鬼ノ城は古代吉備の要衝を占めた天嶮の山城で、
日本100名城の第69番に選定されている。
鬼ノ城(きのじょう)は、総社平野を見下ろす鬼城山に築かれた古代山城で、
大和朝廷が、新羅の侵攻の際に備えて造られたとされる山城の一つと考えられている。
鬼ノ城があるのは、岡山県総社市黒尾、鬼城山である。
JR吉備線服部駅から五千五百メートルの距離で、
公共交通手段がないので、自動車か自転車で行くしか方法はない。
小生は昼食後、岡山駅前でレンタカーを借り、備中高松城を見学後、鬼ノ城に向った。
なお、この一帯は、中国自然歩道となっていて、 JR服部駅から鬼城山を周遊し、
JR足守駅に到る十七・六キロのコースになっている。
車は二・一キロ先の砂川公園までは、対抗車とすれちがうことができたが、
その先三・四キロは、うっそうとした林で、道は一部でしかすれちがえない一本道である。
対向車が来ないことを祈りながら運転したが、平日で遅い時間でもあったので、
二度対向車に出逢っただけで済んだ。
「 鬼ノ城(きのじょう)は、
標高三百九十七メートルの鬼城山に築かれた壮大で、 堅固な神籠石(こうごいし) 系 の古代山城である。
吉備高原の南端に位置し、 眼下の総社平野には集落が営まれ、
吉備国府や国分寺、国分尼寺など、役所や寺院など造営された。
また、古代の山陽道が東西に走り、 南の吉備津までは吉備道で約十一キロメートルで、
瀬戸内海への海上交通も至便であり、 まさに政治交通上の要衝を一望できる場所だった。 」
開けた所に民家が一軒あり、その先に駐車場があったので、そこに停めた。
小高いところに、鬼ノ城ビジターセンターがある。 日本100名城のスタンプはここで押す。
「 鬼ノ城は、日本書紀などの史書に記載が無く、
築城年など詳細は不明であるが、
発掘調査の結果や他の古代山城との比較などから、七世紀後半に築かれた、とされる。
大和朝廷は難波津周辺に都を持ち、
鉄の確保のため、韓国南部の百済と新羅と取引を行っていたが、
勢力を益す高句麗の南下を阻止するため、
天智天皇二年(663)、 唐・新羅連合軍と白村江で戦ったが、大敗し、
韓国での利権を失った。 」
日本書紀によると、
「 天智天皇(中大兄皇子)は、倭(日本)の防衛のため、
天智天皇三年(664)、対馬・壱岐・筑紫国などに、防人と烽(とぶひ)を配備し、
筑紫国に水城を築き、
天智天皇四年(665)には、長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。
そして、天智天皇六年(667)、大和国に高安城、讃岐国に屋嶋城、対馬国に金田城を築く。 」 とある。
この時期、大和政権は絶対的政権を確立しつつある時期であった。
中大兄皇子は、大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となり、
大和の葛城氏、出雲や吉備を支配する王(豪族)などを臣下にする、
あるいは滅亡させるため、権威をしめす城が必要だったと考えられる。
ビジターセンターを出て、西門に向って上っていくと、 鬼が島を彷彿する岩が転がっていた。
「 鬼ノ城は、いにしえから、
吉備津彦命による温羅退治の伝承地として知られて、
苔むした石垣が散在する状況から、 城跡らしいと判断され、 「キのシロ」 と、
呼ばれていたという。
「キ」 は、百済の古語では 城 を意味し、 後に、「鬼」 の文字があてられた。
鬼ノ城は、「シロ」 を表す、あの地とこの地との言葉を重ねた名称である。 」
山容は、すり鉢を伏せたような形状をし、 山頂付近はなだらかな斜面(平坦)だが、
八合目から九合目より下の南と東は断崖絶壁と著しく傾斜している。
この部位に城壁が築かれ、 全周二・八キロメートルに及ぶ。
「
城壁は、版築工法 により、築かれた土塁が主体をなし、
目立つ部分は高石垣で築かれていた。
版築土塁は、一段一列に並べた列石の上に、土を少しづつ入れて、突き固めた土塁のことで、
平均巾七メートル、 高さ約六メートルのものである。
城内の東西南北四か所に城門、 谷部には排水機能を持つ水門が、六ヶ所が設けられていた。
城内はおよそ三十万uという広大なもので、これまでに
食品貯蔵庫と考えられる礎石群やのろし場、涌井(水汲み場)、
土取場が、発掘調査で確認されている。
