名所訪問

「 琉球国を統一した中山王の城 浦添城 」  


かうんたぁ。



浦添城は、 初代琉球国王となった舜天(しゅんてん)が築いた城(グスク)とされる。 
舜天は十五歳で浦添按司となり、天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち、 二十二歳で、琉球国中山王に即位したとされる人物であるが、伝説上で、実在したか、 疑問視もされている。 
舜天・英祖・察度の三王朝十代にわたって、居城となったとの伝承を持つが、 史実かどうかは確証を欠いている。 
尚巴志が、察度王朝を滅した後、王宮を首里に移し、その後は、尚氏琉球国王が数百年に渡り、 首里城を居城にした。 


◎ 浦添城

浦添城址は、浦添市仲間にある。 

那覇空港でレンタカーを借り、赤嶺からゆいレールの線路下を走り、新那覇大橋を渡ると、 330号線を北上し、那覇市内を通過、浦添市内に入る。  大平交叉点で右折し、浦添市役所前を通り過ぎ、 安波東交叉点から狭い坂道を上っていくと、浦添グスクようどれ館 に到着した。  駐車場は、仲間後原遺跡跡である。 

「 浦添グスクようどれ館は、 浦添城から発掘された出土品や、戦前の浦添市のパネルを展示する、 浦添グスク跡のガイダンス施設である。  浦添ようどれの西室が、再現されている。    」

この駐車場に車を置いて、十分程歩いていくと、A-2駐車場があった。 
この一帯は浦添大公園で、左に展望広場、その先にポケット広場・芝生広場等がある。 
これらはすべて、浦添城の跡地である。 

駐車場の先に、「浦添大公園施設案内図」 と、「国指定史跡 浦添城跡 案内MAP」  があった。 
案内MAPの一角に、 「浦添グスクの年表」 が載っている。 それによると、

「 日本では鎌倉時代の十三世紀、英祖王統の時代、(浦添の地に) 野面積みのグスクがつくられる。 
英祖王が浦添ようどれと極楽寺を造営したと伝わる。 
室町時代の十四世紀後半〜十五世紀前半、 察度王統の時、城域が広がり、大規模なグスクとなる。 
高麗系瓦葺き建物が建てられる。 察度王の王宮と考えられる。 
尚巴志に滅ぼされ、王宮は首里に移り、浦添グスクは荒廃する。 
安土桃山時代に入ると、(第二尚氏第三代の尚真王の長男) 尚維衡が浦添グスクに居住し、 それ以降は、彼の子孫が浦添家を継ぎ、屋敷を構えていた。 
1589年には、浦添家四代目の尚寧が 琉球国王となる。 
1597年には、浦添グスクから首里までの道を整備し、浦添城の前の碑を建てる。 
江戸時代の1609年、薩摩の島津氏が侵攻し、浦添グスクは焼き討ちにあう。
1620年、尚寧王は浦添ようどれを改修する。 
昭和二十年(1945) 沖縄戦で激戦地となる。 
平成になり、浦添グスクの復元整備をはじめる。 」

浦添グスクは、十三世紀末に造られたグスクと上記にはあるが、 浦添城の生い立ちについては諸説ある。

「 琉球王国の開祖である舜天王の居城として、 十二世紀に築かれた説 (最初に記述した説) や、  英祖王統の時代である十三世紀末に築かれた説 (上記年表)、などである。 
首里城以前の中山王の城で、 発掘調査から、十四世紀頃の浦添城は、 高麗系瓦ぶきの正殿を中心に、堀や石積み城壁で囲まれた巨大な城だったと推定できた。 
尚氏の首里城移転後、1524年〜1609年までは、浦添家の居館となった。 
1945年の沖縄戦では、グスクのある丘陵は、前田高地 と呼ばれ、日本軍の陣地となり、 その先の首里城には、日本軍の司令部が置かれていた。 
米軍は、首里城を落すため、浦添市を通るルートを選択し、その際に徹底的の攻撃をしかけた為、 激戦地となり、浦添市は破滅的な被害を受け、 浦添グスクに残っていた石積み城壁などは失われてしまった。 」

その先に進むと、「浦添ようどれ」 の説明板があり、左に行くとあるが、 後で行くことにして、直進する。 
樹木が茂るところの先に、「伊波晋猷の墓」 の説明板があった。 


A-2駐車場と案内MAP
     浦添ようどれ」の説明板      「伊波晋猷の墓」の説明板
A-2駐車場と案内MAP
浦添ようどれ」の説明板
「伊波晋猷の墓」の説明板


