葛城古道は、当麻を起点として、葛城山の東麓を、
二上山・葛城山・金剛山と、南下する古代の道である。
葛城は、日本書紀に 「 神武天皇が、高尾張邑 (たかおわけむら) に来て、
土蜘蛛(つちくも)、即ち、 手足が長く身長が短い土着の民と戦かったとき、
皇軍が、葛の綱を結い、網にして勝利したことから、地名を葛城と改めた。 」
というところである。
司馬遼太郎氏は、「街道をゆく」のシリーズで、最初に、奈良県の葛城地方を取り上げている。
小生は、バスツアーで、葛城道を歩いたが、その前に、遼太郎のこの本を読んで。
参考にした。
◎ 「葛城山」 の章
司馬遼太郎は、
三輪神社から竹内街道を走り、葛城方面へ向かっている。
遼太郎氏は、 「 山の辺の道と竹内街道が日本最古の官道だろう。 」 と述べている。
また、 「 竹内峠を越えると、大阪湾が広がる河内国で、
さらに瀬戸内海、九州から海外につながっていて、古代の鉄がこのルートを通って、
畿内に入りこんできたことや、王家をしのぐ程の勢力をもった蘇我氏は、
この葛城山麓から高市郡の一角までを勢力圏としていた。 」 という。
次に、「葛城みち」 については、「笛吹の社」 について、ページを費やしている。
『 大和葛城山の台地に、「笛吹」 という、
古代から続く小さな村落が樹林にうずもれている。
(中略)
この葛城山麓で古代さかえた王朝 (葛城王朝といってもよい ) が、
その後、大和盆地で成立する天皇家より当然ふるいという印象は、
あくまでも印象だが、どの古代史家も否定できないであろう。
その葛城古代国家の村々が、 葛城山麓に点々として残っている。
(中略)
「記紀」 では、天つ神の子孫 (神武天皇や崇神天皇) が、
後から大和盆地にやってきて、先住の 国つ神の部族 を平定したのだが、
その古い集落が、葛城の神々をいまもなお祀って、 森の社 を護持しているというのは、
当然といえば当然だが、なにやら歴史の可笑しみのようなものを感じる。
さらに痛快なのは、それら葛城の国つ神の御子孫たちが、
そのまま神主として、それぞれの森の中に棲んでおられるというから、
日本も古い国である。 』
と書いておられる。
遼太郎が訪れようとしたのは、笛吹集落の 「葛木座火雷(かつらぎにいますほのいかづち)神社」 である。
今は、草ぶかい村の鎮守にすぎないが、延喜式の大社に列し、
上代での社格はとびきり高く、
「 葛城にすわっていらっしゃる火の雷の神のやしろ 」 というとおり、雷神を祀る。
その神さまを祖神とするのは、笛吹部で、その親玉が笛吹連である。
連は、村の小高いあたりに第館をかまえ、氏族神をまつり、祭政一致で、
村を治めていたようである。
遼太郎は、その跡を探して、笛吹の村の小高いところに上り、
古墳と神社が同居しているところを訪問しておられる。
(ご参考) 日本書紀巻三巻 神武天皇 の 「葛城」 の地名の由来の部分を記す。
《神武天皇即位前紀己未年二月辛亥》 に、
「 己未年春二月壬辰朔辛亥。
命諸将練士卒。 是時層富県波多丘岬有新城戸畔者。 又和珥坂下有居勢祝者。
臍見長柄丘岬有猪祝者。 此三処土蜘蛛並恃其勇力、不肯来庭。 天皇乃分遺偏師皆誅之。
又高尾張邑有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長。 与侏儒相類。
皇軍結葛網而掩襲殺之。 因改号其邑曰葛城。 夫磐余之地、旧名片居。 亦曰片立。
逮我皇師之破虜也。 大軍集而満於其地。 因改号為磐余。 」 とある。
「 狭野は部隊を分遣し、曾富県の波多丘岬新城戸畔、和珥の坂下居勢祝、
臍見の長柄丘岬の猪祝の邑むら)を討伐。
高尾張邑を討伐して葛城邑と命名。 磯城邑を磐余邑と命名が大意 」
とある。
また、葛城に関する部分
「 又高尾張邑有土蜘蛛。 其為人也、身短而手足長。 与侏儒相類。 には皇軍結葛網而掩襲殺之。 因改号其邑曰葛城。 」
とある。 現代語に直すと
「 又 高尾張邑に 土蜘蛛有り。 其の人と為り身は短くして 手足長く、
侏儒と相類たり。 皇軍 葛網を結いて 掩襲ひ殺しつ。 因りて 其の邑を改め号けて 葛城と曰ふ。 」
