備中松山城は、臥牛山上に築かれた近世屈指の山城で、
日本100名城の第68番に選定された。
昭和の初期、地元の高校の先生により朽ち果てた城が発見され、
それを契機に地元の力で復元活動が行われた城の姿を
TVで見て、感動してぜひ行きたいと思った城である。
備中松山城へ、公共交通で行く場合は、あらかじめ、ネットで調べて、
予定を立てる必要がある。
備中松山城へは、JR伯備線備中高梁駅から麓の城見橋公園までは、
特定日にはバスが運行しているが、徒歩約20分の距離。
城見橋公園からふいご峠までは、土、日及び休日はシャトルバス運行、自家用車もここまでで、このバスを利用しなけらばならない。
ふいご峠から本丸までは徒歩約20分である。
「 備中松山城は、秋庭三郎重信が、 延応二年(1240)、
備中国有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に任ぜられ、
臥牛山の大松山に砦が築かれたことに始まりとされる。
天正二年(1574)、 備中国内で覇権争い、 備中兵乱(三村氏と宇喜多直家との争い)は
毛利氏の加勢により、三村元親は備中松山城を奪還し、
本拠を大松山から小松山に移し、大改造し、砦二十一丸 と、呼ばれた出丸を築き、
臥牛山一帯を要塞化した。
毛利氏は、天正三年(1575)、 周辺の城を落とし備中松山城を孤立化させる。
籠城する三村氏は、内部の離反により、城は落ち、滅亡した。
松山城は、毛利氏の東方進出の拠点として使用されたが、
徳川家康による毛利氏の長門移転により、
小堀正次、正一(遠州)父子が、徳川氏の城番をして入城し、修築をしたが、
山頂の城は、天然の要害としては良いが、住むには不便なので、
山麓に、御根小屋 と呼ばれる御殿を設け、
備中松山藩主は、ここに暮らして、藩の政務を行った。
天和年間(1681〜1684)、水谷勝宗の大改修で、
近世三大山城とされる最終的な城の形になった。 」
城のある標高約四百八十メートルの臥牛山は、
中国山地と瀬戸内海とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあった。
ふいご峠は、元和元年(1681)から水谷勝宗が現在の天守閣にとりかかった際、
当国水田の刀工・国重に命じて、御社屋に奉納する宝剣三振りをここで打たせたことから、
この名で呼ばれるようになったとある。
ふいご峠から松山城の大手門跡まで七百メートル、徒歩20分の遊歩道を歩くが、 急な石段の右側に中太鼓櫓跡がある。 今は石垣が残っているだけである。
「 古文書や絵図には「上太鼓の丸」と記されたものもあり、
小松山から南に延びるおだやかな尾根上に位置する曲輪である。
前山山頂の下太鼓の丸と大手門とのほぼ中間で、戦略上重要な拠点だった。
二段の平坦面からなる曲輪で、その側面に強固な石積が築かれている。
上段の曲輪の南端に中太鼓櫓と呼ばれる櫓が建っていた。
城主の登城や有事に山麓の御根小屋と天守とを太鼓の音などで知らせる中継所の一つで、
防衛上の拠点であると同時に通信網の要衝だった。 」
急な坂を上っていくと、前方に大手門跡の石垣群が見えてきた。
天然の巨石を取り入れた大手門付近の石垣は山城ながらの豪快な眺めである。
ここにはNHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングに使用されたという案内板があり、
大手門北側の岩盤と石垣などがCGで加工されて放送された、とあるが、
その岩盤はすごく大きく高い。
それを利用してその上に石垣が築かれ、その上に白塀がみえるが、
これは厩曲輪の現存土塀である。
右側の石垣の間に階段があるが、上がっていくと「大手門櫓跡」の石柱があった。
下りると、石垣の下に 「足軽箱番所」の石柱が建っていた。
石段を上がると、左側の石垣台の上に「大手門跡」の石柱があり、
江戸時代には先程の石柱との間に立派な楼門があり、敵の侵入を見張っていたようである。
その奥の空地には「二の平櫓跡」の石柱が建っていた。
その先にあるのは三の平櫓東土塀である。
「 備前松山城に現存する土塀が二ヶ所あり、 一つがこれで、もう一つは厩曲輪の土塀である。 その内一つが国の重要文化財に指定されているという。 造り方は、土を練って作った土の塊を積み上げて芯にし、その外に漆喰を塗込めて、 仕上げたものである。 現存のものと復元したものとの境に段差が設けている。 」
