◎ 高取城の概要
「 高取城は、奈良盆地南方に連なる吉野山系の標高五百八十三メートルの山頂に築かれていた山城で、日本三大山城に数えられる。
南北に長い尾根に、高石垣により築き上げた二十七基の櫓を備えた巨大な近世山城であった。
山頂の南東部には、尾根に沿って、本丸・二の丸・三の丸と多くの曲輪が配され、
石垣が積まれている。
本丸は二段構えになっていて、上段には天守曲輪が設けられ、
北西隅に三重三階の天守が築かれた。
天守は、石垣の上に構えられた小天守と多聞櫓で、連結されていた。
二の丸下段に、大手門または御城門と呼ばれた枡形が構えられ、
主郭部へ至る重要な門になっていた。
築城したのは、南朝方の越智邦澄である。
その城を本多利久などが、総石垣の近世城郭に修築した。
高取城の堅固さは、幕末に天誅組が乗っ取ろうとしたが、
攻略できなかったことにより、証明されている。
明治の城取り壊し令により、明治六年(1873)入札が行われ、城の大部分が取り壊され、
または売却された。
現在も残る遺構は、移築された児童公園の松の門や子嶋寺の二の門などである。
、
城跡には、堅牢な石垣群は残っており、国の史跡に指定されている。
また、日本100名城の第61番に選定されている。
高取城は、近鉄吉野線壺坂山駅から歩くと、
約50分で子島砂防公園で、更に高取城本丸まで1時間10分を要する。
また、山歩きなので、トレキングの服装が望ましい。
バスは壺坂寺まではあるが、本数が少ない。
壺坂寺から徒歩60分。
」
歩き切る自信がなかったので、
調べると、八幡口に数台停められる駐車場があることが分かった。
奈良市でレンタカーを借り、訪問した。
高取城は日本100名城に指定されていて、そのスタンプは麓の夢創館にあるので、まず、そこを目指す。
夢創館は国道169号にあると思いすぐ分かると思ったが、案に相違した。
近鉄吉野線壺坂山駅東口の信号交叉点を越え、次の交叉点を右折して、
約千メートル歩くと右側にあった。
この道が土佐街道で、車は一方通行である。
夢創館は大正時代に呉服屋を営んでいた町屋を改修し、町の観光案内、地場産品の展示販売を行っている。
その裏にあるくすり資料館は、薬の町として発展してきた歴史やくすりに関わる道具や看板、置き薬等が、
蔵の中に展示されている。
周囲には高取藩筆頭家老の植村家長屋門、武家屋敷の田塩邸があり、
児童公園には高取城の松の門が移築されている。
夢創館の駐車場は8台程度で、観光案内板が立っていた。
この後、車で八幡口まで行き、そこから壺坂口門跡を経由し、城へ向かった。
八幡口には、「史跡 高取城跡」 の説明板が建っていた。
八幡口にあった説明板
「 高取城は、奈良盆地の南端、標高五八四mの高取山の山頂を中心に、
急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。
何段にも重ねた石垣や喰い違い虎口(出入口)、急斜面により守られ、
山麓の城下町との比高差は四百メートル以上を測る。
十四世紀前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。
織田信長の一国破城により、天正八年(1580)に一旦は廃城となるが、
天正十二年(1584)の筒井順慶による復興をへて、
豊臣秀長の家臣本田氏により天正から慶長の頃(一六世紀末〜一七世紀初頭)に近世城郭として完成した。
江戸時代に入り、寛永十四年(1640)に、譜代の植村氏が入部して、
二万五千石の居城とした。
以後、明治維新まで、植村氏が十四代(230年)に渡って城主となった。
山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、
城と城下町の二様相を山城としてまとめた特徴がある形であった。
そのため山城としては広大にならざるを得なかった。
しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、
藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、
城郭と城下町が離れた特異な形態になっている。
二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は、「城内」 と呼ばれ、
山中のすべての曲輪を含んだ範囲が、「郭内」 とよばれている。
現在は、郭内に建造物は残っていないが、
広大な縄張りと堅牢な石垣群が残られており
国の史跡に指定されている。
指定年月日 昭和二八年三月三一日
平成二三年三月 奈良県教育委員会 」
八幡口には 「←本丸まで550m」 の標識と、 「砂防公園までトイレはありません」 の看板がある。
簡易トイレがあるので、すましておいた方がよい。
いよいよ出発である。
ここから先は山道であるが、右側には郭(曲輪)の石垣が残っている。
高取城が近代城郭に改築されたのは豊臣期なので、石垣は野面積みで、算木積みである。
少し行くと郭跡は終わり、森林の中をひたすら上る。
10分程歩くと、右側に崩れた石垣が現れる。
壺坂口郭跡 の高石垣で、傾斜も急である。
しかし、道脇に崩れ落ちた石があったのは心配、かなりの崩壊が進んでいた。
木柱で造られた階段を上ると、 「壺坂口門跡」 の標板が建っている。
壺坂口郭があったところで、土地は変三角形の形状をしていた。
道は右にカーブしながら上っていく。
5分程上ると左右に石組が現れる。
正面の石垣が直行を阻み、「壺坂口中門跡」 と書かれた標板があった。
両側の石垣は壺坂口中門の門石組である。
壺坂口郭はここまでで、郭は侍屋敷であったようである。
ここを越えると、二の丸までは石垣に囲まれた狭い道が続く。
中門を入った先の右側には細長く山並みに沿って、郭が造られていた様子だが、今は樹木が生えている。
そこをを過ぎると、高い石垣が現れる。
細い道の右側に聳える高石垣で、 大手門郭 の下部に位置する。
左側に続く樹木の下低い石垣が続くが、ここは城代屋敷跡である。
そこを過ぎると三叉路に出る。
「←壺坂寺方面 五百羅漢・土佐街方面」、 「←八幡神社口壺坂寺方面 ↑壺坂山駅 国見櫓方面」 の道標が建っている。
正面ハイカー用のベンチ、その左に、
「高取・明日香ハイキングコース」 の大きな看板、
右手には 「本丸200m→」、「←ニの門跡560m」、「↓八幡口400m」
の道標が建っている。
看板の奥(裏側)は、三の丸跡である。
この左右の道は大手道で、右折すると大手門を経由し、本丸へ、
左折すると二の門を経由して城下町へ通じる。
近くに、「芋峠2.3km→」 の道標が建っていた。
この標識の先に、吉野口郭跡 がある。
「 三の丸を抜け、右側の山裾を巡ると、
左側に尾根に沿って飛び出した場所に吉野口郭跡がある。
高取城は南朝の守りの役の為に築かれた城なので、吉野口郭は古くからあったと想像される。
その先には吉野口門があり、敵の手が迫れば吉野へ逃れることができた。
吉野口門の外側には、みろく堀切、と呼ばれる巨大な堀切が残る。 」
大手道を二の門方向に進むと、左側の石垣の中央に入口のようなものがある。
ブッシュ化(藪化)していたが、ここが城代屋敷の入口で、
城主に代わる家老級の武士が常駐していたのだろうと思った。
その先に左右喰い違いの石垣がある。 ここが、千早門跡 である。
ここは枡形になっていて、江戸時代には楼門があったのではないか、と思った。
「 大手道は、麓の城下町から、二ノ門・三ノ門・矢場門・松ノ
門・宇陀門を経て、ここに通じていた。
これらの地区は城の北西部にあたり、ニノ門から宇陀門までに多くの曲輪があり、
そこには高取藩の家臣達の屋敷があった。
二ノ門の右手には国見櫓が築かれた。
物見櫓として築かれたと思われる。
櫓は今はないが、石垣上からは、奈良盆地を一望する事が出来、
天候が良ければ大阪市街・六甲山・比叡山までも見通すことが出来る。 」
