名所訪問

「 吉備津彦神社 ・ 吉備津神社 」  


かうんたぁ。



吉備津神社と吉備津彦神社を訪れた。 
吉備津神社と吉備津彦神社は古代豪族吉備氏にゆかりのある神社である。 

「  吉備氏は主として五世紀に現在の岡山県と中心に勢力を持っていた地方首長で、 ヤマト、筑紫、出雲、毛野と並ぶ古代の有力地方国家を形成していた。 
吉備国内の造山古墳、作山古墳などの巨大前方後円墳は、その首長の墓として、 往時の勢力の大きさを今に伝えている。 
吉備津彦神社・吉備津神社 は、 吉備津彦神を主祭神とする吉備国の一の宮で、 吉備国を平定するため、 大和朝廷から派遣された四道将軍の一人・ 吉備津彦等を主祭神とする神社である。 
昔話の桃太郎は、吉備国平定の際の吉備津彦(桃太郎)と、 温羅(鬼)の戦いがもとになっているといわれ、 温羅の首は吉備津神社の一角に埋められていると伝えられている。 」


◎ 吉備津彦神社

吉備津彦神社は、岡山市北区一宮にあり、JR備前一宮駅の南方二百メートル余に位置する。
神社は、駅を出て、西川を渡った先にあり、吉備中山(標高175m)の北東麓に、 東面して鎮座している。 

御由緒書
「 吉備津彦神社の主祭神は大吉備津日子命、 別名を五十狭芹彦命とも。 相殿神は、その弟の 吉備津彦命(若建吉備津日子命)や、 吉備津彦命の関係一族を配祀する。 

古来より、備前国と備中国の境に立つ標高百七十五メートルの吉備の中山には、 巨大な磐座(神が鎮座する岩) ・ 磐域(神域を示す巨石群) があり、 山全体が神の山として崇敬されてきた。 
第十代崇神天皇の御代、 四道将軍として遣わされた大吉備津彦命も、この山に祈り、 吉備国を平定し、元人神として崇められました。 
諸民を深く愛し、永住された吉備の中山の麓の屋敷跡に、 社殿が建てられたのが当社の始まりです。 
吉備津彦神社は、大化の改新後、吉備国が、備前・備中・備後・美作に、分割されると、 備前国一宮として崇敬された。 
中世には武家や庶民の信仰があつかったが、 日蓮宗への改宗を迫る金川城主の松田左近将監元成により、焼き討ちに遭い、 社殿の全てを焼失した。 
松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には、 羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。 
江戸時代に入り、岡山藩主池田氏は、崇敬が厚く、 延宝五年(1077)に、三百石の社領を奉進し、 元禄十年(1636) 池田綱政が、本殿を造営し、本殿・渡殿・祭文殿・拝殿と、 連なった社殿が完成した。 
」  

敷地内には、岡山県道700号岡山総社自転車道線 (吉備路自転車道) の指定路が、含まれているため、  自転車道は南北の鳥居をくぐり、 随神門前で右に通過する形で、 本社敷地内を横断している。 

鳥居をくぐり、島(鶴島)・亀島・五色島が浮かぶ、 神池の中の参道を歩くと、随神門が現れる。 

随神門の先に石段があり、そこを上ると右側に御神木の平安杉があり、正面に拝殿がある。 

「  平安杉は、樹齢千年以上とされる御神木で、昭和五年の火災により半身は焼け、 また、幹の空洞化により倒木の危険があったが、 樹木医により治療が施されたといい、元気な姿でよかった。 」

拝殿前には備前焼か分らないが、カラフルな狛犬が祀られていた。 
吉備津彦神社は、拝殿・祭文殿・渡殿・本殿が、一直線に繋がっている。 
拝殿、祭文殿、渡殿は昭和五年(1930)、不慮の火災で焼失し、 昭和十一年(1936)に再建されたものである。 

随神門
     拝殿      祭文殿と渡殿
随神門
拝殿
祭文殿と渡殿


「 大吉備津日子命は、 崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、 弟の若建吉備津日子命と協力して吉備を平定した。 その子孫が吉備の国造となり、有力豪族の吉備臣へと発展したとされる。 」