白い漆喰壁の土塀が石垣の上に建っていて、○や□の狭間が連なり、 美しいと思った。
石段を上ると左側の狭い空地には 「三の平櫓跡」の石柱がある。
三の平櫓東土塀 の名前はこの櫓の東側にあったことによる。
右側の空地は、三の丸の跡である。
建物はなく、休憩用の椅子が置かれているだけである。
手前に 「足軽番所」、奥に 「上番所」の石柱が建っていた。
大手門からここまで短い距離に、高い高低差といくつかの櫓があり、
鉄壁の防御を窺うわせた。
石段を上り、二の丸に向う。
右側の石垣台に、「厩 門」 の石柱があり、奥に白い土塀が見える。
ここは厩曲輪跡である。
「 厩曲輪は登城者が馬を使った時、繋いていた場所で、
その前に厩門が建っていたのだろう。
備中松山城は天和年間(1681〜1684)に水谷勝宗により、
現在の姿の城郭に改修された後、
水谷家は二代後に跡継ぎがなく断絶し、その後安藤氏、石川氏と入れ替わり、
最後の城主は板倉氏だった。
板倉氏は八代続いたが、明治六年(1873)、廃城令が公布され、
御根小屋は取り壊された。
御根小屋の跡は、県立高梁高校になっている。
山城は新政府によって商家に売却されたが、
あまりにも不便な場所にあったことから、山上の建物は解体されずに放置され、
次第に荒廃していった。
その中で残ったのが、天守と、二重櫓と、土塀の一部と、石垣である。 」
更に進むと左下に公衆便所があり、その先に二の丸の石垣がある。
石垣の左側の狭い空地に 「四の平櫓跡」 の石柱があった。
ここに、かっては、四の平櫓が建っていた。
石段の終わりの左側に、「二の櫓」 の石柱があるので、 左側の石垣には、二の櫓が建っていたのだろう。
石段の先は二の丸である。
古絵図には土塀があるが、今は何もない空地で、奥に天守閣のある本丸が見える。
石段を歩き、二の丸跡に到着。 ふいご峠からここまでかなりの高低差で、
脚力がないとつらい行程である。
中央の石段の上の左側の建物が、六の平櫓、右の建物は五の平櫓で、
その間に本丸南御門があり、奥に見えるのが天守である。
石段を上ると六の平櫓で、ここで入城料300円を支払い、中にはいる。
「 城の縄張は「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」
の四つの峰にまたがり、
天守は標高四百三十メートルの小松山の本丸に建つ。
平成六年度から重要文化財の天守、二重櫓、三の平櫓東土塀を中心に、
本丸の復元整備が行われ、
平成九年に本丸の正面 玄関ともいえる本丸南御門(二つの平櫓の間にある)をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、
五の平櫓、六の平櫓、土塀などが古写真や文献資料に元にもとづいて忠実に復元された。
天守と本丸二重櫓は平成十五年に保存修理が行われた。 」
正面にあるのが天守で、 その手前の右側には本丸東御門、 左側の石段の上には、江戸時代には八の平櫓と渡櫓があったようである。
「 天守は山頂の岩盤の上に石垣が築かれ、
その上に約十一メートルの高さの二層二階の建物で、
天守の西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。
現存する十二天守の中で最小であるが、日本一高いところに建っている天守である。
天守の外観は白と黒の漆喰と腰板張りで、
一重目の南面に唐破風付き出窓や二重目の折れ曲がり出窓など、縦連子窓を多用し、
一重目屋根は、西面に千鳥破風、北面と東面に入母屋破風、
南面に向唐破風が付けられていて、凝った意匠の外観となっている。
唐破風付き出窓には石落しの機能が付いている。 腰板は堅板張りと呼ばれていて、
縦方向に板が張られていて、
通常の城では下見板張りという横方向に張られたものが多く、
同様なのは高知城位である。
昭和二十五年に国の重要文化財に指定された。 」
天守の右手にあるのが、復元された本丸東御門で、
六の平櫓とは白い土塀でつながっている。
門は閉まっているが、ここを降りると二の丸の奥にある搦手門の前に出る。
左手にある石段を上ると長方形のスペースに、「八の平櫓跡」 の石柱が建っているが、
もともとは八の平櫓から渡櫓を経て天守へ入る連郭式天守だったようである。