「高取・明日香ハイキングコース」 の大きな看板の右手は、大手門前である。
「大手門より高取城を望む」 というCGの写真の看板があった。
説明板
「 奈良産業大学CG再現により、天守閣を含む全容が明らかになり、
その壮大な規模や姿から、大天守や小天守、太鼓櫓などの基本的な様式の城郭の様子がうかがえる。
高取城は明治20年頃まで威容を誇っていたが、
取り壊し直前に大手門より撮られた写真で、
当時を偲ぶことができる。 」
CGによる復元図では、大手門の楼門の左手に、隅櫓と多聞櫓があり、
大天守と付櫓、小天守が描かれている。
当時の様子が想像でき、楽しい。
「 標高五百八十三メートルの急峻な山頂の南東部には、
尾根に沿っ、て本丸・二の丸・三の丸と、
多くの曲輪が配され、高石垣が積まれている。
本丸は、二段構えになっていて、上段には天守曲輪が設けられて、
北西隅に三重三階の天守が築かれた。
天守は、石垣の上に構えられた小天守と多聞櫓で連結されていた。 」
二の丸下段に、 大手門または御城門 と呼ばれた枡形が構えられ、
主郭部へ至る重要な門になっていた。
右側の石垣は手前に押し出し、左側の石垣はミドリの苔に覆われ、
光が当たる部分は光って美しい。
正面の石垣の下には 「大手門跡」 の標板があり、
手前右側には 「史跡高取城跡 大手道登城案内図」 がある。
「大手門跡」 の標板
「 この場所には、高取城の 大手門がありました。
大手門は 「御城門」 とも呼ばれ、城内への入り口である 「二の門」 、「壺坂口門」、「吉野口門」 から
城内に進むと、この 「大手門」 の前で一つになります。
この大手門が、二の丸・本丸への唯一の入口です。
本丸は、まさに高取城の中心であり、 高取山 の 最高所(標高583.61m) にあります。
二の丸は高取城で一番広く、日当たりのよい平場があり、
藩主の屋敷や政庁がありました。
本丸と二の丸からは、気象条件により、
葛城・金剛山の山並みから広大な吉野地域を望むことができます。
本丸まであと少し、がんばってください。
ここから本丸まで289m
壺坂山駅まで4484m 」
大手門の虎口を形成する石垣は高く、迫力がある。
これらの石垣は野面積みである。
右折して石段を上ると、左折する。
右側の石垣は低くなるが、左側は高石垣である。
大手門は枡形になっているので、両側の石垣を右に左に曲がりながら進む。
大手門を出ると、二の丸下の狭い細長い郭跡である。
その先に、石垣が見えるが、これは二の丸への虎口である。
周囲をぐるりと取り囲んでいる。 石垣に次ぐ石垣である。
その先にある虎口は、十三間多聞櫓である。
門に入ると正面の石垣の下に、「十三間多聞櫓」 の標板が立っていて、
手前の足元には、門の礎石と思われる石があった。
十三間とは約24mで、かって、左右の巨大石垣の櫓台の上に多聞櫓が乗っていたので、その名が付いた。
右折し、左折すると二の丸の虎口で、その先は二の丸である。
二の丸は、南西隅の二層の客人櫓とそれらを繋ぐ多聞櫓で守られ、
中央に二の丸御殿が建っていた、いう。
今は東屋が建っていた。
左奥、二の丸の中央を上段と下段に隔てているのは、太鼓櫓・新櫓の石垣である。
「 太鼓櫓・新櫓は本丸手前に配置された石垣で、
昭和四十七年度に修復された。
この上に太鼓櫓・新櫓が建てられ、堅牢な構造となっていた。 」
石垣の下に、「高取城沿革」 の説明板があったが、
文字が風化しすべてを読みとることは不可能であった。
また、 日本三大山城説明板 がある。
説明板「日本三大山城」
「 大和郡山城と美濃岩村城、そして備中松山城の名前が記載されていて、
この三つの城は、日本三大山城サミットを開催し、交流を深め保存と活用に努めている。 」
左側の狭い道を行くと、右側に、二の丸の上段と下段を分ける虎口がある。
門の手前右側に、ちょとした石垣の土台的な場所が築かれているが、番所的な場所であろうか?