吉備津彦神社の社殿は、夏至の日に、 正面鳥居から日が差し込んで、祭文殿の鏡に当たる造りになっている。 
吉備津彦神社の 「朝日の宮」 という別称は、これに因むという。 
祭文殿の先は、一段高くなっていて、その上の本殿は渡殿でつながっている。 

「 現在の本殿は、寛文八年(1668) 岡山藩主・池田光政が造営を開始し、 その子・綱政の元禄十年(1697) に完成したもので、 昭和五年の火災で随神門とともに焼失を免れたものである。 
桁行三間、梁間二間の流麗な三間社流造の社殿は、荘厳華麗にして、 吉備国の神社建築が伝統とする流れ造りの正統な姿を示している。 
屋根は檜皮葺で、岡山県指定文化財に指定されている。   」 

随神門まで戻り、駐車場に向うと左側に大燈籠がある。 
高さ十一・五メートル、笠石八畳の日本一大きな石燈籠で、 文政十三年(1830)から安政四年(1857)の二十七年間寄付を募り、 安政四年(1857)に、天下泰平を祈願して建立されたものである。 

駐車場の奥には、一宮八景の碑と、小林貞夫の歌碑の間に、桃太郎像があった。 
昔話の桃太郎は、吉備国平定の際の吉備津彦命(桃太郎)と、 温羅(鬼)の戦いがもとになっているといわれる。 
吉備津彦神社の左手に、吉備の中山への登山口があり、 階段を上ると、温羅神社がある。 
鬼とさせる一方、吉備国に鉄や稲作などの文化をもたらし、 後に吉備津彦の従者となり、多くの功績を残した温羅の和やかな御魂を祀っている神社である。 

本殿
     大燈籠      桃太郎像
本殿
大燈籠
桃太郎像



◎ 吉備津神社

吉備津神社は、岡山市北区吉備津にあり、JR吉備線吉備津駅の東南に位置し、 備前国と備中国の国境の吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座する神社である。 

駅から600m程のところにあり、 入口に、「吉備津神社」の説明板がある。 

説明板 「吉備津神社」
「 第10代崇神天皇の御代に、四道将軍として吉備に派遣された吉備津彦命を祭神とし、 古来、吉備地方の総氏神として、崇敬されている。 
古事記、日本書紀によると、 「 御祭神・大吉備津彦命は、 第七代孝霊天皇の皇子として生まれ、  第十代崇神天皇の御代、四道将軍の随一として吉備国に下られ、  当時、大和朝廷に対抗していた 温羅(百済の王とも伝えられる)一族を平定し、   この地に宮を営まれて、 二八一才で亡くなって、 吉備の中山の山麓に葬られた。 」   とあるが、 その子孫が吉備氏と名乗って、 大和朝廷と姻戚関係を持ち、 勢力を誇示したが、 大和政権の確立の過程で、弾圧にあい、衰退していった。 」 

「矢置岩」 があり、その説明板もある。 

説明板 「矢置岩」
「 社伝によれば、 当社の西北8キロの新山に、 温羅という鬼神あり  凶暴にして庶民を苦しむ 大吉備津彦命は吉備の中山に陣取り  鬼神と互に弓矢を射るに両方の矢空中で衝突して落つ  そこに矢喰宮(岡山市北区高塚に現存)  また、中山主神は鬼神の矢を空中に奪取す  当社本殿の中に祀る矢取明神はすなわちそれなり  この戦いのとき 吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより  矢置岩と呼ぶと ・・・      (以下略) 」 

手を清め、急な石段を上ると、朱色の北随神門がある。 
北随身門は、室町時代の天文十一年(1542)の再建で、 単層入母屋造檜皮葺で、 国の重要文化財に指定されている。  