「 八の平櫓は、昭和の大修理の際、 荒廃が激しく復元が難しかったため、撤去されたという。 また、天守に通じる石段は敵の侵入を遅らせるため、直角に曲げられている。 」
振り返ると六の平櫓、本丸南御門、五の平櫓が見えた。 なお、往時は南御門の右側にある六の平櫓の右奥に七の平櫓が建っていたという。
備中松山城天守 |
現在は天守西面の付櫓に開けられた出入口から入る。
入った先にある階段の脇に 「接続廊下(つなぎろうか)」 という説明板がある。
「 この天守は二重二階であり、ここは一階ではなく、 八の平櫓と天守をつなぐ廊下である。 」
ここは付櫓ではなく、八の平櫓と天守をつなぐ廊下だったことが確認できた。
一階には、パネル展示の他、解体修理の際出土、外された鯱鉾などが展示されている。
長囲炉裏が掘られているところに、説明板があった。
「 板石造り、巾三尺、籠城時の城主の食事、暖房に用いたといわれる。 天守閣の中に切り込みの囲炉裏があるのは珍しい。 これは戦国時代、備中の首都として、 この城の激しい争闘戦が幾度となく繰り返された経験から生まれたものである。 」
天守一階の奥には、一段高い場所に装束の間があり、
説明板には 「 籠城時の城主一家の居室、床下に石を入れ隙間のないようにし、
忍びの者でも侵入できないように工夫されている。
戦いに敗れ、落城の時に城主一家の支死に場所でもある。 」 とあった。
南面の出窓は武者窓(連子窓)で、格子の隙間が細いが、
外側と内側が斜めに削られていて、
中からはよく見えるが、外から見ずらい構造になっている。
長囲炉裏 |
二階は曲がった大木を組み合わせた梁が見事である。
御社壇(ごしゃだん) と呼ばれる舞良戸で、仕切られた部屋がある。
「 天和三年(1683)、当時の城主水谷勝宗がこの城を修築した際、 松山藩五万石の守護として三振の宝剣に天照皇大神を始め、 水谷家の守護神羽黒大権現、愛宕権現や成田明神など九柱の神を勧請し、 この御社壇を安置し、盛大な祭典を行い、安康を祈った。 」
本丸を出ると、私達の前に案内人が引率した団体がいた。
左折して本丸に沿って進むと東御門の石段が左にあった。
本丸の東御門のあたりに山猿のカップルが数組いたが、
このあたりには赤ん坊を腹下に抱えた親猿などがあちらこちらにいる。
その先には両側に石垣台があるが、
江戸時代には楼門の搦手門があったのではないかと思った。
広場に出ると左手に左右の石段があり、中央に二重櫓がある。
江戸時代、広場には番所があったようである。
「 二重櫓は天守の後方に建つ二重二階の櫓で、
水谷勝宗による修築の際に建てられたものと思われる。
一階の床面は約八メートルm×五メートル、棟までの高さは八メートル四十センチ、
入母屋造りの屋根は本瓦葺きで、
大棟の両端に一対の鯱を据え、破風には梅鉢懸魚が飾られている。
入口は一階の北と南に設けられていて、
本丸と後曲輪を結ぶ役割を果していたのではないかと考えられる。
漆喰塗りの連子窓は各面一〜二ヵ所開いているが、
城外に面した西面のみ三ヵ所とし、石落しも設けて防備を固めている。
昭和三年(1928)に有志の拠金によって修理され、
昭和三十四年(1939)の解体修理で完全に修理された。
備中松山城で二階建の櫓は天守と二重櫓のみなので、
天守に次いで重要な役割を担っていたものと思われる。
昭和二十五年に国の重要文化財に指定を受けた。 」
右側の石段の上は後曲輪である。
江戸時代、後曲輪の奥に九の平櫓があった。
後曲輪の付近は、山猿の集団に占拠され、
猿たちは思い思いに場所取りをして、寛いでいた。
案内人の話ではこれだけ多くの猿が人が多いところに出てくるのは珍しい、
危険なので近寄らないようにとのことで、
後曲輪の中に入るのはあきらめ、石段を下りた。
更に奥に進むと、 「←天神の丸跡420m」 「←大松山城跡580m」 の道標がある。
近くに、「水の手門跡」 の石柱が建っていた。
その手前には 「十の平櫓跡」 の石柱があり、
備中松山城は、多くの櫓と、絶壁と、石垣で守られた山城であることが確認できた。
以上で、備中松山城の探勝は終了である。
備中松山城へはJR伯備線備中高梁駅から麓の城見橋公園まで徒歩約20分、 (特定日にはバスが運行)、城見橋公園からふいご峠まで(土、日及び休日はシャトルバス運行)、ふいご峠から本丸まで徒歩約20分
訪問日 平成二十九年(2017)十月十八日