石段を上ると、両側にある立派な城門石垣前に、「十五間多聞櫓」 の標板がある。
江戸時代には左右の石垣を渡す形で、十五間(約27m)の多聞櫓が建っていた。
十五間多聞櫓を上りきると、二の丸上段である。
左手には、本丸・天守台の高石垣が聳える。
右側に石段があるが、江戸時代には、左右に太鼓櫓と新櫓が建っていた。
今は大きな樹木が生い茂っていて、展望はよくない。
「 南側の太鼓櫓は二重二階、北側の新櫓も二重二階で、
その間を土塀でつながれていて、太鼓櫓から十五間多聞櫓が繋がっていて、
新櫓と太鼓櫓と十五間多聞櫓がL字型をなしていた。
この建物群の機能としては、ここで天守の防衛を果たし、馬出の形式をしていたと考えられている。
この石垣が新しくみえるのは、昭和四十九年に修復されているからである。
新櫓は太鼓御櫓の後ろ側にあたるため、明治の古写真に姿はないが、
石垣の構造などからおそらく同規模の櫓が建っていたと推定されている。
新櫓台には礎石跡が確認されている。 」
太鼓櫓・新櫓石垣の右側の狭い道の先に、七つ井戸へ出る虎口がある。
搦手門 といわれるもので、枡形になっていたと思われるが、
江戸時代にはその下に七つ井戸があった。
パンフレットの記載
「 高取城の裏手(搦手)側の急な斜面には、
七つ井戸と呼ばれる石垣造の井戸が四つ見られます。
山城では水の確保が要となります。
七つ井戸のある斜面には石垣が連なるように築かれています。
下から見上げると、新櫓台まで巨大な高石垣のように錯覚します。 」
降りて行ったが、「井戸あり 注意」の看板があるが、井戸は見つからなかった。
高取城の井戸は多数見受けられるがその大半は、雨水や湧水を集水したもので、
地下の水脈まで到達した井戸はほとんどない。
この道を下ると七曲りの道で、降りきると車道の行き止まりのところに出る。
仮設トイレがあり、普通車はここまで来られるが、
前述したように訪れた時は八幡口で通行禁止になっていた。
二の丸まで戻る。
左側の低い石垣の右側が当時の登城道で、当時は道の右側から手前にかけて、
逆L字の石垣があり、枡形に折れ曲がった入口であった。 地面にはその痕跡が残っている。
今は二の丸から天守台石垣までまっすぐ進むが、
当時は下ノ門があり、枡形を何度が曲り、上ノ門に出ていた。
右側の巨木のあたりに、、上ノ門があったのではないか?
巨木には、 「 御神木 天守大杉 芙蓉姫 樹齢七百年
樹高弐拾六米 幹周五・参米 」 という説明があった。
その先は、本丸天守台石垣で、 二十段から二十五段程の高石垣である。
城内最大の十二メートルの高さで、その上に三重の天守が建っていた。
巨木の近くに、 「高取城址」 の石碑が建っていた。
本丸への登城道は、天守台の左側の細い道である。
本丸へ行く前に、本丸石垣を一周することにした。
「 本丸は、大天守、小天守、三層櫓群を、
多聞櫓(長屋状の櫓)で繋ぐ壮大な構えであった。
本丸の下は帯曲輪になっていて、周囲は石垣で固められ、
それぞれの隅部には櫓が建ち、虎口なども設けられていた。
天守台石垣は少し飛び出した形状で、右端で屈折し、その先、右に続く石垣があり、
この石垣の南西端の上に小天守が建っていた。
小天守の真下の帯曲輪には平屋の小さな未申櫓が建っていた。 」
未申櫓(ひつじさるやぐら)跡には、今もその形跡を示す、礎石が残っている。
未申櫓跡の右下側には、二の丸石垣が回りを囲んでいる。
その先にも、本丸の石垣が折れ曲がりながら続く。
本丸南側の石垣の上には多聞櫓が連なっていた。
石垣は築城後400年、廃城より150年経過したが、
ゴツゴツした打込みハギの石垣がそびえている。
本丸北東側の石垣の上には、江戸時代、鉛櫓が建っていた。
「 石垣の下部に、六段程の石垣が飛び出すように築かれている。
犬走りのような低い石垣であるが、後年、石垣の補強のために築かれたのか、
他に目的があったのか?が、気になった。
江戸時代には、鉛櫓正面の帯曲輪の外周に平屋の櫓があった。
その土台が残る。
その右奥には帯曲輪を仕切る城門もあった。 」
本丸虎口に近い高石垣の上には、江戸時代、鐙(あぶみ)櫓 が建っていた。
本丸の入口には木彫りの城と熊の置物があった。
ここは帯曲輪の北部に位置する。
城の入口を虎口というが、最も重要な形式が枡形虎口である。
本丸の枡形虎口は城内でも特に強固である。
本丸入口に入り、奥の石垣に沿って右折すると、道はすぐにまた、右に曲がる。
左側は今はそのまま帯曲輪に飛び降りる程度の高さであるが、
