安倍文殊院は、大化元年(645)に阿倍一族の本拠地だった阿部の地に、 大化の改新で左大臣になった安倍倉梯麻呂 (あべのくらはしまろ)が、 一族の氏寺として創建した安倍寺が始まりである。
安倍文殊院は、
近鉄桜井駅の南方約一キロなので歩いて行けるが、 バス利用なら、駅前から奈良交通バス岡寺行きで、七分、阿倍文殊院前で下車。
そこから徒歩一分のところにある。
本堂の左手にある受付で七百円を支払い、お参りのため本堂に上がる。
「 本堂は、江戸時代の寛文五年(1665)に建てられた、
入母屋造り本瓦葺きの七間四面の建物で、 前方に、礼堂がある。
本堂の右には釈迦堂、左に大師堂、本坊、庫裏が並び、庭園を隔てて方丈客殿に連なっていた。
本殿には、本尊の文殊師利菩薩像・善財童子像・優填王像と、須菩薩像が祀られている。
これらは全て、鎌倉時代の快慶仏師の手によるもので、国の重要文化財に指定されている。
文殊師利菩薩像が大きかったのには驚いた。 」
安倍文殊院の歴史
「 大化元年(645)に阿倍一族の本拠地だった阿部の地に、
大化の改新で左大臣になった安倍倉梯麻呂が、一族の氏寺として創建した、
安倍寺が始まりである。
安倍寺は、現在の寺の南西三百メートルの地に、
法隆寺式七堂伽藍配置の大寺院として、五重塔を聳えさせる威風堂々とした寺院であった。
阿倍一族は倉梯麻呂の時が絶頂期で、創建当時の安倍寺は、国家鎮護と阿倍一族繁栄の祈祷が主だった。 平安時代に入り、 安倍晴明が、この寺で誕生する。
彼により陰陽道が広められと、彼の没後、清明は魔除け・災難除けの神として祀られるようになる。 、一般庶民を含めた祈祷の色彩を深めた寺になっていった。
現在の阿倍文殊院は、安倍寺の別所として、平安時代末に建立されたものである。
阿倍寺は、寺坊四十九坊の存在も記録に残されている程、繁栄していたが、
隣接地の多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の宗徒(僧兵)の襲撃を受けて、全山消失の憂き目にあった。 その後、本山の安倍寺は再建されることもなく、 鎌倉時代初期に別所寺院の阿倍文殊院に統合されてしまった。
晴明没後、彼は文殊菩薩の化身という信仰が広まったことから、
約七メートルの文殊菩薩像が快慶仏師によって造られ、これ以降、
文殊菩薩はこの寺の本尊として、 全国的に知られていく。
しかし、永禄六年(1563)に、松永弾正の兵火で寺はほとんど残らず燃失した。
その時、本尊の文殊菩薩像と脇侍三体はかろうじて焼失を免れた。
寛文五年(1665)四月に、 現在の本堂(文殊堂)と、礼堂(能楽舞台)が再建された。 」
本堂を出ると、隣の小高いところに稲荷神社がある。
稲荷神社は、文殊院西古墳の上に、設置されている。
説明板「文殊院西古墳」
「 文殊院西古墳は、飛鳥時代に築造されたもので、
当時の創建者・ 安倍倉梯麻呂の古墳とも伝えられるものである。
良質の花こう岩を加工し、側壁も弓状態として壁面を調整、 左右の石和を揃え、
玄室の天井は約十五メートルの一枚岩で、 その中央を薄く削上げて窮隆状に仕上げている。
現在は玄室内に願かけ不動が祀られている。 」
境内の駐車場の先には、「縁結びの神」 と書かれた、白山堂がある。
「 白山堂は、室町時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。
小さな社殿は美しい曲線の唐破風をもった、流造柿葺きの建物である。 」
清明堂、その他の建物は最近建てられたものに思えた。
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訪問日 平成二十年(2008)十一月十五日
所在地 奈良県桜井市阿部645
阿倍文殊院は近鉄桜井駅の南方約一キロなので歩いて行ける。
近鉄桜井駅より、奈良交通バス岡寺行きで、七分、阿倍文殊院前で下車、徒歩すぐ。