名所訪問

「 岡山 後楽園 」  


かうんたぁ。



岡山 後楽園は、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに日本の三名園の一つである。 
今から約三百年前、岡山藩二代藩主・池田綱政(いけだつなまさ)が、 藩主のやすらぎの場として作らせた庭園が始まりである。  当時は御後園だったが、明治四年(1971)、池田家が後楽園と改め、 明治十七年に公園保存を条件として岡山県に譲渡された。 
昭和九年(1934)の水害、昭和二十年の戦災に遭遇するも、 後楽園は江戸時代の絵図などで復旧がはかられ、 江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれているというから、驚く。


JR岡山駅東口から岡電バスに乗り、後楽園前で下車。 
正門から入ると、芝生広場が広がっている。 
右を見ると延養亭の先に、岡山城の天守閣が聳えていた。 

延養亭(えんようてい)は、岡山藩二代藩主・池田綱政(いけだつなまさ)より、 藩主の居間として、建てられたが、戦災で焼失、現在の建物は、  昭和三十五年(1960)に復元したものである。

「 延養亭は、藩主の居間として使われた園内で最も重要な建物で、 芝生の先には沢の池、 園内の東端に楓を中心とした林の千入の森(ちしおのもり)を望み、 さらに、園外の操山がまるでこの庭の景色であるかのように、 園内外の景観が一望できるように造られている。  現在の建物は戦災で焼失後、昭和三十五年(1960)に当時の第一級の木材と技術で築庭当時の間取りで復元したものである。 」

延養亭の南にあるのは沢の池である。

「 沢の池は園内で一番大きな池で、 右に白砂青松が美しい砂利島、 左に釣殿のある御野島、 その奥に島茶屋がある中の島が見える。 

正門付近
     延養亭      沢の池
正門付近
延養亭
沢の池


沢の池のほとりにあるのは、五十三次腰掛茶屋である。 
そこの左奥には、慈眼堂(じげんどう)がある。 

「 池田綱政が、元禄十年(1697)、還暦を迎えた時、 藩内の平安と池田家の安康を願ってお堂を建立し、 厚く信仰していた観音像を二体祀り、 毎年正月、五月、九月の二十二日を参詣日と決め、 家老にも参拝するよう命じたといい、 江戸時代には歴代の藩主が深く信仰していたが、今は空堂になっている。 」 

境内には、花崗岩を三十六個に割って運び、 もとの姿に組み上げた烏帽子岩、 仁王門、 板張りの腰掛けが伝えられている。 
沢の池には橋が架かり、中の島には島茶屋が、それに続く御野島に釣殿が見えた。

「 築庭当時の沢の池には、弁財天を祀った中の島、 釣殿のある御野島と池の北から張り出した半島があったが、 その奥の唯心山はなかった。 
継政の時代の宝暦四年(1754)、財天堂は、隠居となっていた継政の指示で、 千入の森の奥の現在地に遷された。  また、園内中央に唯心山を築き、その麓に水路を巡らせ、 沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせた。   こうした改修により、庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきた。 」

五十三次腰掛茶屋
     慈眼堂      島茶屋と御野島の釣殿
五十三次腰掛茶屋
慈眼堂
島茶屋と御野島の釣殿


中の島に入る橋の手前に、一艘の舟が繋がれていた。 
左に目をやると、 井田(せいでん) の説明板がある。 

説明板「井田(せいでん)」
「 昔は広く田畑を作っていたが、今は井田だけが、 その名残りを伝えている。  井田とは、中国周時代の田祖法で、幕末に田畑の一部を井田の形に作った。  毎年初夏にお田植祭を行い、もち米を育てている。 
池田綱政が築庭した頃は、芝生は中の池から延養亭までのみで、 その他は田畑で、また、築山の 唯心山(ゆいしんざん) もなく、 この田畑に耕作する人を投入していた。 継政の孫・治政(はるまさ)は、倹約のため、 田畑の耕作に当たっていた人々をやめさせ、 一時的に芝生の庭園となるが、その後すぐに、園内東の大半は田畑へと戻った。  その田畑を幕末やめて、芝生に替えて、残した田畑を井田の形で残した。 」 

その先には水をゆったりと曲流させる曲水があり、 建物の中にも水路を通した場所がある。 

「  この建物は流店(りゅうてん)で、亭舎の中央に水路を通し、 中に美しい色の石を配した、全国でも珍しい建物になっている。  かっては、藩主の庭廻りの時に休憩所として使われ、簡素なたたずまいを伝えている。 」

