玉陵(たまうどん)は、琉球王国・第二尚氏王統の歴代国王が、
葬られている陵墓である。
第三代 尚真王が、父 尚円王を葬むるために建築したものである。
世界遺産に登録されている、沖縄最大の破風墓である。
那覇市首里金城町にある王陵(たまうどん)を訪れた。
ゆいレール首里駅で降り、バスで10分程乗ると、首里公園入口バス停に着いた。
池端交叉点から坂道を上って行くと、首里城前の交叉点を越えた左手に、
玉陵(たまうどん)の入口がある。
中に入ると、右上に入場券売場があり、地下は資料館になっている。
資料館の前の道の反対に、「史跡 玉陵」 の石碑があり、
その下に、以下の説明文が書かれている。
「玉陵(たまうどうん)」
「 第二尚王家歴代の陵墓であるこの玉陵は、
首里城への要路 綾門大道(あやじょううふみち) に臨み、東は天界寺に隣接するなど、
重要な位置にあります。
墓陵内は、琉球石灰岩の高い石垣によって囲まれ、
全ての庭には、珊瑚砂利が敷きつめられています。
東室、中室、西室の三基に分かれた墓堂は、自然の岩壁をうがち、
外部を切石積の家型とした、沖縄特有の形式をもつ墓陵といえます。
中室は、 洗骨までの間、霊柩を安置するのに使用し (シルヒラシ)、
東室には洗骨後の王および王妃、 西室にはそれ以外の家族の遺骨を安置したと、
伝えられています。
また、前庭左側に西面して建つ 「たまおどんのひのもん」
(尚真王二五、大明弘治一四年1501) には、陵墓にまつわる当時の事情が伝えられいます。
その他、墓頂にある雄雌の石獅子や墓室前の高欄などからも、
琉球文化の粋をしのぶことができます。
文化庁 沖縄県教育委員会
昭和六二年三月 」
その先に進むと、がじゅまるの樹木が茂るが、 右側に 「西の御番所」 の説明石がある、
「西の御番所(いりのうばんじゅ)」
「 王府時代の歴史をつづった 「珠陽(きゆうよう)」 によれば、
1748 (乾隆13) 年、初めて玉陵門外の左右に御番所を建て、
2人の御番役を任命したことが記されています。
また、1901 (明治34)年 の記録によると、
琉球最後の国王であった、 尚泰(しょうたい) の葬儀の折、
東西の御番所が近親の親族や僧侶の控所となったことなどが記されています。
ここ西の御番所には、 太平洋戦争まで、 格式のある家柄から選ばれた御番役が住み込み、
御掃除人を使って、日常の管理を行っていました。
(中略)
しかし、発掘調査の結果、西の御番所の遺構は、発見できませんでした。 」
その先の右側に、琉球石灰岩の高い石垣が見える。
門の道の反対側に、「遙拝所」 と書かれたところがあり、
かってはここで参拝していたのであろう。
中に入ると、四方が石垣に囲まれた空間で、正面には墓陵に入る門があり、 まっ白い珊瑚砂利が敷きつめられた前庭である。
入口の左手には、「玉陵碑」 が建っていた。
「 この石碑は、弘治十四年(1501) に建てられたもので、
王陵に葬られる人々を規定したものである。
尚真王ほか、八人の名が記され、この書き付けに背くならば、
「 天に仰ぎ、地に伏して祟るべし 」 と結んでいる。
碑文には、尚真王の長男・次男の名が記されておらず、
王室内に勢力の対立があり、廃されたと考えられている。 」
屋根瓦の敷かれた門をくぐると、
正面の石段の上の両側の高欄に、小さな獅子像が祀られている。
その先に、閉じられた門のあるところが中室である。
「 玉陵が使用された時代は、棺を墓室内に安置して、 数年した後に遺骨を洗い清めて改葬する 「洗骨」 という葬法が主流であった。 中室は、洗骨前の遺体を安置する場所である。 」
左角より、墓陵全体を写した。
墓陵は、自然の岩壁をうがち、切石積の家型とした墓室で、左側が東室、 その隣の筒塔の右側が中室、 その右側の家型が西室である。
「 墓域は2442uで、
全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を模した石造建造物である。
創建当初の東室は、洗骨後の王と王妃、
西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られた。
現在は、三十七基の遺骨を納めた厨子が置かれており、
尚円王から続く歴代国王と王妃四十人が眠っている。
(注) 2代尚宣威と7代尚寧は葬られていない。 」
墓陵は、沖縄戦で大きな被害を受けたが、 昭和四十七年(1972) の沖縄返還に伴い、国の史跡に指定され、 昭和四十九年(1974) から、三年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、 往時の姿に修復された。
厨子は、本来、仏像や経典などを納める容器を指すが、
沖縄では、遺骨を納める蔵骨器のことを、厨子 と呼ぶ。
資料館に、東室の厨子の写真が掲げられてあった。
「 厨子は、石や陶器で作られたものが多く、 その形も、家形と甕形を中心に、多様な形と装飾が見られ、沖縄独特の発展を遂げた。 洗骨した遺骨を納めたことから、本土の火葬用の骨壷に比べ、大型のものが多い。 」
墓陵の左側の頂上には、石獅子が鎮座していて、右側の筒塔の上にも獅子がいて、 雄雌の石獅子のようだった。
墓陵を出て、奥にある琉球瓦の建物を見る。
東の御番所の建物を復元したものである。
説明石「東の御番所(あがりのうばんじゅ)」
「 御番所は、法事の折には国王の控所として使用されました。
ところが、太平洋戦争直前には、2間(約360p) 四方ほどの大きさしかなく、
国王の葬儀に使用するがん (遺骸などを運ぶ御輿のようなもの) や、
その他の道具類を保存する倉庫として使用されていたようです。
平成12年(2000) に発掘調査を行ったところ、東西約18m、南北約12mにわたり、
柱を支える礎石や建物の周囲に巡らされた石敷、便所跡などの遺構が発見されました。
さらに、瓦や釘、中国製の青磁や染付、壺屋焼の陶器などの破片も出土しました。
驚いたことに、西の御番所の部屋割を描いた図を反転させると、
ほぼ柱の位置が一致することがわかりました。
そこで、遺構と写真などを元に分析し、東の御番所を復元しました。
復元にあたっては、砂などで遺構を保護し、
元の面よい約45p上げて整備を行っています。 」
以上で、玉陵の見学は終了した。
訪問日 令和三年(2021)十月三十日