (きみだかぬうたき) 」、
その近くに、 神人 (かみんちゅう) たちが、祭祀の際に休憩する 「トウヌムトウ」
と呼ばれる石列などが残されています。 」
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肝高の御嶽 (きみだかぬうたき) は、二の曲輪の石垣を背に、 「肝高の御嶽」 の標石の先にある。
「 勝連城は、十四世紀初頭に、英祖王朝二代・大成の五男・勝連按司により、
築城したとされる。
最後の城主は、十代勝連按司の阿麻和利で、圧政を敷き、酒に溺れていた、九代按司・
茂知附按司にクーデターを起し、殺害し、海外貿易を推し進めなどして、力を付け、
護佐丸を倒して、中山を統一し、尚泰久王を倒して、琉球統一を目指したが、
王府により、滅ぼされた。
城壁の石垣は、道路工事の石材として、持ち去られていた。
本土復帰後、国の史跡に指定され、城の復元工事も進められ、現在の姿になった。 」
三の曲輪から、石段を上ると二の曲輪で、 「殿舎の跡」 の表示があった。
説明板「二の曲輪」
「 二の曲輪では、正面約17m、奥行き約14.5mの大きな殿舎跡が発見されました。
この建物は、城の中でもっとも重要な建物であった、と考えられています。
礎石のあるしっかりした建物で、屋根に板または草葺きだったと考えられていますが、
周囲からは大和系瓦も発見されることから、一部瓦葺きだった可能性もあります。
また、建物の四隅には長方形の石灰岩による石積みが発見されています。
この石積みは、建物と同時にあったと考えられていますが、
機能についてはわかっていません。
また、二の曲輪の西側には地元で、「火の神」 と呼ばれている場所があります。 」
二の曲輪の北西側の洞穴は、「ウシヌジガマ」 と呼ばれている。
「ウシヌジ」とは、伝説では敵に攻められ、 危険なときに時に身を凌ぐ場所という意味がある。
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石段を上ると、一の曲輪に出る。
標高100メートルのところである。
説明板「一の曲輪」
「 一の曲輪は、昭和四十年(1965)から数回にわたって発掘調査が行われ、
いろいろなことがわかりました。
岩盤をけずって平坦にするなど、
大がかりな土木工事を行い、
瓦ぶきの建物があったことがわかっています。
多くのグスクの中で、瓦ぶきの建物があったのは、現在のところ、
勝連城のほかには、首里城、浦添城だけです。
出入口の門付近から唐草様の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、
装飾の施された豪壮なアーチ門であった可能性があります。 」
一の曲輪は、海抜百メートルの高さにあるので、 北は金武湾を囲む山々や太平洋の島々が望まれ、 南は知念半島から中城湾、それをへだてて護佐丸の城である中城城が一望できる。
これで、勝連城の見学は終えた。
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勝連城へは、那覇バスターミナル52番与勝線で約2時間、勝連城跡前下車、すぐ
那覇バスターミナル29番屋慶名線で約2時間、西原下車、徒歩約10分
中城城跡から仲順バス停から与勝線で約1時間、勝連城跡前下車、すぐ
訪問日 平成十七年(2015)二月十七日