名所訪問

「 日南海岸 青島・鵜戸神宮 」  


かうんたぁ。


◎ 青 島

宮崎ブーゲンビリア空港から、車で青島に向う。 
国道220号で、日南海岸を南下していく。 
加江田川に架かる鵜來橋を渡ったところの国道と別れ、 青島街道(県道377号)に入ると、青島リゾートこどものくにがあり、 小さな橋を渡ると、道は右にカーブするが、この左手に青島、 右手にJR青島駅がある。 
空港から1時間足らずで、青島の有料駐車場に着いた。 

「  青島は、日南海岸国定公園の日向灘に浮かぶ周囲850m、面積約4.4kuの小さな島で、 陸地とは弥生橋で繋がっている。  砂岩と泥岩が交互に重なった地層(油津曹群)からなる山が沈降して、 海に浸かり、波に浸食された後、わずかに隆起することで、隆起波食台という地形が生まれた。 」

駐車場から青島に向うと、途中に観光土産店、食堂などあり、 フルーツを売る店には宮崎特産のマンゴーが切り売りされている。  当地の名物なので、一皿買って、浜にもって行き、海を見ながら食べた。 

浜に出る手前・左側の石段を上ると、和歌山牧水の歌碑がある。
  「 びろう樹の古樹を想へ その葉影 海見て石に 似る男をも   」

「  若山牧水は、医師の長男として、宮崎県日向市(旧臼杵郡平谷村)で生まれた。  延岡中学時代から牧水と号し、早稲田大学英文科に入学した。  卒業後、歌集「海の声」を出版。  前後二回の短い新聞記者生活のほかは、歌人として生きた。  放浪の歌人として有名である。  」

海岸より一段高い石垣で、両側覆われた道があり、橋を渡ると浸食された海岸が現れた。 

「  青島の周囲は、2400万年前〜200万年前の地層が浸食してできた波状岩で囲まれている。 
学術名は隆起波食台で、規則的に重なった地層が緩やかな傾斜をしているため、 階段状に浸食されており、巨大な洗濯板に見えることから、 鬼の洗濯板(岩)と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。

青島
     若山牧水歌碑      鬼の洗濯岩
青島
若山牧水の歌碑
鬼の洗濯岩


橋を渡ると左側にびろう樹がしげる前に、「青島神社」 の石碑と、 太陽で褪せた 「青島の文化財」 の説明板などがある。 

説明板 国指定特別天然記念物 「青島の亜熱帯性植物群落」
「 この地域は、黒潮が近海に流れ、温暖な気候で雨量が多いところです。  青島には、そうした気象条件のもとに、多くの亜熱帯性植物が繁茂しており、 その代表植物であるビロウの成木は約5000本あり、最高樹齢350年と推定されます。  」
説明板 国指定天然記念物 「青島の隆起斐海床と奇形波蝕痕」
「 青島周辺の岩盤は、新三世紀(2400万年〜200万年前) に規則的に堆積した砂岩と泥岩の互層が 傾き、海上へ露出したものが、波の浸食を受け、堅さの違いにより、凹凸を生じたものです。  青島周辺及び日南海岸の戸崎鼻から巾着島に至る海岸にみられ、続称 「鬼の洗濯岩」 と いわれています。  」 

その先に赤い鳥居が見え、鳥居をくぐり、左に曲がると、左側の奥に神門がある。 
その手前の左側の石樋の先に 「掃守神事(かもんしんじ)」 の説明板があった。

説明板「掃守神事(かもんしんじ)」
「 古語拾遺には、青島神社の御祭神である彦火火出見命・豊玉姫命夫婦のご出産に際し、 海浜に産屋を建てる前に、天忍人命が仕えて、「 箒を作りて蟹を掃う 」 と清めた、とある。  そこから、 清掃(掃き清め) が生まれたのである。  以来、子孫は蟹守・掃守として、宮中のお仕へしたのである。  そして、箒は母木となりて、物事を生成発展させる信仰となった。 
賽物(賽銭・供物)や持物(硬貨・お札など)を生命の母なる神木で清め、箒で掃ふ事により、 禊となり心身健全。金運財運発展の祈願となる。  常に福銭に感謝し、家内安全。事業発展に活用する事により、 さらに大神様の御加護を頂く事となります。 」

神社の案内によると、

「 青島神社の青島は、昔から霊地として一般の入島は許されず、 藩の島奉行と神職だけが常に入島し、 一般人は、旧三月十六日島開祭から島止祭(同月末日)まで、入島が許されていたが、 元文二年(約二百八十年前)、 当時の宮司・長友肥後が、一般の参拝者にも入島を許されるよう、 藩主に願い出て許可され以後、入島が自由になった。 」 とある。 

