備中高松城は、
羽柴秀吉の中国大返しの舞台となった水攻めの城である。
高松城跡と堰堤跡は「高松城跡 附:水攻築堤跡」の名称で、国の史跡に指定されている。
最初に向ったのは、JR桃太郎線備中高松城駅の東南四百メートル程のところにある、
蛙ヶ鼻築堤跡である。
用水の脇には、「高松城水攻築堤跡(蛙ヶ鼻築堤跡)」 の説明板が建っている。
「 天正10年、羽柴秀吉が高松城を水攻めにするときに、 わずか12日で築いた堤防の東端部、 当時は高さ8m、上部の幅は12m、 底部の幅24m、長さ3kmもあるスケールの大きいものだった。 」
その先の畑の中の空地の先に、「高松城水攻史跡公園」 の石碑が建っている。
「 平成十年(1998)に行われた発掘調査では
築城の大半はすでに削り取られていたものの、
水田の下、約一メートルのところで、基底部が確認された。
堤防の盛土は周辺の丘陵地から運んだとみられる花崗岩風化土で、
その土層から陶器片や五輪塔の断片、骨片などが出土した。
盛土の最下層では杭列などとともに土俵(つちたわら)の痕跡が確認され、
築堤の基底部の様相が明らかになった。
さらに、その下には深い粘土層が堆積しており、
築堤以前は一帯が湿地だったと判断された。 」
この後、備中高松城跡に向う。
高松城は、JR備中高松駅の北方一キロ程のところに築かれていた。
「 高松城は、備前国に通じる平野の中心で、
松山往来(板倉宿から備前松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、
天正十年(1582)の中国役の主戦場になった城として有名である。
永禄末年、備中松山城主・三村氏の命により、
備中国守護代で、三村氏の有力家臣でもあった石川久式が、
備前国との境目の城として築いた。
天正三年(1575)の備中兵乱で、石川氏は主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた。
この時、 清水宗治は石川氏の娘婿で、 重臣でありながら、
主家を離れて毛利氏に加担し、城主の座についた。
そして、備後三原城主・小早川隆景の信頼を得て、東境防備の任に当った。
天正五年(1577)、「天下布武」 を旗印に、天下統一を狙う織田信長は、
家臣の羽柴秀吉に命じて、 毛利氏の勢力圏である中国地方への進攻戦を開始した。
これが世にいう 「中国攻め」 である。
中国攻めの先鋒を任された羽柴秀吉は、 備前と備中の国境地帯で、
毛利軍との攻防を繰り広げた。
毛利氏に味方する備中の豪族が守る城の総称は、「境目七城」 で、
北から、宮路山城・冠山城・備中高松城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城の七城であった。
ここは、備前と備中の国境に位置し、 毛利軍の重要な防衛ラインになっていて、
その主城が、備中高松城である。 」
羽柴秀吉は、天正五年(1577)四月、高松城攻めにかかった
「 備中高松城は、低湿地に位置する典型的な沼城で、
西に足守川が流れ、 その右に広がる低湿地帯の沼沢地に臨む梯郭式平城で、
石垣は築かず、土塁だけで築かれた土城である。
縄張りは、方形 (一辺約五十メートル) の土檀(本丸) を中心にして、
堀を隔て、 同様の二の丸が南に並び、
さらに、三の丸と家中屋敷とが、コの字状に囲む単純な形態である。
城の周囲は、東沼、沼田などの地名で象徴されるように、
沼沢が天然の外堀をなしていた。 」
秀吉軍の兵や馬は、城の周囲が田や湿地帯のため、 攻め入ることができずにいた。
城主の清水宗治は、忠義に厚い武将で、降伏を勧める秀吉に対して、頑として応じなかった。
地の利に助けられた堅固な城と、死をも覚悟の上で防戦する宗治を前にして、
秀吉軍は完全に攻め手を欠いていた。
毛利氏の援軍が駆けつける前に、何としても備中高松城を落とさねばならない。
秀吉は、参謀の黒田官兵衛を交えて軍議を重ねていた。
天正五年(1577)五月、黒田官兵衛から、 「 水によって苦しめられ城が落ちないのなら、
水によって攻めたらよいのではないか? 」 という提案が出た。
黒田官兵衛の進言を受け入れた秀吉は、 直ちに、水攻めに向けた築堤に着手。
城近くに流れる足守川の 東・蛙ヶ鼻から、 全長約三キロ、
高さ約七メートルの堤防を築き、
足守川の水を引き込むことで、
城を水の中に取り残された浮城にしまう戦略である。
