中城城(なかぐすくじょう) は、先中城按司が中城湾に臨んで築いた堅城で、その後、
護佐丸盛春によって、増築された城である。
昭和四十七年(1972)に国の史跡に指定された。
平成十二年(2000)十一月には、
首里城跡などとともに、 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 として、
ユネスコの世界遺産(文化遺産) に登録された。
中城城は、沖縄本島中部の中城村にある。
屋宣港から二キロ離れた、標高百六十メートルの丘陵にある。
那覇から沖縄自動車道を使い、北中城ICを降ると、四キロ程東に行ったところにあった。
「 城全体の面積は約三万三千四百坪、そのうち、
城郭部分の面積は約四千三百坪(14、473㎡)である。
城は、中城村の西北から南側にのびていく丘陵の東崖縁を、
天然の要害とする連郭式の山城で、六つの郭で構成されている。 」
「 国指定史跡 中城城跡案内図 」 では、右側は南・ 左側は北 である。
城は北南に横に連なる配置で、図左側 (北側)には、中城按司・護佐丸盛春により、
増築された、北の郭、三の郭がある。
図右側 (南側)には、先中城按司により築かれた、西の郭、南の郭、
一の郭、二の郭がある。 」
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駐車場に車を置き、管理事務所で400円の観覧料を支払い、進むと広場の記念運動場にでる。
その先に移動できる、中城城のジオラマが置かれていた。
右側に「世界遺産 中城城跡」 の石碑があり、その奥に三の郭の城壁が見えた。
「 昭和二十年(1945)の沖縄戦により、沖縄から多くの文化財が消滅したが、 中城城は戦争の被害が少なかったため、 グスクの石積みが良好に残った城だと言われている。 」
道なりに進むと、左に高い城壁があり、中央に、北の郭へ入る門(入口)がある。
「
左側の石垣は三の郭の城壁で、高いところは物見台になっていたようである。
入口は北の郭に入る門で、中城城の裏門である。 」
中城城の正門は南側にあるが、駐車場からはこちらが近いので、 こちらから入り、正門側に抜けることにする。
「 裏門は東に向けて建てられていた。
ペリー探検隊一行が、 エジプト式 と、評した精巧なアーチで、ひときわ美しかった。 」
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裏門をくぐった先は北の郭である。
北側の石垣には、銃眼のような穴が開けられている。
「 北の郭は、護佐丸が 大井戸(ウフガー) を取り込み、
拡張したとされる郭である。
北の郭は、立体的な構造になっており、このまま右奥(東)に向うと、裏門を抜けて裏門へ、
下に降りると井戸がある。 」
北の郭を一段下りると、こちらは削平されておれず、道は凸凹したままだが、
この外側を堅固な石垣が囲み、守っている。
北の郭は、上の段、中の段に加え、最下段にある大井戸 と、三段構成になっている。
説明板「ウフガー(大井戸)
「 大井戸は、番所井戸(バンジヨガー) とも呼ばれる。
当初は城の外側にあった水場を、護佐丸時代に城内に取り込むべく、
城を拡張し、井戸を作った。
ただ発掘調査では、この井戸は16世紀のものと判明しており (護佐丸は15世紀中旬)、
番所井戸 という名前から、一の郭に番所が置かれた時代のものだと考えられる。
井戸から排水溝の跡も見つかっている。 」
北の郭から三の郭への石段は立派な石段で、西洋風の雰囲気がする。
石段を上った先にあるのは三の郭である。
「 1440年に、読谷の座喜味城から移ってきた、護佐丸盛春によって、
三の丸と北の丸が増築され、現在の姿になった。
増築された三の丸と北の丸は、新城(みーぐすく) とも、呼ばれる。
城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、
自然の岩石と地形的条件を活かした美しい曲線で構成されている。
その築城技術の高さは、芸術的と言われ、歴史的にも高い評価を受けている。
「 城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、
自然の岩石と地形的条件を活かした美しい曲線で構成されている。
その築城技術の高さは、芸術的と言われ、歴史的にも高い評価を受けている。
増築された三の郭や北の郭の城壁は、「相方積み(亀甲積み)」 という、
石積技術の最も進んだ積み方で積まれている。 」
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三の郭から北の郭に戻り、進むと西の郭である。
「 未整備中で中には入れなかった。
西の郭の両側は崩れたままという感じだが、
兵馬の訓練をしたといわれるところで、長さが、東西に百二十メートルある。 」
左に石段を登ったところにあるのは、二の郭である。
「 西の郭、二の郭、南の郭、一の郭は、先中城按司(さちなかぐずくあじ)により、開始は分からないが、十四世紀後半頃までに築城されたものである。
沖縄の城(グスク)は、早い時期から石垣が使用されていて、
本土より古い時代から、石積技術が発達していた。
石垣は、古い順から、野面積み( 南の郭 )、 布積み( 豆腐積み、一の郭、二の郭 )、
相方積み( 亀甲乱れ積み、北の郭、三の郭、物見台 )で、造られている。 」
二の郭はけっこう広い。 東側には、「忠魂碑」 が建てられている。
「
設置された階段を登り、南側の城壁の上に行くと、ここから二の郭内の眺望ができる。