神武天皇軍は、身体が小さく、手足の長い現地人を制圧するのに、葛の縄を使用したので、
葛城にした、と書かれている。
◎ 次の章 「 葛城の高丘 」
司馬遼太郎氏は、「葛城の高丘」で、以下のように記述されている。
「
五世紀の後半、大和の初瀬に居住した、雄略天皇の悪業が、日本書紀に書かれている。
この帝は即位の前に皇位継承権を持つ兄たちを殺したが、
ついでに、先帝の重臣だった、葛城円(かつらぎのつぶら) という者をも殺し、
葛城氏を滅ぼした。
この時、葛城の領地は、雄略帝のものになり、
大和盆地の勢力が、葛城山を圧倒し、古代葛城王朝の末裔はここに絶えたとみていい。 」 と、書いておられる。
(注) 初期の大和王朝は、天皇の力がなく、地方豪族の連合体の上に、天皇が象徴としていたと、と、思われる。
◎ 「一言主神社」の章
この章は、雄略天皇に逆らった、一言主神が土佐に流される話である。
釈日本紀二十八巻の 「雄略」 のくだりに、
「 時ニ神、 天皇ト競ヒ、 不遜ノ言アリ。
天皇大イニいかり、 土左 ニ移シ 奉ル 」
とある。
遼太郎は、
「 一言主神が、天皇の衣装をつけ、
天皇の供ぞろえをしたことは明治憲法では不敬のきわみであるが、
葛城王朝の神である一言主神の感情よりすれば、
天孫民族こそあとから大和に来たものたちであり、
自分たちの方が古い。
しかも、葛城円の死によって、 その氏族神である自分を祀る者がなくなった。
そのうらみから、 天皇の前で、不埒な行動に出たものだが、
先住民族に、 天皇の対抗する力は残っていなかったため、
葛城王朝の遺民と、一言主命は、 土佐に流された。 」
と同情している。
(注) 昨年、 高知市の東北一キロにある、土佐一宮の土佐神社を訪れたが、
そこに、一言主命が祀られていた。
また、その付近に、葛木神社があり、 大和葛城の神が祀られていた。
遼太郎は、 『 雄略という天皇が、 葛城の神を土佐に追放したかどうかはわからないにしても、 葛城に先住していた神々が、大和から追い出されてしまったことだけは、たしかだろう。 』 と記している。
(ご参考) 葛 城 王 朝
葛城王朝のことを知らなかったので、 「日本の歴史1 井上光貞著(昭和40年発行・中央公論社) 」を再読し、 まとめたのが、以下である。
『 葛城氏が、活躍したのは四世紀の後半、
俗に 「古墳時代」 といわれる時代で、 卑弥呼の邪馬台国、 そして、 倭の大乱を経て、
国家が成立しようとしていた時期である。
三世紀の邪馬台国の方が、大和政権の興起期である、 この時期よりはっきりしていて、
四世紀は、謎の世紀 といわれる。
空白の世紀 とも呼ばれるが、 この時代にはまだ文字もなく、
政治的に流動期であったことから、 いろいろな学説が乱れ飛ぶ訳である。
根拠とする研究の対象になるものは、当時の中国や韓国の歴史書と、
国内では日本書紀と古事記があるが、
日本書紀と古事記が創られたのは、西暦720年、712年 と、三百年以上の後のことである。
しかも、 記紀 (古事記と日本書紀) を編纂する際、
参考にしたのが、旧辞(古い伝承を集めたもの) と、
帝記( 稗田阿礼が暗誦していた天皇の系譜 ) であり、
それらがどれだけ正確か疑問である。
天皇の誕生に関する記述としては、 日本書紀と古事記では 「高天原」 という天上の国から、 日向の高千穂の峰に降臨した、 ということなっている。
昭和二十三年、江上波夫氏が、
騎馬民族説 「 崇神天皇は任那 (当時日本が支配していた韓国南部の国) からの征服者である 」 を発表して話題になった。
これに近いのが、 古代満鮮史研究家・三上次男氏の説で、
「 当時の朝鮮 (扶余・高句麗・百済など) の支配者は、
狩猟民的な民族であった。
そればかりではなく、日本国家を成立させた主体も、そのような民族と見てよいだろう。 」
というものである。
天皇家の始祖はだれなのか?、
外来人の末裔か否かについて、 結論はでていないようである。
記紀に記されている天皇の系図に疑問が出ていて、
「 応神王朝以前の天皇は、架空の人物であり、
応神天皇が 実在の初代であろう。 」 と説く学者がいる。