右に入ると、左側に伊波晋猷の墓がある。

「 伊波晋猷は、明治時代の人で、三高、東大に進み、語学を修めた。  東大在学中から、浦添が首里以前の古都であったことを最初に論じた 「浦添考) などの、 優れた論文を発表。  帰郷して、県立図書館長となり、 琉球処分後の沖縄差別で自信を失った、 県民の自信と誇りを回復する啓蒙活動を行った、という人物である。 」

先に進むと開けて、目に復元された城の石垣と、手前に草の茂みが飛び込んでくる。  左側は浦添ようどれの上部で、浦添市内がよく展望できた。 

「 浦添城は、東西約三百八十メートル。南北約六十〜八十メートルで、 北に急崖をなしているが、南は緩斜面となっていた。 
ここは、浦添城の南東部に位置する崖地で、前田高地あるいはハクソー・リッジと呼ばれた ところである。 
沖縄戦で、米軍は今も占拠している牧港の軍事基地付近に上陸し、 浦添城から、日本軍司令部のある首里城に向う戦術を採った。 
日本軍も、浦添城南東部の崖地(前田高地)を防衛拠点と位置付け、死守しようとしたため、 日米間で、延べ十一回、三ヶ月に渡る争奪戦が繰り拡げられた。 」

草が茂る一角に、「 前田高地壕群(北側) 」 の説明板があり、 茂った樹木の下を見ると、岩の下に穴があるのが確認できた。

「 日本軍は、前田高地の地形を利用して、 第62師団独立混成第63旅団が、 洞窟、トンネル、トーチカ連鎖陣地を構築した、 と思われ、  「 内部は壕口が一つ破壊されても問題がないように、壕同士が繋がっていた 」 と、 日本兵の手記があります。 
現在も残っているが、 内部の落盤や土砂の堆積が激しく、中に入ることはできません。 」

伊波晋猷の墓
     浦添市内展望      前田高地壕群(北側)
伊波晋猷の墓
浦添市内展望
前田高地壕群(北側)


その先に復元した城の石垣があり、石垣の手前の右側に、 説明板「 城壁(復元) 」が建っている。 

説明板「 城壁(復元) 」
「 こちらの城壁は、発掘調査の成果に基づいた整備により、復元されたものです。 
浦添城跡は、沖縄戦後の採石により、城壁の石材が持ち出され、 城壁がほとんど残っていないため、 復元整備にあたっては、事前に発掘調査を行う必要があります。  この場所についても、発掘調査を行ったところ、 城壁の切石がかろうじて残っている状況を、確認することができました。 
この城壁は、残っていた切石を生かし、失われた部分に新しい切石を積み上げることによって、 復元しました。 
   浦添教育委員会        」

前田高地壕群入口
     「城壁(復元)」の説明板      復元された城壁
前田高地壕群入口(穴)
「城壁(復元)」 の説明板
復元された城壁


城壁を通り過ぎると、左側は松林地区である。 
空地の一角に、「愛国知祖之塔跡」 の説明板が建っている。

説明板「愛国知祖之塔跡」
「 愛国知祖之塔は、沖縄戦において、最も熾烈な激戦が展開された、 ここ浦添城跡に、愛知県沖縄戦遺族会 (現在は愛国知祖之塔護持会) 等により、 昭和三十七年(1962) に建立されました。 昭和四十年(1965) に、この場所に移設後、 1994年には糸満市の平和祈念公園に移され、新しい愛国知祖之塔とともに、 愛知県出身の沖縄戦・南方地域戦没者・約五万一千名 (内沖縄戦戦没者約三千名) を追悼し、 平和を祈念する施設としての役割を果たしています。 
   浦添市教育委員会      」

その近くに、「浦添家の屋敷跡?」の説明板があり、 発掘時の写真が説明板に付いていた。

「 この一帯にみられる敷石は、第二尚氏第三代国王・尚真王の長男である 尚維衡を祖とする、浦添家の屋敷跡かもしれません。  敷石は、1983年の発掘調査で確認され、明朝瓦 (中国の技術で造られた瓦) がみつかっています。 
尚維衡は、父・尚真王の不興をかい、首里城から浦添城へ移されました。  第七代国王の尚寧王は浦添家の出身で、尚寧王のひ孫にあたります。 
   浦添市教育委員会      」