階段を上がり、神門をくぐると、正面に青島神社の社殿があった。 旅行の安全を祈願した。 

「 青島神社の祭神は、天津日高彦火々出見命、豊玉姫命、塩筒大神である。 
御由緒
 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) が、海宮から御帰りのときの御住居の跡として、 三神をお祀りした、と伝えられている。  始めてお祀りした年代ははっきりしていないが、 日向土産という国司巡視記に、嵯峨天皇の御宇 (約千二百年前) 奉崇青島大明神 と書いてあった といわれる文き(糸へんに亀という字)以後は、 藩主伊東家の崇敬が厚く、御社殿の改築や境内の保護に万全を尽くされ、 明治以降は、国内絶無の熱帯植物繁栄の境内を訪れる人が多く、 縁結び・安産・航海・交通安全の神として、益々神威が輝くようになった。 」

宮崎の神話 「海彦・山彦」 の舞台である。 

「 火々出見命は、迩迩芸命(ににぎのみこと)と木花佐久夜姫との子で、 山彦となった。  天つ神と国つ神の間で産れた海幸彦と山幸彦は、山と海に領分を決めて暮らしていたが、 たまたま交替した海彦は針を取られ困っていると、塩津神により綿津見大神の宮へ行くように 教えられ、宮で綿津見大神の豊玉姫と出会い、結ばれ三年暮らす。 」

山幸彦が訪れた海神の宮は青島の近くにあったとされる。 きわめてロマンのある話である。
以上で青島見学を終了、駐車場近くのクレープ屋で、昼飯とおやつを兼ねたクレープを食べた。

青島神社碑と説明板
     青島神社神門      青島神社社殿
青島神社碑と説明板
青島神社神門
青島神社社殿


JR青島駅から徒歩15分



◎ 鵜戸神宮

青島を出て、鵜戸神宮へ向かう。 
国道220号を南下すると、日南本線と平行するところはあるが、 伊比井駅を過ぎたところで別れ、ひたすら南下する。  
サンメッセ日南を過ぎった三叉路で、県道433号に入ると、鵜戸神宮の表示があるので、 進んで行き、数少ない駐車場に車を置いた。 青島から約40分であった。 

神社に向うと、随神門があり、門をくぐると、左手に、鵜戸神宮社務所がある。 
近くに、「国指定名称 鵜戸」 の標柱と説明板が立っている。

説明板「 国指定名勝 鵜戸」
「 名勝鵜戸は、日向灘に突き出た岬で、古来より南九州各地から暑い信仰を受け、 修験の場として栄えてきた。  また、日向神話の海幸山幸神話の舞台として、鵜戸神宮が建つ洞穴(隆起海食洞)や亀石、 お乳石や 速日峯陵 (主祭神陵) 、周辺の 玉依姫陵伝承地 (宮浦古墳) などが伝えられている。  名勝の中核をなす鵜戸神宮は、南九州を代表する神社である。  鵜戸神宮の社伝には、延暦23年(804) に社殿を再建したとあり、 近世には飫肥藩主伊東氏の庇護のもと、造替や改修が行われた。  明治維新までは、鵜戸山もしくは鵜戸大権現と呼ばれ、境内の仁王護国寺を仁和寺が所管し、 神門に至る八丁坂参道の両側には、十八の寺坊が並んでいた。 
宮崎市青島から日南市風田にかけての日南海岸には、 宮崎層群 (約1200万年〜150万年前までの間、 深い海底で砂の層と泥の層が交互に堆積した層) の中でも、古い時代の地層が露出しており、 この砂岩泥岩互層が波の浸食を受けて形成された波食棚や海食洞、ノッチ(岩が窪んだ地形) が 随所に見られる。  鵜戸崎の南面に見られる波食棚は、鵜戸千畳敷奇岩 (鬼の洗濯板) と呼ばれ、 軒の天然記念物に指定されている。 」

その先には 「国指定名所鵜戸」 の石柱と朱塗りの楼門があった。 
楼門の前には 「御武運長久」 「紙開発 願主 大坂住 油屋善兵衛」 の常夜燈が左右に建っていた。

