知念城は琉球王国が誕生する前のグスク時代の前半期(十二世紀末から十三世紀)の城で、
南城地区にも幾つものグスクがあった(乱立していた)。
沖縄では、十二世紀末から、郷村(集落)が形成されるようになり、それを束ねる首長・
按司(あじ)が生まれ、沖縄各地で抗争を繰り返していた。
知念城は、そうした按司の一人・知念按司が築いた城である
琉球王国成立後の十七世紀末に改築された後は、 知念番所(役所) として使われた。
昭和四十七年(1972)に、国の史跡に指定された。
知念城は、南城市知念字知念上田原にある。
那覇空港を出て、那覇空港自動車道南風原北ICから、国道329号、331号線を知念方面へ走る
。 城まで車で一時間位。
国道331号から右折して知念バス停の方に入るが、その先の道に入るところが分かりづらい。
国道の北東約五十メートルを北西に折れ、カーブしている坂道を、六百メートル位上ると右側に、知念城の駐車場がある。
道の反対に、 「 知念城跡→ 」 の道標があり、
その下に、 「 知念城跡 国指定史跡 昭和47年5月15日指定 」 の説明板が建っている。
説明板「 知念城跡 国指定史跡 」
「 知念城跡は、ミーグスク (新城) とク―グスク (古城) と、
呼ばれる二つの郭からできています。
ク―グスクは、古い野面積みで囲まれ、一番高い岩山の上に立地しています。
ミーグスクは、二つの門と石垣で囲まれた郭です。
正門を入ると、「火の神」 が祀られている小さな祠がみえ、
さらに奥には、 「友利御嶽 (ともりうたき) 」 があります。
友利とは、「名高く尊い」 という意味があります。
知念城跡内には、1761年から1903年に至るまでの間、
知念番所(間切の番所) が置かれました。
現在の火の神は、番所が移転した後に、地域の人たちが祠を作り、祀ったものです。
この御嶽や火の神には、地元だけでなく、県内全域からの参拝客も多く訪れ、
東御廻り(アガリウマーイ) の拝所となっています。
知念城跡では、現在、史跡整備事業を進めており、
それに伴う調査では、18世紀を中心とした様々な資料が確認されています。
沖縄県南城市教育委員会 」
舗装された坂を下っていくと、右側に 「ノロ屋敷跡」 の標柱が立っている。
ノロ屋敷に入ると琉球石灰岩の石積みがあり、これが 祭壇 と思われる。
知念城には、城主である知念按司に加え、 祭祀を司る祝女が居住し、
神との対話を行っていた。
「ノロ」とは、沖縄に於ける女性祭司のことで、地域の祭礼を主導する役割を担っている。
琉球王国時代には、国王が任命する制度になり、女性祭司が組織化され、
ノロはその組織の末端に位置した。
沖合にある久高島は、琉球を創生したという神・アマミキヨが、
降臨したとされた地で、聖地である。
その対岸にあるのが知念城で、琉球王国になると、
知念城は、国王が行う 東御廻り(アガリウマーイ) の拝所の一つになった。 」
さらに進むと、左側に樹木が茂っているところがあり、その先に城壁が見えてきた。
さらに進むと、道より一段低いところに、「史跡 知念城跡」 の石柱があり、
その隣に説明板があるのだが、字ははっきりせず、読めなかった。
「 前述の説明板に、知念城は、ミーグスク(新城)とク―グスク(古城)と、
よばれる二つの郭からできている、と説明にあったが、
ク―グスク(古城) は、 アマミキヨの長男・天孫氏の時代に、ミーグスク(新城)は、
内間大親 (尚真王の異母兄弟) の時代に、築かれたとの伝承がある。
ミーグスク(新城) は、二つの門と石垣に囲まれた郭で、、
目の前の城壁は、ミーグスク(新城) のものである。
ク―グスク(古城) は、古代琉球岩をそのまま積み上げた城壁であったようだが、
目の前にある樹木の中に埋まり、確認することはできなかった。 」
城壁にあるアーチ門は 正門で、城壁は、野面積みと切石積みが混在して、作られていた。
また、門手前の左側に飛び出している城壁が、ク―グスク(古城) と同じ作りではないか?、
思った。
門をくぐって振り返り、正門の石垣を眺める。
木材は、アーチ門の崩れを防ぐために、つくられたもので、
後日補強用に入れられたものなのだろう。
アーチ門の周囲の石は大きく、隅に行くにつれ、小振りの石になっている。
すべて表面を平らに加工した切石積みである。
城内は空地で、草が茂っていた。
入口の説明板には、
「 正門を入ると、「火の神」 が祀られている小さな祠がみえ、
さらに、奥には 「友利御嶽(ともりうたき)」 があります。 」
とあったが、みたところそうしたものは見つけられない。
(注)帰宅して調べると、中央の石垣の左に金網フェンスがあるが、
その中にあったようである。
表示があればお参りにいったが、フェンスがあるので入れないと思っていた。
裏門の右手に 「焚字炉」 の表示があり、よく見ると石組がある。
「 焚字炉(フンジロー) とは、文字を書いた紙を焼くためのものである。
1838年に來島した冊封使の林鴻年が、文字を書いた紙を敬うことを説き、
設置させたのが焚字炉の始まりである。 」
裏門から外に出るが、 沖縄最古の歌謡集 「おもろさうし」 にも謡われた、
城跡の正門・裏門の石造アーチ門があり、美しかった。
その先の左側は、海に面した高台で、穏やかな海が広がっていた。
城壁右側の道は、その先から石畳であったが、道は荒れていた。
草叢に、 「←ウファカル」 「←知念按司の墓」 「←知念大川」 の道標がある。
かっては、石畳をはさんで古屋敷が点在していたという。
正門から北西に三百メートルほどの崖下に、知念按司墓がある。
その近くには稲作発祥の地といわれる、 「ウファカル」 があるというので、
道を下っていったが、途中で右に入っていかなかったからか、行けなかった。
そのまま坂を下ると大川で、大川御嶽 があった。
その先の小川が大川で、その先に知念城の駐車場があった。
こちらからも知念城へ行けたのだ!!
以上で、知念城の探訪は終了した。
日本では鎌倉時代に、沖縄では石造の城が誕生していたことに驚いた。
その後に、南城地区を統括する、糸満市の南山城が誕生するが、
史跡としては残っているものがほとんどない。
知念城がこのように残っているのは、東御廻り(アガリウマーイ) の拝所に指定されたからだろう。
知念城へは、那覇バスターミナルから、東陽バス 38番 志喜屋行きで、60分、
久美山バス停下車、徒歩約20分。
那覇空港から車で60分 ( 那覇空港自動車道南風原北ICから、国道329号、
331号線を知念方面へ )
訪問日 令和三年(2021)十月二十八日