神社入口
     矢置岩      北随神門
吉備津神社入口
矢置岩
北随神門


北随神門は参道の途中の平地に建てられていて、門をくぐるともっと急な石段が現れる。 
石段を上ると授与所の木造の建物に出た。 

神社の由来書

「 第十六代仁徳天皇が、吉備族より上がった采女・黒媛を慕って、 吉備国に行幸された際、 吉備津彦の業績を聴かれ、吉備国の祖神として崇め奉斎された伝えられ、 延喜式神名帳では名神大社に列し、 天慶三年(940)には一品の神階を送られ、 一品吉備津大明神、吉備津国の一宮となった。 
中世以降、江戸時代中期までは神仏習合だったが、江戸中期は分離し、現在に至る。 
本来は、吉備国の総鎮守であったが、 吉備国の三国分割により、備中国の一宮とされ、 分霊が 備前、備後 の 一宮(備前 ー 吉備津彦神社、備後 ー 吉備津神社) になったとされる。 
この事から、 備中の吉備津神社は、 「吉備総鎮守」 「三備一宮」 を名乗る。 
明治四年(1871)、現在の吉備津神社の名前になった。   」

授与所の先の空地の右手に、吉備津神社の拝殿と本殿があった。 

「 社殿の造営は、 社伝によれば 、仁徳天皇が五社の社殿と七十二の末社を建立したことに始まるとされる。 
室町時代の明徳元年(1390)、 後光厳天皇の勅命により、 室町幕府三代将軍・足利義満が本殿・拝殿の再建に着手し、 応永三十二年(1425) に現在の建物が落成した。 
その建築様式を 比翼入母屋造 といい、 全国でも当社だけの様式なので、 吉備津造 とも称される。 
拝殿は、桁行三間、梁間一間の妻入りで、 正面は切妻造、 背面は本殿に接続していて、 正面と側面には 裳階(もこし) を設けている。 
屋根は檜皮葺、裳階は本瓦葺きである。 
本殿の屋根は、入母屋造の屋根を前後に二つ並べた屋根の形式で、 吉備津造 ともいわれる比翼入母屋造である。 
本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、 地面より一段高く、漆喰塗の土壇の上に建ち、 平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺である。 
拝殿と本殿一体で、国宝に指定されている。 
なお、吉備津神社の主祭神は、当地を治めたとされる、大吉備津彦命、 彼の一族を配祀している。 」 

授与所
     矢置岩      比翼入母屋造
授与所
本殿と拝殿
比翼入母屋造の本殿


本殿の先の左手を入ると沢山の絵馬があるが、その先にあるのは一童社である。 

「 一童社は、 学問と芸術の神で、江戸時代の国学者も厚く信仰したと伝えられるとある。 」

授与所から続く廻廊は、天正七年(1579)の再建で、全長三百六十メートルに及び、 地形のままに一直線に建てられている。 
廻廊の途中にあるのが南随神門である。 

「 南北朝時代の延文二年(1357)の再建で、単層入母屋造本瓦葺。  吉備津神社で最古の建造物である。 
北随神門と共に、吉備津彦命に従い、吉備国の平定に活躍した神々を祀っていて、 両建物は、国の重要文化財に指定されている。 」 

南随神門をくぐると、廻廊は下りで、 廻廊の真ん中で、右に続く回廊を行くと御竈殿がある。 

「 御竈殿は、江戸時代の慶長十七年(1612)に、 石見銀山の開発経営に成功した鉱山師・安原備中守知種より再建した建物で、 国の重要文化財である。 
単層入母屋造の平入で、本瓦葺、南北に伸びた長方形の建物で、 北二間に釜が置れている。 
竈の下に、大吉備津彦命が退治した鬼の首が埋められている、という伝承があり、 特殊神事の鳴釜神事が有名である。」 

神池の隅に建つ銅像は、木堂 という犬養毅である。 

「 神池は、日本庭園の様式に定着した池泉庭園でなく、 海洋表現と祖神を祀って神島で、 数少ない上古の遺構として貴重な存在である。 
犬養毅は、当地出身の政治家で、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。 
吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫にによるものである。 」

吉備津神社と吉備津彦神社は極めて近いところにあるので、 不思議に思っていたが、吉備国が分割されたことで、 三国にそれぞれ神社が造られてことを知り、納得できた。 

一童社
     御竈殿      犬養毅像
一童社
御竈殿
犬養毅像


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吉備津彦神社へはJR吉備線備前一宮駅から徒歩10分
吉備津神社へはJR吉備線吉備津駅から徒歩10分 

訪問日    平成二十九年(2017)十月二十日



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