中津城は黒田如水(孝高)により、中津川河口周防灘に臨む地に築かれた城である。
面積は二万三千二百八十七坪で、
地形が北より南方に扇状をなしているので、別名を扇城という。
堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)とされ、
今治城、高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられられている。
黒田氏が博多に転封になると、細川忠興が入城し、隠居城になった時、
三の丸を完成させた。
寛永九年(1632)、 細川家の熊本の転封に伴い、小笠原長次が八万石で入封したが、
享保二年(1717)、徳川家連枝の奥平家第七代・奥平昌成が十万石で入封し、
以後、百五十四年間に渡り、奥平家の居城となり、明治維新を迎えた。 」
別府駅発八時十九分のソニックに乗り、中津駅には九時過ぎに到着。
駅からタクシーに乗ると、あっという間に中津城公園の駐車場に着いた。
「 中津城は、福岡県との県境の 大分県中津市 (豊前国中津) に、
黒田孝高(如水)が築城した城である。
黒田孝高(如水)は、豊臣秀吉の命により九州を平定し、中津十六万石を拝領して、
天正十六年(1588)、 中津川 (当時は山国川) 河口の周防灘 (豊前海) に臨むこの地に築城した。
関ヶ原合戦の後の慶長五年(1600)、細川忠興(三斎)が、中津三十二万石として入城する。
細川忠興は、早速、城の大修築を始めるが、前領主・黒田長政が、年貢を博多に持ち去るなどで、
商人らとも関係がこじれたため、中津での領内統治が困難だとして、
慶長七年(1602)、小倉城の築城を開始し、小倉城へ移り、主城(居城)とする。
代わりに、弟の興秋を中津城に入城させた。
元和六年(1620)に入ると、忠興は家督を三男・忠利に譲り、中津城に隠居する。
忠興は、元和七年(1621)、中津城の三の丸を拡張し、扇形の梯郭式平城を完成させた。 」
駐車場の南側には石垣と水堀があった。
「 中津城の水堀は、本丸と三の丸の南側と東側のみで、 西側は高瀬川が水堀の役目を担っていた。 」
駐車場の右手には、「三斎池」 の説明板がある。
「三斎池」
「 細川忠興が隠居し、居城を小倉城から中津城に移した際、
三斎 と号し、城と城下町の整備を行ったが、その際、城内の用水不足を補うため、
山国川の大井出堰から水を城内まで導く大工事を行った。
その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水として使用された。
忠興の号、三斎の名を冠して三斎池という。 」
駐車場の北東の石垣の前に、「中世の館と寺院跡」 の説明板がある。
説明板「中世の館と寺院跡」
「 中津城が築城される前に、
二重の溝に囲まれた、中世 (十五世紀〜十六世紀)の館があったことが確認された。
高石垣を積む近世の城と違い、溝の壁には石が貼りつけられていて、
溝の間には土塁があったと考えられる。
中津城築城当初の地層から、最大径一・六メートル、厚さ七十センチの大型の礎石や、
せん (土へんに専という字) という、タイル状の瓦が多数出土され、
また、表面に仏を意味する梵字や日付などを墨で書いた大きな石が出土した。
中央には、丸い穴が掘られていて、仏舎利などが収められ、地鎮に使われていたと考えられている。
この遺跡から、この地には黒田氏の時代に、寺院があったことが分かった。
慶長五年(1600)に入国した細川氏は、寺院に二の丸を建築し、本丸内の寺院が姿を消した。
近世の城では、本丸内に寺院を建築することはなく、
黒田氏の時代は、まだ近世の城郭スタイルが確立していない時代だったといえる。 」
右側に石垣が残っている、この入口は、椎木門にあった、二つの入口の一つである。
狭い入口の前に、「扇型の石垣」 の説明板が建っていた。
説明板「扇型の石垣」
「 本丸の南東隅に位置する小さな鳥居入口は椎木門跡である。
絵図を見ると、入って西側の正面は平瓦と練土を交互に積み上げた練塀があり、
北側に折れて門をくぐる、枡形虎口の構造になっていた。
椎木門をくぐると、扇形に弧を描く石垣があり、扇型の石垣内に二つの入口があった。
この入口は、その一つで右側の入口である。
足元や石垣の側面に扉が取り付けられていた痕跡を見ることができる。
この周辺の石垣には、川沿いに黒田氏時代に築かれた石垣に見られる山城の石(直方体)が使用されている。
また、石の中には、田や井や△などが刻まれているものもある。 」
この門の石垣は右側のみで、左側は取りこわされているので、扇型だったのかは確認できなかった。
扇型の石垣の北側が本丸だったが、当時と様相は変っている。
江戸時代の絵図には、天守は描かれていない。
「中津城下図」 には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に、三重櫓が描かれているだけである。
「 明治の廃藩置県の際、藩士・福沢諭吉の進言により、城内のほどんどの建造物が破却され、 御殿だけが、小倉県中津支庁舎として存続した。 しかし、西南戦争の時、 その御殿も焼失してしまった。 」
現在、本丸上段の北東隅櫓跡 (薬研堀端) に、 昭和三十九年(1964)に、建てられた模擬天守が建っている。