説明板 市指定建造物 「 鵜戸山石灯籠のうち 紙開発石灯籠一対」
「 飫肥藩は、寛政十二年(1800)に、産業開発の一政策として、 楮栽培および紙の製造を計画した。  そこで、大坂の両替商油屋善兵衛から資金の提供を受け、 飫肥藩領内で生産された和紙を大坂で、善兵衛が飫肥藩の蔵元として販売し、 事業は順調に拡大された。  紙開発石灯籠は、この事業の成功を記念して、天保三年(1832)に、 善兵衛が鵜戸六所大権現(鵜戸神宮)に、奉納したものである。  灯籠には、油屋一族とともに飫肥藩の大坂蔵屋敷の役人達の名前も刻まれている。 
   昭和四十五年十一月三日 指定    日南市教育委員会   」

鵜戸神社神門
     名勝鵜戸の木柱      鵜戸神社楼門
鵜戸神社神門
名勝鵜戸の木柱と説明板
鵜戸神社楼門


楼門をくぐると常夜燈があり、右側は朱塗りの垣根、その下は崖絶壁で、 波で造形された色々な形の岩が波に洗われている。  神橋から本殿までの参道は八丁坂参道と呼ばれている。 

すこし歩くと、太鼓橋の千鳥橋があるが、 橋の手前、左側に山頭火の句碑と説明板が立っている。
(句碑の句)   鵜しきりに啼いて 何を知らせる 

説明板「 種田山頭火の句碑」
「 漂泊の種田山頭火は、昭和五年十月二日、鵜戸神宮に参詣。  御神鳥の 「鵜」 をとりあげ、次の句を残しました。
 鵜しきりに啼いて何を知らせる  
鵜戸の大自然と 「鵜の鳥」 が、今の世に何かの警鐘をならしていると考えたのでしょうか。
      寺原聖山 書  」

「鵜戸神宮本殿」 の説明板も立っていた。

説明板「県指定建造物 鵜戸神宮本殿」
「 鵜戸神宮本殿は、鵜戸岬の日向灘に面した岩窟内に建てられている。  本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると、崇神天皇の代に創建し、 桓武天皇の勅命により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、、と伝えている。  中世には、「鵜戸六所大権現」 、江戸時代以降は 「鵜戸山大権現」 として、日向国内外から 厚い信仰を得ていた。  現在の本殿は、正徳元年(1711)に、 飫肥藩五代藩主・伊東祐実が改築したものを、明治23年(1880)に大修理を行い、 さらに、昭和42年(1967)に修理したものである。  平成9年度(1997)には、屋根や内装等の修理が行われた。  このように幾度の改修を実施したものの、岩窟内に見事に収めた権現造風の八棟造は、 往時のままであり、その文化的価値は高い。
     説明板管理者/日向市教育委員会    」

橋を渡ると下り坂で、左右に多くの常夜燈が建っている。 
右に休屋があり、道は左にカーブすると、海側に神橋の説明板が立っていて、 その先に、玉橋(神橋)がある。

説明板 「神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)」
「 この神橋は、神仏習合時代には、 金剛界三十七尊の御名が書かれた三十七枚の板が配してありました。 この神橋を渡ると、御本殿に至る急なる石段です。  古手より先は古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。 
かっては、橋の手前から履物を脱ぎ、跣(はだし)でお参りをしていましたが、 今はその習慣がなくなりましたが、その心は生きています。  御参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御籠を受けられると 言われています。
  (中略)     
 鵜戸神宮社務所    」

玉橋は太鼓橋で、かなりの湾曲があり、登りずらかった。 

鵜戸神社神門
     山頭火の歌碑      鵜戸神社楼門
八丁坂参道
千鳥橋(歌碑と本殿説明板)
玉橋(神橋)


橋を渡り、右側から下を見ると、山がけずられ、その下の一部が洞窟になっていて、 山は垂直な絶壁のまま岩となって海に沈んでいる。 柱状節理の風景である。 

その先が問題である。  説明板に足元に注意して下りください、とあったが、 その石段の急なこと。 てすりを使って降りて行ったが、帰りの方が大変だろう。

「  本殿は、日向灘に面した断崖の中腹、東西に38m、南北29m、高さ8.5mの洞窟(海食洞)内にある。 
鵜戸神宮の御祭神は、山幸彦(火遠理命 ほおりのみこと)と豊玉姫(とよたまひめ)の子、 鵜葺草葺不合命(うかやふきあへずのみこと)である。  妻が玉依姫(たまよりひめ)でその間に産れたのが、 神倭伊波礼昆古命(神武天皇 かむやまといわれひこのみこと)である。 」