唯心山は、六メートル程の築山で、園内が見渡すことができる。 
ツツジの咲く頃は絶景になるという。 

井田
     流店      唯心山
井田
流店
唯心山


その先に、花交池があった。 

説明板「花交池」
「 築庭当時は各種の花が混交した風景で、 池辺には、花交(こんこう) という建物があり、池や滝にはその名が残った。
江戸時代の和歌には、花の色が滝の流れによって、 さらに美しく見えるという風情が詠まれている。 
築庭当時の花交の池の周囲には、 ヤマザクラや花木の林や並木が作られ、   こうした花々が入り交じる景色を、「花交」 の名に込めたものと思われる。 」 

園内を巡って来た曲水の水はこの池から旭川に戻っていく。 
その奥にあるのが 茶祖堂 である。 

説明板「茶祖堂」
「 もとは千利休堂といい、 幕末の岡山藩家老の下屋敷から移築された茶室で、 千利休を祀っていた。 戦災で焼失し、昭和三十六年に再建し、 岡山出身で日本に茶を伝えた栄西禅師を合祀したため、 茶祖堂と改めた。  」 

沢の池の左端にあるのは廉池で、 そこに建つ建物は廉池軒である。 

説明板「廉池軒(れんちけん)」
「 戦災をまぬがれた数少ない建物の一つで、 池に架かる石橋や対岸の小島なども往時の姿を今に伝えている。  この建物から沢の池越しに見えた松林や曲水と池の段差など、 起伏に富んだ景観を眺めることができる。 
園内に点在する亭舎の中で、 池田綱政が最も好んで利用したといわれ、 築庭当時の廉池軒の周囲には、 池に架け渡した切石の石橋、 小島などが配置されたが、 現在もほぼ同じデザインで伝えられている。  」 

井田の奥にあるのが、千入の森 である。  

「 千入の森は、綱政の命名で、築庭当時は、 楓を中心に松や桜も植えられていたようである。 
「千入」 の 「入」 は、 染め物で染液に浸ける回数を数えることばで、 「千入」 は色濃く染めることのたとえといい、 秋、日毎に深まる紅葉のさまを指しているものと思われる。 
綱政は 「 この木のみ  上戸の中の  独下戸 」 という句を残している。 」 

花交池
     茶祖堂      廉池軒
花交池
茶祖堂
廉池軒


南門から入場すると、左手は舟入跡、 お城から藩主が舟で渡ってくる時の舟着き場の跡である。 
左手の直線に伸びる道を進むと、芝生の中には曲水が流れ、形の良い灯籠が建っている。 

「 綱政の時代の絵図によると、 園内中央西寄りに延養亭、能舞台などの主要な建物、 中央に沢の池、園の周辺部には美しい景色となる林が形成され、 後楽園の原形が形作られたことがわかる。 
。 」

延養亭の左手(南)にある池は、花葉の池で、 架かる橋は栄唱橋、東には花葉の滝があり、 南西岸には元禄時代初期に巨石を九十数個に割って運び、元の形に組み上げた大立石がある。 

後楽園は藩主の楽しみの場だけでなく、文武両道を怠らぬよう武芸の場も設けられた。 

「  馬場や弓場では、綱政以後の若い藩主たちがここで武芸の稽古を積んだ。  家臣たちはそれぞれの師匠について修行し、 上達ぶりが認められると、後楽園の馬場や弓場で、武芸の披露をし、 藩主は、観騎亭や観射亭からその上達ぶりをご覧になった。  家臣には披露が終わると庭を見物して帰るという褒美が与えられた。 
沢の池をぐるりと臨むことのできる美しく小さな建物は、 寒翆細響軒(かんすいさいきょうけん) である。 

「 寒翠は、さえた緑色、細響は細やかな響きという意味で、 建物の北側に広がる松林の緑色と静かな佇まいをイメージしたものと思われる。 
南側の障子を開けると、正面に唯心山や沢の池が一望できる。 
築庭当時、延養亭の東から沢の池までは芝生敷きだが、 残りの平地は田畑だったという。  今は、広大な芝生で名高い庭園だが、築庭当時はその四分の三は田畑で、 平坦な庭だったようである。 」 

以上で後楽園の探訪は終了。 

曲水      観騎亭      寒翆細響軒
曲水
観騎亭
寒翆細響軒


後楽園へはJR山陽本線・山陽新幹線岡山駅下車、バスで10分

訪問日    平成二十九年(2017)十月十九日



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