「 奥平昌信が中心となって構想し、東京工業大学教授・藤岡通夫が設計を手がけた、
鉄筋コンクリート構造の天守である。
高さは二十三メートル、外観は萩城天守をモデルとした、独立式望楼型五重五階の天守である。
中津城模擬天守は、奥平家歴史資料館として、
奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、
長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織、
徳川家康からの軍法事書など古文書類を展示している。 」
模擬天守南に、望楼型の二重櫓も建てられている。
かつて、この場所には南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させていた。
天守の左側に奥平神社がある。
「 奥平神社は、奥平家の中興の祖、奥平貞能、信昌、家昌を祀った神社である。 奥平家七代目の昌成が、中津藩の藩主となった翌年、二の丸にあった観音院を祈祷所としたのが始まり。 奥平家は、村上天皇を祖先とする家系で、奥平信昌は徳川家康の長女・亀姫を妻に迎え、 三代家昌は家康の孫という徳川家でも名門家である。
天守の五階から北を見ると、水堀跡が整備されていて、その先に二の丸があったことが分かった。
また、左の中津川も治水がしっかり行われているようだった。
天守を降り、奥平神社の左手に向うと、城井神社があった。
「 祭神は宇都宮鎮房である。
天正十五年(1587)、豊臣秀吉は、九州を平定し、豊前六郡を黒田孝高、二郡を毛利勝信に与え、
領主の城井谷城主・宇都宮鎮房には四国今治への移封を命じた。
宇都宮家は、信房より鎮房に至る十八代、約四百年の間、
豊前国守として統治していたため、鎮房は当地での安堵を願い、移封御朱印状を返上し、
宇都宮家と黒田家の間で、死闘を繰り返すこととなった。
秀吉は、孝高と謀り、所領安堵を条件として、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し、
和睦させた。 天正十六年(1588)
四月二十日、鎮房は中津城に招かれ、酒宴の席で謀殺された。
宝永二年(1705)、 小笠原長円は、 暗殺された城井鎮房(宇都宮鎮房) の亡霊が出て、悩んだことから、
小社を建て、鎮房を城井大権現として崇め、その後、城井神社に改められた。 」
城井神社の右奥には、扇城神社(せんじょうじんじゃ) がある。
「 天正十六年(1588)、城井鎮房の従臣は、鎮房の庶子・空誉上人 (鎮房と静の方との子) の寺、合天寺に止め置かれ、鎮房は小姓・松田小吉を伴い、中津城内の館で謀殺された。 異変を知った従臣は城内に入り、戦ったが討死。 松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉田八太夫は、追腹した広運寺にそれぞれ埋葬された。 その他の従臣は、城内乾の上段であるこの地に埋葬された。 宝永二年(1705)、小笠原長円(ながのぶ)は、広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神ともに祀った。 城井神社がこの地に再興後の大正九年(1920)、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀られた。 」
豊臣秀吉は黒田孝高と謀って、九州の土着勢力の一掃を謀ったという訳で、 長く続いた宇都宮家は滅亡したのである。
本丸の上の段と下の段の間の左側に、江戸時代には鉄御門と三階櫓があったようである。
中津大神宮の近くには、西南の役の中津隊長・増田宋太郎の歌碑があった。
歌碑には明治十年八月
二十二日、日向国三田井で自決した時の辞世の歌が刻まれている。
帰りは駅まで歩く。
南部小学校の校門は、奥平中津藩家老・生田家の薬医門である。
「 江戸時代、このあたりは三の丸と呼ばれ、 藩主の一族や家老などの屋敷が建て並んでいた。 南部小学校の敷地は、家老の生田家(千八百石) の屋敷と、隣の奥平図書 (二千六百石) の屋敷の一部である。 この場所に、明治四年(1871) 福沢諭吉の発議により、洋学校の中津市学校が創立された。 市学校は、明治十六年(1883)に閉校になったが、 明治四十三年(1910)に、南部小学校が開校になり、 以降、生田門は校門として使われている。 」
生田門に続く土塀に、「おかこい山」 の説明板があり、 左側はおかこい山、右側は中堀跡 と表示があった。
説明板「おかこい山」
「 かって、中津城下町は、内掘、中堀、外堀沿いに掘と土塁がぐるりとめぐる、
守りの堅い構造だった。 中津では、この土塁をおかこい山と呼んでいた。
三の丸の周囲は、この土塁で囲まれていた。
南部小学校の中にあったおかこい山と中堀は、現在の歯科医院の敷地から西門まで続いていた。
歯科医院の竹林が、おかこい山の名残である。 」
駅前には一万円の肖像になっている、中津市民自慢の福沢諭吉が銅像になっていた。
以上で、中津城の探訪は終了した。
中津城へはJR日豊本線中津駅から徒歩約15分
訪問日 令和元年(2019)五月二十五日