大宇陀地方は、古代には阿騎野と呼ばれ、朝廷の薬猟の地であった。
室町時代に秋山氏により、城が築かれ、江戸時代の初期頭には織田松山藩の城下町であったが、廃城になった後は、 商人町として繁昌した。
薬草栽培や吉野屑の生産地として知られ、 重要伝統的建造物群保存地区に選定された城下町は今も優美な町並みを残している。
大坂夏の陣後、隠棲したといわれる後藤又兵衛が住んだ地に咲く又兵衛桜は有名である。
◎ 大宇陀
近鉄榛原駅からバスに乗り、十五分程で道の駅のある大宇陀バスセンターで降りる。
正面の交叉点を越え、川を渡ったところで左折して道に入ると、
「菩薩と歩む夢行道」 の幟が立っていた。
その先の右側に、 続日本100名城のスタンプが置かれている、 松山地区まちづくりセンター千軒舎がある。
その前の通りは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて、
古い家が残っている。
右側にある森野旧薬園は 江戸時代中期に、 森野通貞によって、
開園された薬草園である。
江戸時代の面影をそのまま残す希少な薬園であることから、
大正十五年(1926)に国の文化財史跡に指定された。
五百メートル先の右側角に建っているのは、 宇陀市歴史文化館「薬の館」である。
「 この建物は薬問屋を商っていた細川家住宅を改修したものである。
館内には細川家の資料や藤沢薬品に関る資料を展示している。
細川家は、文化三年(1806)から、薬問屋を営んできた家柄で、
この建物は江戸時代末期の建築とされる。
細川家は、藤沢樟脳(しょうのう)の製造販売を始めた藤沢商店(のちの藤沢薬品、2005年に山之内製薬と合併してアステラス製薬)の創始者・藤沢友吉の母方の実家である。 」
宇陀松山城は江戸時代の初期に廃城になってしまったが、
松山の地は伊勢、攝津、山城への交通の要衝にあったので、
商人町として繁昌し、薬草栽培や吉野屑の生産地として知られた。
重要伝統的建造物群保存地区に選定された城下町は今も優美な町並みを残している。
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松山地区まちづくりセンター | 森野旧薬園 | 宇陀市歴史文化館「薬の館」 |
ここから三百メートル行くと右に入る道があり、「春日神社参道」の石柱が建っている。
少し歩くと右側に石垣があり、右に登る石段がある。
この石垣が春日門の一部だろう。
石段を上ると踊り場になっていて、右に「春日門跡」の説明板があり、
左手には春日神社の鳥居が建っていた。
説明板「春日門跡」
「 春日門跡は、松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置する。
現在、門跡には虎口(出入口)を構成する東西二つの石垣積の櫓台が残っている。
東櫓台は東西約四メートル以上、南北十メートル以上、
高さ六メートルの規模を持つ櫓台の南西隅に一段低く、
東西約四メートル、南北約七メートル、高さ約二メートルの櫓台が取り付く。
西櫓台は東西約六メートル、南北十一メートル以上、高さは約四メートルである。
春日門は十六世紀末から十七世紀初頭に築造された。
松山城下を建てる時に町人地と武家屋敷、城館とを分ける虎口として造られた。
また、現存する櫓台は十七世紀後半の宇陀松山藩時代の向屋敷、上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築である。 築城当時の春日門は現在とは異なり、南北約十・五メートル、
東西四メートル以上の東櫓台南端の西に付け櫓が付く構造だった。
西櫓台は現在と同じ規模、構造と思われる。
門は東櫓(付け櫓)と西櫓の間と、櫓間を通り抜け、左折した所の二ヶ所に位置したと考えられる。
この段階の春日門は東櫓は大手筋を貫いた視線が集中する位置にあり、