そうしたことから、昭和六十一年、国の指定史跡になった。 」
道を進むと、右手に展望台の道標がある。
そのまま進むと、復元された角楼の下に出た。
このうち、西門周辺では、版築土塁、高石垣、角楼などが復元整備されている。
左側に版築土塁の高い壁が続き、その上に西門があるのが見えた。
展望が良く、眼下に総社平野、岡山平野西部や岡山市街が一望できる。
対面の山肌には、見張り台があることが確認できた。
西門は、ミルフィーユ状に突き固められている土の層で造られた版築土塁の中央部を
くりぬいて、その上に木造で建物が造られている。
三階にある盾は、本来は内部にあるのだが、 建物への立ち入りが禁止のため、
見えるように、外に飾られている。
説明板「西門跡」
「 西門は、掘立柱の城門で、 通路床面に大きな石を敷き、
床面と城門前面とに2m近い段差を持つこと (懸門) を特徴としている。
南門と同規模の大型の城門で、 間口は3間(12,3m)、 中間1間を通路とし、
2間(8。2m)の奥行を持ち、 12本の柱で、上屋を支えている。
柱は、一辺が最大60pの角柱を2m程埋め込んでいる。
本柱に合わせたくり込み、 方立柱穴、軸摺穴、蹴放しが、
一体的に加工された門礎を持つのは鬼ノ城のみである。
西門は、日本最大の古代山城大野城の大宰府口城門間口(8.85m) をしのぐ、
壮大堅固な城門である。 」
西門をくぐると、「西門の復元」という説明板があった。
平成十六年に完成したものとあるので、十二年を経過している。
説明板「西門の復元」
「 西門跡はきわめて良好な状態で残っていた。
12本の柱の位置と太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法を正確に知ることができ、
通路床面の礎や石段、敷石もよく残っていたので、
城門の性格と構造を具体的に知ることができた。
(中略)
これらを参考とし、戦闘の場としての機能を考慮して、三階建ての城門に復元した。
1階は通路、2階は城壁上の連絡路、3階は見張りや戦闘の場としての機能をもつものである。
屋根は調査時にも瓦が出土していないので、板葺きにしている。
古代山城の復元例としては日本初の事例である。 」
城壁は、幅七メートル×高さ六〜七メートルの版築土塁が全体の八割強を占める。
しかし、城壁最下の内外に一・五メートル幅の敷石が敷設されていて、石城の趣が強い。
また、防御正面の二か所の張り出し石垣で築かれている。
門道の奥には四本柱の目隠し塀がある。
西門から東側には、城壁に沿って、敷石が敷き詰められていて、敷石 の説明板がある。
説明板「敷石」
「「 鬼ノ城では城壁の下の面に接して、板石を多数敷きつめている。
幅は基本的に1.5m幅で、城内側の広い所では5m幅になるところもある。
敷石は多くの区画に敷かれていて、総重量は数千トンにもなる。
この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、
敷石の傾斜などからみて、もともとは、
雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられる。
敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城しかなく、
朝鮮半島でも数例が知られるだけの珍しいものである。
とくにこの区間の敷石は、鬼ノ城でも見事なところである。 」
西門から左上にある角楼に向う。
途中にある土塁上面の柱穴の並びは、板塀のための柱跡とされているようである。
西門から左に約六十メートル上っていくと、復元された角楼と見張り台があった。
時計を見ると、16時40分を過ぎていた。
これから先行くのは無理と判断して、鬼ノ城の探訪を終えた。
なお、城内の中心部には、 食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡や、
管理棟と思われる礎石側柱建物跡があるようである。
また、温羅が住んだところも近くにあるようで興味深い。
機会があればもう一度訪れたいと思った。
鬼ノ城へはJR吉備線服部駅から徒歩約5km
総社駅からタクシーで約20分)
鬼城山ビジターセンター(0866−99−8566)
訪問日 平成二十九年(2017)十月十九日