当時は土壁があって、壁と石垣の間の狭い通路を通る感じになっていた。
突き当たりを右へ。 右に曲がると、今度は左に曲がっている。
当時はここに城門があった。
城門のものと思える礎石が残っている。
「 城門の扉を中央で固定したのか、 あるいは太い柱が真中に据え付けられていたのか、 大きな四角の穴が開けられた大きな石が埋め込まれている。 」
突き当たりを左に曲がると、右側に木が生えているので分かりづらいが、 正面の石垣で、左右両方に道が曲ってある。
突き当たりで右にむくと、行き止まりに見えるが、 入って行くと右側に細い石段があり、 本丸天守台前へ直接行けるようになっている。
「 江戸時代には、この周囲の石垣に土塀が巡らされていたので、
見通しは悪かった。
江戸時代にも石段で上れたのは不明で、城の警備からすると簡単に天守へ行けたとは思われない。
なんらかの工夫が施されていたのではないか?」
本丸虎口は四回曲って、直線の奥が本丸で、「喰い違い虎口」 である。
本丸広場に出た。
「 本丸は東西七十五メートル×南北六十メートルの広さで、
高さは約八メートルの石垣に囲まれていた。
背の高い木が多く生えているので、イメージがわかないが、
「本丸大広間」 という場所に、礎石が数カ所あり、
一棟の御殿があったと考えられている。」
左手(南西角)の一〜二段の石垣の上に、江戸時代には、
三重三階の 「小天守」 があった。
大きさは東西12メートル×南北13メートルである。
本丸中央に、「本丸」 の説明板が建っている。
屋根は苔蒸しているが、文字は読むことができた。
説明板「本丸」
「 本丸は、 大小二棟の天守閣と鉛櫓(平櫓)、 硝煙櫓(東側、二重三階) ]を多聞櫓
(塁上に設けた細長い単層の櫓) と 塀によって接続する。
これを連立式(天守の縄張り)といっている。
東西四十間余(約七三米)、南北三五間(約六四米)の凸字型の平面をなしている。
地型の変化に対応して築かれた山城は、自然に不規則な縄張になる。
しかし、この本丸は平城城郭のような整然さを有するので、
築城技術の完成したころの構築とみなされる。
昭和四十七、四十八年度の県教育委員会の高取城修理にともない、
本丸東北隅の部分を対象に、石垣の実測、根石の状態を調査した。
石垣のひずみの部分は後補のものであり、
隅石には転用材を使用していることが明らかになった。
転用石の中には、漆喰が付着した石が二箇検出され、
切石古墳の石を使ったものと想定される。
漆喰については、分析によると、
桜井付近で古墳漆喰の分析値と似ていると報告されている。
また、本丸鉛櫓下の背面に、補助的に設けられた、付台石垣の下に配列された、
胴木の存在は、山城での遺存例として、現在のところ唯一の発見例で、注目すべきものである。
奈良県教育委員会 」
説明板の奥は南多聞櫓の跡である。
石垣の上に、礎石が残っていた。
多聞櫓の先には大天守の石垣が見えるが、その前に水がある穴がある。
ここは本丸御殿跡で、穴は東西約5メートル×南北約3メートルの「楠井戸」である。
楠井戸の奥にあるのが、大天守台である。
「 天守は本丸の北西に位置し、
天守台の石垣は 打込みハギ で、隅部は算木積みで反りのない工法である。
天守の大きさは東西約十六メートル、
南北約十四メートルで、「御天守」 と呼ばれていた。
外観は、「和州高取城山之絵図」 によると、
一重目は千鳥破風、二重目の中央に出窓形式、
三重目には軒唐破風があり、
外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観三重、地下一階の天守が推定されている。 」
石垣の中央が凹んでいるが、天守台には通路が約3メートルの穴蔵を設けていて、 穴蔵部分に相当する。
「 このような、穴蔵形式をもつ天守台は、 他では犬山城、福知山城、 岐阜城が同じような形式で、天守台としては、発展期の築城様式と考えられている。 」
天守の右側(東側)には、付櫓台 があり、二重の具足櫓が建っていた、
と考えられている。
現在はその形跡は残っていないが、天守台に行ける木の階段が架けられていた。
階段を上り、天守台に立つと、空地の中央に、「基礎測量」 と 「三等三角点」 と書かれた木柱と、 三角点を示す石柱が埋められていた。
ここで、高取城の探索は終了である。
高取城へは、近鉄吉野線「西壺坂駅」から奈良交通バス「壺坂寺」行きで、 「壺坂寺前」下車、徒歩約60分
訪問日 令和三年(2021)四月十四日