愛国知祖之塔跡
     浦添家屋敷跡?      発掘時の写真
愛国知祖之塔跡
浦添家屋敷跡
発掘時の写真


その先の崖側に休憩所があり、浦添市が一望できる。 
その手前に 「ハクソー・リッジ」 の説明板があった。

「 沖縄戦当時、浦添城一帯の丘陵は、米軍から「ハクソー・リッジ」、 日本軍からは 「前田高地」 と呼ばれていた。 
米軍攻撃正面となる北側は、険しい断崖である上、 頂上まで上りつめた米軍に、日本軍が猛烈な攻撃を浴びせる戦術をとったため、 米軍の退却の際は、多数の負傷兵が取り残されました。 
信教の理由から、武器を持たない衛生兵・デスモンド・ドスは、 日本軍の猛砲火のなか、多くの兵の命を救ったため、 のちに名誉勲章を授けられました。 」

「正殿跡?」の説明板があった。 

説明板「正殿跡?」
「 この遺構は、1998年に行った発掘調査でみつかったものです。 
縁石が置かれ、石が敷かれている様子を確認しました。 
その他にも、石列や柱の跡とみられる穴などがみつかっています。 
これらの遺構は、ここに正殿があった事を示すものと考えられます。 
浦添城跡の北側は、沖縄戦後の採石で、大きく削り取られたため、ほとんど残っていません。 
そのなかで残っているこの遺構は貴重です。 
   浦添市教育委員会      」

広場の中央に近いところに、「殿 (とうん)」 の説明板があった。 

「 殿は、ウマチーなど、村の祭を行う場所で、この浦添城内の殿では、 仲間集落と前田集落が一つになって、祭りを行っていました。 
ウマチー ( 麦・稲の豊作を祈願、または感謝する祭 ) の際は、 二本の竹の端を結び合わせたアーチを作り、 それに向かって、ノロ (王府から任命され、王国や村々の祭祀を取り仕切った神女) をはじめ、 参列者が手を合わせてから、祭を行ったそうです。 」

ハクソー・リッジ
     正殿跡?      殿(とうん)
ハクソー・リッジ
正殿跡
殿 (とうん)


休憩所の道を少し戻ると、樹木がある所が デイークガマ と呼ばれるところである。

説明板「デイークガマ」
「 デイークガマは、鍾乳洞が陥没してできた、御嶽 (うたき) です。 
デゴの木があった洞穴 (ガマ) が、名前の由来です。 
1713年に成立した地誌 「琉球国由来記」 には、浦添城内の御嶽について記されており、 その中に 「渡嘉敷嶽」 という名前がみられ、 それがデイークガマにあたると考えられています。 
戦後はガマの内部に、コンクリートブロックの囲いを造り、 その中に戦没者の遺骨を納めました。  後に、遺骨は糸満市の摩文仁 (まぶに) へ移されています。 
* 落盤のおそれがあるため、ガマ内部に入ってはいけません。 
   浦添市教育委員会      」

下に降りてみると、「浦和の塔」 の石碑があり、 その先には、鉄格子のはまった、ガマへの入口(穴)があった。

説明文
「 浦和の塔は、沖縄戦争で散華した人々を祀る慰霊の塔です。 
一九五二年に、市民の浄財と本土土建会社の協力によって、建立されたもので、 納骨堂には、浦添城跡を中心に市内各地で散華した軍人や、 民間人五、〇〇〇人余柱が安置されており、 市では、毎年十月には慰霊祭を催し、英霊を慰めています。 
    浦添市役所        」   

デイークガマ
     デイークガマ平面図      殿(とうん)
デイークガマ
デイークガマ平面図
浦和の塔


デイークガマの先は右に傾斜しているが、その一角に、「埋葬人骨」 の説明板がある。 

「 1983年の発掘調査で、当時の城壁裏の地ごしらえから、 グスク時代の人骨が発見されました。  人骨は二十歳前後の女性で、身長は一五〇センチほどでした。 
人骨の状態は良好で、仰向けで、両腕、両脚を胴体に密着するまで、 強く折れ曲げられた状態で葬られ、副葬品はありませんでした。 
   浦添市教育委員会      」

その先に、下におりる階段があり、両側には城壁の一部である石組が見えた。
その先は何か作業をしていたので、引き返したが、 あとで 「浦添城の前の碑・馬ヌイ石」 があることを知った。 