二の郭は、布積み(豆腐積み) の城壁で、二の郭の曲線の美しさは一際目をひく。
一の郭側に、細かくカーブを描いていた。 」
階段を降りて、一の郭へ向かう。
一の郭側の城壁は高く、少し高いところに、アーチ式門がある。
「 二の郭と一の郭は高低差があり、一の郭の方が数段高くなっている。
そのため、城門に石段があり、高さを調整している。
この城門は、裏門を築造した時、アーチ式に改築したと考えられる。 」
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門をくぐると一の郭に出る。
一の郭の石垣も、布積み(豆腐積み) 工法で造られた城壁である。
一の郭は、城内で最も広い郭で、かっては 正殿(せいでん) や、
護佐丸が宴を催した観月台があった、と伝えられる
郭の北側に囲いがあり、進入禁止になっていたが、
「一の郭正殿跡の調査概要」 という説明板があった。
「 現在地は、中城ぐすくの中心にあり、先中城按司や護佐丸などの城主が、
政(まつりごと) を執り行っていた建物が建っていた、と考えられる場所です。
護佐丸滅亡後は、中城の地が琉球国王の世継ぎである中城王子の所領となり、
17世紀前半にはこの場所に番所が置かれ、 明治期には琉球の日本併合とともに、
番所は役場に名を改め、 1945年4月に沖縄戦で焼失するまで、
同地は中城の行政の中心地として長い期間使用されていました。
調査の結果、石積みで城郭が築かれるより前の13世紀後半から、役場のあった近代にかけて、
建物の礎石や柱穴、各種石組遺構、埋甕など700基程の遺構を検出することができました。
(以下略) 」
門の脇に、石積みで囲まれたところがあり、「拝所」 と書かれている。
ここには、「シラ富ノ御イベ」 という神が祀られている。
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一の郭の石段を登り、アーチ式の門をくぐると、南の郭に出た。
南の郭の石垣は野面積みなので、城の中で最初に造られた場所だろうと思った。
現在、南側は発掘調査と復元工事中である。
説明板
「 沖縄の城壁は、本土と違い、石を非常に注意深く刻まれて、つなぎ合わされている。
漆喰もセメントも用いていないので、大水も石の間から流れ出るので、丈夫である。
アーチ門と東側の城壁は数年前に積み直しが行われた。 」
南の郭には複数の拝所がある。
「 中森ノ御イベ (通称着替御嶽) 」「 雨乞イノ御イベ 」 「 小城ノ御イベ (通称久高遙拝所) 」「 御当蔵火神・ウトウクラヒヌカミ (通称首里遙拝所 ・ シュリウトウジ) 」などで、 拝所の前の看板に、神の名前が書かれていた。
南の郭の石段を登り、アーチ式の門をくぐると西の郭に出た。
その先に、正門跡の石垣がある。
かっては楼門であったのだろうか?
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表に廻ってみると、正門は西の方向に向けて建てられていて、 門をはさむように両側に石垣がせり出し、 ハンタ(公道) に向って、狭間(はざま) がつくられている。
「 1853年5月、日本に開国を迫った、アメリカのマシュー・ペリー提督が、
沖縄本島を訪れた際、中城城にも立ち寄った。
視察の一行は、城壁やアーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、
詳細な報告文を書いている。 」
正門の左側に、「史跡中城城跡」 の石碑が建っている。
その先の三叉路を左折すると、南の郭の下になるが、 カンジャーガマ (鍛冶屋跡) がある。
「 鍛冶を行っていたところといわれるが、城のためか集落のためか定かでない。
一説によると、護佐丸が阿麻和利に備えるために、武具を造っていたとも伝えられる。 」
三叉路を右折すると公道に出た。
右折して駐車場の方に向うと、右側は西の郭の北側で城壁が二段になっているが、
下の石垣は崩れていた。
「ナミナミノ御ノベ」 の拝所があり、その先の 「カワヤグラノ御ノベ」 とあるところが、
夫婦井戸(ミートウガー) である。
「 ここは、西の郭の一角だったようで、 北の郭の大井戸と併せて二つの井戸があり、 城郭内に井戸を確保していることが、この城の特徴という。 」
以上で、中城城の探索は終了した。
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最後に、「中城城の歴史」 を、簡潔に記す。
「
先中城按司が、十四世紀後半頃迄の数世代にわたり、
西の郭、南の郭、一の郭、二の郭を築いた。
座喜味城を築いた護佐丸盛春は、勝連城主・阿麻和利から、
中山を防御するため中城の地を賜った。
護佐丸は、1440年、座喜味城から移り、中城按司となり、北の郭、三の郭を築いた。
1458年、護佐丸は、王府軍としてやって来た阿麻和利の策略で攻略され、自害して滅びた。
護佐丸が自害した後は、琉球王国の中城王子の居城になった。
1609年の島津軍の侵入後、薩摩藩により、 「間切番所(マキリバンジョ)」 が建てられた。
薩摩の植民地時代、中国からの冊封使節団が来琉した際、
薩摩の役人が、その存在を中国側に知られないように、ここに隠れていた、という伝承もある。
琉球王国から沖縄県になると、中城村役場として使用されていたが、沖縄戦で焼失した。
本土復帰後、中城城を復元する運動があり、現在の姿になった。 」
中城城へは、那覇バスセンターからバスで「宜野湾市行き」に乗る。 約50分で「普天間」又は「普天間入口」バス停で下車し、タクシーに乗り継ぎ約5分
訪問日 平成二十七年(2015)二月十九日