人夫に過分な金子を与える突貫工事で、十一日後には堤防が完成し、
折しも梅雨時で、堰堤内には水が溢れ、城は水没した。
正に庶民感覚の持ち主である秀吉であるから、金に糸目を付けず、
突貫工事を実施し、水攻めに成功させた。
「史跡 舟橋跡」 の説明板が立っていた。
説明板「史跡 舟橋跡」
「 高松城は平城で、三方を掘で囲まれていたが、
この南手口には具足の武士がようやくすれ違う程度の細い道があった。
開戦直前に八反堀を掘り、外濠とし、そこに舟を並べて、舟橋(長さ約64m)とした。
城内より進攻の際はこれを利用し、又退く時は舟を撤去出来る仕組みである。
城の西北の押出し式の橋と共に大きく防衛の役割を果たしていた。 」
「←清水宗治自刃跡 位牌堂」 の道標に従って進むと、 「史跡清水宗治自刃跡」 の石柱が建っている。
「 援軍に駆け付けた毛利氏側の武将・小早川隆景、吉川元春らは、
孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかった。
孤立した備中高松城の城兵を見殺しにすることはできない毛利方は、
秀吉に対して講和を申し入れた。
城兵の安全と中国五か国の譲渡を講和の条件として申し入れるものの、
清水宗治の切腹にこだわった秀吉はこれを拒否。
交渉はいったん物別れに終わった。
しかし、そのとき、秀吉のもとに、
「 京都にいる信長が明智光秀の謀反によって命を落とした。 」 という急報が入る。 世にいう 「本能寺の変」 である。
事態を知った秀吉は、 信長落命の事実を毛利方に知られることなく、
一刻も早く和睦を結ぶべく、
毛利方の外交官・安国寺恵瓊を仲介役に、和議を成立させる。
「 三日中に和睦を結べば領土については譲歩する。
宗治の首を差し出せば、城兵を助ける。 」 という条件を聞いた清水宗治は、
自分の命により主君を安泰にし、 部下の命を助けることができるのならば、
自らの首など安いものだと述べ、自害を決意する。
別れの宴を行った後、 自らの城を取り囲む水の上へと、小舟に乗って漕ぎ出した宗治は、
船上で舞を踊り、
辞世の句 「 浮き世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して 」 を詠むと、切腹した。
秀吉は、 宗治の最後を見届けると、 武士の鑑として宗治を称賛し、 礼をつくして葬り、
信長の仇を討つべく、京都に向けて全軍を差し向ける。
「中国大返し」 の始まりである。 」
その先には、「高松山妙寧寺」 と、「花房家菩提所 清水宗治自刃地」
の門柱が建っていた。
平地が広がる場所は高松城の跡地で、「高松城史跡公園」として整備されている。
三の丸の説明板があった。
「 城の南口の要所にあたり、川舟を並べて、
城外と結ばれていたと伝えられる。
発掘調査で、堀や井戸が見つかった。 」
また、水攻め築堤の高さが8.4mなのに対し、本丸の高さが7mだったとする表示物もあった。
「二の丸跡」の説明板があった。
「 ニの丸は本丸と三の丸の間に位置し、 本丸とほぼ同規模の郭であるとみられる。 」
本丸跡には、「本丸跡」 の説明板と、清水宗治の辞世の句を刻んだ歌碑と首塚がある。
説明板「本丸跡」
「 天正10年(1582)の戦い後も、 城は改修を受けながら維持され、
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦の後は、徳川氏の旗本が陣屋を構えた。 」
(補足) 宗治自刃後の高松城は、岡山城主・宇喜多秀家の重臣、
花房正成が在城し、 関ヶ原合戦で宇喜多氏が滅んだのちは、
徳川家康の旗本になっていた花房職秀が、八千石で居城した。
この時期に城域も整備されたが、 職秀の死後、一国一城令で廃城となったと思われる。
花房氏は、廃城後、本丸に陣屋を構え、 代々、この地を領して、
十四代職榑の時に、明治を迎えている。
現在の本丸周囲の姿は、 城を取り囲む沼だった所は水田と住宅地に替わっている。 本丸は、本丸を囲むように、沼の名残の堀が残っていて、宗治蓮が植えられている。 本丸以下二の丸等の部分は、城址公園として整備されているが、 本丸とその他の郭がどこまでなのかの輪郭などは、わからなくなっている。 」
以上で、城の探索は終わった。
備中高松城へはJR吉備線備中高松駅から徒歩10分
訪問日 平成二十九年(2017)十月十九日