東大寺の歴史
「 聖武天皇は、神亀五年(728)、金鐘山寺を建立。
天平十三年(741)、聖武天皇は、全国に国分寺・国分尼寺の建立の詔を出す。
この時 大和金光明寺となり、これが東大寺の前身とされる。
東大寺の正式名称は、金光明四天王護国之寺で、華厳宗の大本山である。
奈良大仏と知られる盧舎那仏を本尊として、良弁別当により開山された。
奈良時代には、 中心堂宇の大仏殿(金堂)の他、
東西に二つの七重塔(推定高さ七十メートル以上)があり、大伽藍が整備された。
治承四年(1180)、 源平の合戦の時、 平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ、伽藍の大部分が焼失した。
源頼朝の全面協力を得て、大仏開眼供養が行われ、大仏殿の復興、南大門や東塔も完成した。
戦国時代に入ると、永禄六年(1567)、三好・松永の乱が起こり、
二月堂や法華堂、西大門や転害門、
正倉院や鐘楼など、僅かな建物を残して、中心伽藍のほとんどが灰塵に帰した。
徳川将軍・徳川綱吉と母桂昌院の寄進を受け、
大仏の修理は元禄四年(1691)に完成し、
宝暦六年(1709)に大仏殿が完成した。 」
大仏前春日大社前のバス停で、バスを降り、東大寺の境内に入る。
大仏前春日大社前のバス停から北に向うと南大門がある。
「 南大門は、高さ二十五メートルの重層入母屋造の大門である。
現存する門は、鎌倉時代の正治元年(1199)に再建されたもので、
東大寺中興の祖・俊乗坊重源が、中国宋の建築様式といわれる大仏様を採用した建築として知られる。
門の左右に、 金剛力士像(仁王像)と石造獅子一対を安置する。
上層の正面中央に、 「大華厳寺」 の扁額が掲げられている。
金剛力士像は、建仁三年(1203)に僅か七十五日で、
運慶、快慶らによって造立されたといわれる。
高さ八メートル四十センチの巨大な木像で、国宝に指定されている。
右に吽形(うんぎょう)、左に阿形(あぎょう)を安置している。
作風から吽形は運慶、阿形は快慶と考えられてきたが、
解体修理の際発見された墨書などから、
運慶が制作の総指揮を執ったのは意見の一致を見たが、
阿形像・吽形像の現場の制作の分担については解釈が分かれている、という。
石造獅子像は、建久七年(1196)に、宋人の字六郎が作製。
大仏殿中門に置かれていたが、室町時代に南大門に移された。 」
南大門をくぐるとm目の前に現れるのは、大仏殿である。
「 大仏殿は、聖武天皇の誓願により、奈良時代に建立された。
二度の兵火により焼失し、
現在の建物は、江戸時代の宝暦六年(1709)に再建されたものである。
文化三年(1806)に、下層の屋根がその重みに耐えられず、
波を打って垂れさがったことから、屋根を支える支柱を設けた。
明治三十九年(1906)の大修理で、大屋根を支える虹梁に、
イギリス製の鉄骨トレスが組み込まれた。
大仏殿は、寄棟造、本瓦葺き、二階建てに見えるが、一重裳階(もこし)付きで、
正面五間、側面五間の見舎の周囲に一間の裳階を回している。
間口五十七メートル、奥行五十メートル五十センチ、高さは四十六メートル八十センチである。
奥行きと高さは創建当時と変わらないが、間口は3分の2に縮小されている。 」
大仏殿に入ると正面に大仏(盧舎那仏)が鎮座する。
「 東大寺の大仏は、天平十七年(745)に制作が開始され、
天平勝宝四年(752)に開眼供養会が行われた。
のべ260万人が工事にかかわったとされる。
当初は紫香楽宮に造られる計画であったが、
都が平城京に戻るとともに、現在地での造工が開始された。
東大寺の二度の大火により、大仏殿とともに焼失。
二度目の火災後は、大仏殿がすぐには実施されず、百数十年が経過。
その間、大仏は仮修理のまま、露座で数十年が経過、江戸時代に入り、
公慶上人の尽力により、大仏、大仏殿とも復興。
現存する大仏の頭部は、元禄3年(1690)に鋳造されたもので、元禄五年(1692)に開眼供養が行われた。
大仏の高さは14.7メートル、基壇の周囲は70メートルで、頭部は江戸時代、
体部は鎌倉時代の補修と当初のものは少ない。
台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに、一部、
天平時代のものが残っている。
台座の蓮弁に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、
天平時代の造形遺品として貴重である。 」
大仏の脇侍として、左右に木像の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置する。
堂内北西には四天王の広目天、北東には多聞天を安置する。
いずれも、江戸時代復興期のものである。
四天王の内、残りの持国天と増長天は未完成に終わり、
両像の頭部が大仏殿の中に置かれている。
堂内北西には四天王の広目天、北東には多聞天を安置する。
いずれも、江戸時代復興期のものである。
四天王の内、残りの持国天と増長天は未完成に終わり、
両像の頭部が大仏殿の中に置かれている。
七重塔が左右に建っていた奈良時代の東大寺の伽藍の模型が置かれているが、
これは明治四十二年(1909)に日英博覧会用に製作されたものである。
大仏殿を出ると、大仏殿の前に建つ金銅八角燈籠は、総高464センチで、 たびたび修理されたが、 基本的には奈良時代創建時のもので、国宝に指定されている。
「 火袋は四方に扉を付けた八角形で、 扉の四面に雲中を駈ける4頭の獅子が、 他の4面にはそれぞれ異なる楽器(横笛、尺八、ばち子、笙)を奏する音声菩薩が、 鉄格子と唐草文様の透かし時の上浮き彫りされている。 四面の羽目板の西北面と西南面は当初のもので、東北部と東南部はレプリカである。 東北面の羽目板は東南に遭い、その後、発見されたが、この物は別途保管され、 灯籠にはレプリカをつけている。 」
大仏殿を出るところにある門は、中門であるが、訪れた時は廻廊を修理していた。
中門と東回廊、西回廊は享保元年(1716)から元文二年(1737)にかけて、再建されたもので、
国の重要文化財に指定されている。
中門を出て、若草山側に行くと、三月堂と二月堂がある。
「 三月堂は、東大寺の前身とされる金鐘寺の建物と伝えられ、若草山の山麓にある。 東大寺に残る数少ない奈良時代の建物であり、南側の入母屋造の礼堂と寄棟造りの中間に、
鎌倉時代の改築により、屋根を葺き、一棟になるように造られたとされる。
堂内には、本尊の不空けん索観音立像、梵天、帝釈天立像などの仏像を安置する。
二月堂は、旧暦2月のお水とり(修二会)の行事で有名である。
本尊は大観音、小観音と呼ばれる二つの十一面観音で、秘仏である。
現在の建物は、寛文七年(1667)、お水とり最中に失火し焼失、二年後に再建されたものである。
建物の西側は急斜面になっていて、懸崖造りで、作られていて、国宝に指定されている。
お水取りを行う井戸(若狭井)がある。 」
訪問日 平成二十九年(2017)一月十四日