櫓台の規模の大きさから松山城下町の象徴的な建物だったと思われる。 」
左手の鳥居をくぐって登って行くと、広場があり、その先の小高いところに、
春日神社がある。
春日神社へ登る鳥居の右側には小さな道があり、「史跡宇陀松山城跡」
の大きな石柱が建っていた。
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春日門櫓石垣 | 春日門跡 | 宇陀松山城跡石柱 |
その道を進むと、山腹に、「史跡宇陀松山城跡」 の説明板があり、 「あと百メートルで城跡」 の標柱があった。
説明板「史跡宇陀松山城跡」
「 宇陀松山城は、南北朝以来、宇陀郡の有力国人秋山氏の本城として築かれた。
天正十三年(1585)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴う秋山氏の退去後は、
豊臣家配下の大名の居城として、
改修、整備が行われ、大和郡山城、高取城と並ぶ大和国支配の拠点となった。
しかし、関ヶ原合戦の後に入封した福島高晴が、
元和元年(1615) 大坂の陣直後に改易されたことにより、
城は取り壊された。
この城割役を担ったのは小堀遠州と中坊秀政である。
宇陀松山城は、江戸時代の初期に廃城になってしまったが、
江戸幕府は織田信雄を宇陀松山藩藩主にし、
信雄は三万一千二百石、四男信良に上野小幡二万石を分知して、領した。
陣屋は、宇陀市大宇陀地域事務所あたりにあったとされるが、遺構は残っていない。
織田信雄の孫、長頼は、寛文十一年(1671)、陣屋を現在の春日神社西側付近に移し、
上屋敷を造営し、松山新陣屋と称したという。
元禄七年、四代信武は、宇陀崩れといわれるお家騒動の末、自殺したため、
五代信休は丹波柏原へ移封になり、八千石減封となり二万石になったが、国主としての格式を剥奪された。
平成七年(1995)から発掘調査が行われ、大規模な石垣や本丸御殿跡などが見つかり、
織豊期から江戸初期にかけて、壮大な城郭の姿が明らかになり、
平成十八年(2006)七月に国の史跡に指定された。 」
その先の道は両側は林で、堀割のように切裂いた狭い道である。
そこを出ると、両側は土塁で囲まれ、左側の土塁の下には深い横堀が西側斜面を断ちきっていた。
その先は石を敷いた道で、正面の土塁の下には二段の石垣があった。
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説明板 | 横堀 | 二段の石垣 |
宇陀松山城は、山頂の東に天守曲輪、西に本丸を置き、 天守曲輪の東端には天守台があり、本丸は西と南に虎口を開く縄張になっていた。
入口付近には、虎口跡 と思える石垣があり、中に入っていくと、
本丸跡 の中央より、右手に 「奈良県景観資産 大峰山脈が眺望できる宇陀松山城跡」 の看板があり、そこからは山々が見通せた。
ここには 「本丸」 の説明板がある。
説明板「本丸」
「 本丸東西五十メートル、南北四十五メートルの広さを有する城内最大の郭である。
西辺の中央に十五メートルX十メートルの張り出しを持つ。
本丸上には対面、接客などの儀礼空間としての本丸御殿 「表向屋敷」 が建つ。
本丸御殿は、広間を中心に、遠侍・家臣溜・書院・台所の五棟の殿舎からなり、
全体の規模は東西二十間半、南北十二間半だった。
城割時に投棄された瓦の出土状況から、本丸御殿は、桧皮ないしは柿葺きと推定される。
また、本丸周囲の石垣沿いには瓦葺きの多門櫓が連なり、
北西隅を除いて全周し、途中西虎口、南東虎口の二つの門とも繋がり、
強固な防衛ラインを形成する天守櫓への虎口は二ヶ所確認されている。
そのうち、北側の虎口は石垣積の付櫓を構築する格調あるものとなっている。 」
今回確認できなかったが、本丸の南下は帯曲輪跡で、かっては東に大御殿があった。
「 大御殿の南東に堀切を通路とした虎口があり、その先にあったのが二の丸で、端に櫓台が付く。