中国南朝の「史書」に、 五人の倭王が遣使したことが、書かれているが、
天皇の名は、 讃・珍・済・興・武 と、中国風に一字で現わしていて 、
五人がどの天皇なのか分かっていない。
武は、応神王朝 (西暦400年頃) の 雄略天皇 であるというのは定説になっているが、
それ以前の天皇には、色々な説がある。
応神天皇は、北九州の豪族 (邪馬台国と対峙した狗奴国王の末裔) というのが、
水野学説であるが、
著者の井上氏は、 応神天皇は外来系の人であったと、 推論されている。
はっきりしたことはわからないが、 応神天皇の時代には、 北九州から大和にのぼってきて、
これまでの大和王朝の王位を奪ったのが、正しそうに思える。
畿内勢力を屈服させて、誕生した、応神王朝を補佐したのが、葛城氏である。
その活躍振りは、 「日本書紀 神功皇后紀 六十二年(382)に、
「 新羅がそむいたので、(葛城)襲津彦をつかわして撃たせた。 」 とある。
葛城襲津彦の娘は、 応神天皇の子 ・ 仁徳天皇と結婚し、三人の天皇を生み、
その後も、政略結婚により、葛城氏は、天皇の外戚として、権力を振った。
このころ栄えていた氏族に、 応神王朝成立に功労のあった、和珥氏がいる。
和珥氏の一族は、後宮に入ったものが多く 、二世紀に亘って繁栄し、
氏族は、春日・粟田・小野の諸氏に分岐して行った。
初期の大和朝廷 (応神王朝) は、
天皇家を中心とする、畿内周辺の諸氏族の連合体であったことは明かであるが、
海外遠征の将軍として、武勇に秀でた葛城氏と、
応神王朝成立に功労のあった、内政の和珥氏が、中核を占めていたことは間違いないだろう。
岸俊夫氏は、 「 葛城氏は、大和西南部の葛城地方、
和珥氏は、大和東北部 (旧大和国添上郡和邇、 現天理市和爾町、 櫟本町付近 ) に、
根拠をもっていたことから、
崇神王朝の根拠地は、奈良盆地東部の「佐紀古墳群の地」 にあったと思われる。 」
としている。
いずれにしても、今から千六百年前の西暦400年の古墳時代に、
この地を舞台に活躍した人達の歴史が、 葛城古道を彩っていることは間違いない。
◎ 「 高鴨の地 」の章
前述の一言主命の話の後篇である。
遼太郎は、
『 その後、三百年経ち、天平宝字八年(764)、
この葛城の鴨族の巫人のひとり・ 高賀茂田守が奈良の朝廷に奏して、
土佐から一言主神を呼び戻すことに成功した。
神祠を建てたところは 「高丘」 という高台で、
さまざまなことから類推して、ここがどうやら、古代葛城王朝の宮殿の場所であったか、
と思われる。
なぜなら、伝説上の第二代目の天皇である、すいぜい帝 の皇居が、ここにおかれたというし、
のち、 葛城氏後裔と称する、蘇我蝦夷が、自分のはるかな祖先の祖廟をつくるとして、
この地を選定したからである。
その高丘は、いまの地名でいえば(御所市)森脇であり、くりかえすようだが、
いまの一言主神社のある高台である。 』
と記している。
◎ 「 一言主神社 」の章
「一言主神社」の章では、
京都に残る賀茂川や、下賀茂や上賀茂の地名を残す 「鴨 族」 について触れている。
鴨族の出身で有名なのは、鴨長明と役小角で、特に役小角については、詳しく書いている。
◎ 最後の「 高鴨の地 」の章
「高鴨の地」の章は、小生も訪れた高鴨神社についてである。
司馬遼太郎氏は、一言主神社から、葛城のふもとを南にたどって、高鴨神社を訪れている。
鴨族の祖神をまつる、この高鴨のやしろは、古代鴨族の根拠地にあり、
葛城の段丘式水田の壮大な風景の森をなしている。
遼太郎は、 「 高鴨神社の森に入ると、すぐ古色をおびた池があり、
葛城・金剛の山みずをここに溜める、というしくみであったことが、ひと目でわかる。
この森の池が、鴨族の段丘田園をうるおし、 その人口をやしない、
更にはこの水のほとりにその族神をまつって、水のまもりにしたのだろう。
この森をふくめた段丘の風景ばかりは、おそらく弥生のころから変わっていないようにおもえた。 」 と書き、葛城の旅を締めくくっている。
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