「 浦添出身の尚寧王が、1597年に、 首里から浦添城までの石畳道を整備した際の竣工記念碑である。 
表には、琉球かな文字、裏は漢文で、 「 尚寧王の命令で国民が力を合わせて、岩を刻み、 道を造り、石を敷き、川には虹のような橋をかけた 」 と記されている。 
現在のものは、沖縄戦で破壊されたため、1990年に復元されたものである。 
石碑の前の大きな石は、馬ヌイ石と呼ばれ、浦添城に来た際に、 馬の乗り降りのための踏み台として、使われていたものである。 」

ここから、先程見た 「浦添ようどれ」 の説明板まで戻った。 

説明板「琉球国中山王陵 浦添ようどれ」
「 浦添ようどれは、琉球王国初期の王の墓で、極楽陵ともいいます。 
 咸淳年間(1265〜1274)に英祖王が築いたといわれ、 その後、14世紀後半〜15世紀前半に、石垣がめぐらされました。  さらに、1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られました。 
ようどれの頂 (現在地) から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、 かっては、トンネル状であった暗しん御門を通って、二番庭にでます。 
そして、中御門と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けて、墓室のある広い一番庭にいたります。 
墓室は岩盤に大きな横穴を二ヶ所掘り、前面を石積で塞いだつくりです。 
墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、 仏像などが巧みに彫刻されています。 
去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積は大きく破壊されましたが、 戦後琉球政府によって、墓室は修復され、 平成12年〜17年には墓庭の石積が復元されました。 
「ようどれ」 とは、琉球の言葉で、夕凪 のことで、「ユードゥリ」 と発音します。 」

埋葬人骨
     城壁の一部である石組      浦添ようどれの説明板
「埋葬人骨」の説明板
城壁の一部である石組
浦添ようどれの説明板



◎ 浦添ようどれ

「浦添ようどれ」 の説明板から左に入ると、「浦添ようどれ入口」 の看板がある。 
その先は急な階段で、下りていくと、「浦添八景 浦添ようどれ」 の標柱があり、 階段が続いていて、階段の先の空地に降りると、また階段を上っていく。 
その先には、「昭和9年頃の暗しん御門」 の説明板があり、 かっては、右側の岩盤と左側の石積の門柱が、トンネル状になっていたことが分かった。

説明板 「昭和9年頃の暗しん御門(くらしんうじょう)」
「 暗しん御門、加工した岩盤と石積みでできたトンネル状の通路のことです。
薄暗くひんやりしていて、地下通路を通って、「あの世」 に行くような雰囲気でしたが、 沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまいました。 」  


浦添ようどれ入口
     「浦添八景 浦添ようどれ」の標柱      暗しん御門跡
浦添ようどれ入口
「浦添八景 浦添ようどれ」の標柱
暗しん御門跡


左は復元された石垣、右側は岩盤の間の狭い道を進むと、 前方に石垣で囲まれた空地がある。
これが二番庭で、その先に、ぽっかり空いた門がある。 
階段を上り、門に入ると、広場が現れる。 一番庭である。 
その先、右の白い建造物から先が、「琉球国中山王陵 浦添ようどれ」 である。

浦添ようどれ入口
     二番庭      暗しん御門跡
二番庭
一番庭
琉球国中山王陵 浦添ようどれ


中央部に行くと、「浦添ようどれ」 の説明板が立っている。

説明板「浦添ようどれ」
「 十三世紀に造られた英祖王の墓といわれ、 千六百二十年に尚寧王により改修されました。 
改修のいきさつは、 「よいどれの碑文」 に記されています。 
墓室は向かって、右の西室が英祖王陵といわれ、 向かって左の東室に、尚寧王と彼の一族が葬られています。 
墓室には、骨を納めるための石製の厨子が、安置されています。 
沖縄戦や戦後の砕石で、浦添ようどれは、徹底的に破壊されましたが、 1996年から実施した発掘調査の成果に基づき、 2005年に戦前の荘厳な姿を復元しています。 
   浦添市教育委員会    」

ようどれを跡にして、暗しん御門を下ったところにある空地を右折して少し行き、 右手を見ると、先程のようどれとその先に、前田高地壕群下の城壁が連なっていて、 壮観であった。

英祖王の墓
     尚寧王と彼の一族の墓      浦添城城壁群
英祖王の墓
尚寧王と彼の一族の墓
前田高地壕石垣とようどれ石垣


浦添城へは琉球バス交通 牧港線(55番)で仲間バス停から徒歩15分

◎ 浦添グスクようどれ館(浦添グスク跡のガイダンス施設)
  浦添市仲間2−53−1 098−876−3555 9時〜17時 月休  
  琉球バス 56系統  浦添小学校前バス停から徒歩5分 


訪問日    令和三年(2021)十月二十八日



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