しかし、近年の大雨により土砂崩れが発生し、曲輪の一部が大幅に崩落してしまったようで残念である。 」
本丸の東に見えるこんもりと盛り上がった部分が、 天守曲輪跡である。
少し盛り上がった丘のように見えるが、左手前は少し張り出している。
登っていくと、「天守郭」 の説明板が建っていた。
説明板「天守郭」
「 天守郭は東西四十メートル、南北十二メートル〜二十メートルの規模があり、
南、北辺の中央東側に巾七メートル〜十二メートルの張り出しを持つ。
天守櫓上にはいわゆる天守に相当する多重の建造物が存在したと思われる。
その場所は南北の張り出し部から東側の方形区画と考えられる。
この方形区画部分は復元規模が南北十二メートル(間口6間)、東西十メートル〜十一メートル(奥行5間〜5間半)で、
小規模な天守(三重天守等)には相応した広さを有する。
また、南北の張り出した上には天守との連絡が可能な付櫓が建ち、
その西側には城主の日常の居住空間である奥向屋敷の建物群が構えられていたと思われる。 」
以上で、大宇陀の城下町の探訪は終了である。
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本丸跡 | 本丸 説明板 | 天守曲輪 |
(訪問日)平成二十八年(2016)十月二十五日
◎ 又兵衛桜と大宇陀温泉
「 又兵衛桜は、大坂夏の陣に参戦した後藤又兵衛が、当地に隠棲し、植えたと伝えられる桜である。
紅枝垂れ桜で、周囲に桃が植えられていることから、メリハリのとれた写真が撮れ、
人気のスポットである。
シーズンにはカメラマンが押し寄せる。 」
又兵衛桜の開花状態を告げる、テレビのニュースを見たので、
深夜に家を出た。
小生が到着した六時半には、駐車場はほぼ満杯。
主な場所には、カメラの三脚が林立していた。
慌てて、カメラリックと三脚を車から降ろし、少し肌寒い外に駆け出した。
どこが良いのか分からないので、きょろきょろしながら進み、少し小高いところに
三脚を立ててみましたが、構図がうまくとれません。 (誰もいないところは駄目ですね!!)
しかたなく、多くの人が並んているところに、三脚を立てました。
皆は太陽の光が差すのを待っているようすです。
私も、東の空を見上げて待ったのですが、太陽を薄雲がしっかり覆い、光は一向に射してきません。
三十分ほど待ちましたが、変わりそうにもないので、写し始めました。
バックが沈まないので、コントラストの少ない写真になるのではないかと思いながら、
できるだけつくように工夫しながら写しました。
その後も、光は射さず、八時を経過したので、場所を変えていくつかのカットを撮り、終了とした。
下はその時の写真である。
温泉に入ってから帰ろうと思い、大宇陀温泉の日帰り温泉施設に向った。
大宇陀は、奈良盆地と伊勢、東吉野地方を結ぶ交通の要路にあるので、
古代から知られていた。
日本書紀にも、神武天皇東遷に登場しています。
また、古代の狩猟場の阿騎野も、ここにありました。
柿本人麻呂は、万葉集の中で、下記の歌を残しています。
「 阿騎の野に 宿る旅人打ち靡き 寐も寝らめやも 古思うに 」
「 東の野に 炎の立つ見えて かえりみすれば 月傾きぬ 」
日帰り温泉の名前は、この万葉集の阿騎野から採って、
大宇陀温泉 あきのの湯 と名付けていました(下記写真)
PH9.5のアルカリ単純泉なので、
つるつるした肌触りの湯でした。
露天風呂に吹く風が心地よく、のんびり入り、
さっぱりと汗を流すことができました。
ただ、タイルが安っぽく、作り方がスーパー温泉的な感じがしたのは残念でした。
万葉集の町を唱えるなら、もっとシックなつくりにして欲しいと思いました。
昼食を摂り、休憩室がすいていたので、一寝入りして、帰宅しました。
満足できる一日だったのではないでしょうか?
訪問日 平成十五年(2003)四月十四日