洞窟の中に、朱塗りの社殿があった。 

「 社殿は、本殿・幣殿・拝殿が一体になった、権現造(八棟造)、こけら葺きで、 極彩色が施されている。 拝殿には、千鳥破風と唐破風を飾る。  正徳元年に、飫肥藩主・伊東祐実が改築したものを、明治二十二年(1889)に大改築し、その後、 二度改修された。 幾度の改修を経たが、その様式は往時のままである。  」

拝殿の前で御参りをした。

眼下の風景
     急な石段      鵜戸神社拝殿
眼下の風景
急な石段
鵜戸神社拝殿


>唐破風には天皇家の御印である菊の紋がついていた。

洞窟内は薄暗く、人の顔をはっきりしないくらい。 
「お乳水」 の説明板があり、お乳岩から出るお水をもって飴を作った、 おちち飴が1袋300円で売られていた。

説明板「おちち水のゆらい」
「 御祭神のうかやふきあへずのみこと (神武天皇の父君) の母君 (豊玉姫) は、暖かい母性愛から、御祭神の為に両乳房を窟内に置いていかれたと伝えられ、 その乳岩から出るお乳水は、今もなお絶え間なく玉のように岩清水を滴らせて、 安産・育児・身体健全その他心願成就がかなうことで知られています。 」 

「産湯の跡」 の標柱が、小さな祠の脇に立っていた。

鵜戸神宮本殿
     おちち水      産湯の跡
鵜戸神宮本殿
おちち水
産湯の跡


社殿をでて、海岸側にいくと、眼下に御舟岩、二柱岩などの奇岩群が見ることができた。
突き当たりの常夜燈の近くに、 「鵜戸神宮の奇岩」 の説明板がある。

 〜 台地がつくった不思議な球体コンクリ―ション 〜 
「 鵜戸神宮本殿の天井をささえる厚い岩盤は、宮崎層群と呼ばれる地層のなかでも飛び抜けて 厚い砂岩の層です。 
この岩層には丸いボールのようなかたまりがたくさんふくまれています。  これをコンクリーションといい、砂岩を作る砂粒が石灰成分でかためられたものです。  コンクリーションは、ノジュール(結核)とも呼ばれ、長くその成因がわかっていませんでしたが、 近年、コンクリ―ションをかためている石灰成分は生物由来だとわかりました。 
鵜戸神宮一帯の地層は、約800万年前の海底に砂や泥が堆積してできた地層からできています。  当時、地震などで大量の砂が海底に供給されたときに、 クラゲやナマコなどの海で暮らしていた生物が取り込まれたようです。  これが微生物によって分解されるときに炭酸イオンをつくり、 海水中にカルシウムイオンと反応してできた炭酸カルシウム(石灰成分)が周囲の砂岩をかためた、 と考えられています。 ( 本殿裏の「お乳水」はカルシウムイオンが溶けて硬水になっています )
海洋生物やバクテリア、海底の砂などは、いつでもあるのですが、 コンクリーションはこれらが微妙な条件でそろったときだけにつくられたようです。  約800万年も前の日向灘の海底でおこった珍しい出来事の記憶を、 今もこの境内で見ることができます。
   平成30年3月24日  NHK総合テレビ 「プラタモリ」 にて放送  」

亀島枡形岩の窪みに素焼きの玉を投げ入れ、入れば願いが叶うといわれる。
何組かのカップルが挑戦していた。

二柱岩
     亀島枡形岩
二柱岩
亀島枡形岩


鵜戸神宮へはJR以伊比井駅からバスで15分
宮崎駅から宮崎交通海岸バスで60分、日南海岸鵜戸神宮バス停で下車。
北郷温泉 丸新荘へは宮崎自動車道田野ICより約30分
JR日豊本線北郷駅からタクシーで約5分


◎ 北郷温泉

16時30分過ぎ、鵜戸神宮を出発、今夜の宿・北郷温泉丸新荘に向う。
海岸を少し走ると、山側に方向を変え、飫肥市を左に見ながら、内陸部に入っていった。
17時過ぎ、森の緑が溶け込んだかのような、山々に包まれた宿に到着した。

「 ペッぴんの湯と称した温泉が自慢の宿で、日帰り温泉も行っている。
硫黄系の湯で、加水、加熱なしのかけ流し温泉で、少し熱めだが、硫黄が多いため、 帰宅後洗濯しても匂いがかすかに残るほどであった。 
食事は地元色が多く、地元でとれたカジキマグロのさしみや宮崎牛などが出た。 
しょうゆが九州独特のあまいもので、小生の口に合わなかった。 
風呂がよかったので、満足した。  」

べっぴんの湯の宿 丸新荘
べっぴんの湯の宿 丸新荘


訪問日    令和三年(2021)三月十六日




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