伊勢神宮の外宮参拝前に、近くにある月夜見宮に立ち寄る。
伊勢市駅の西口を出ると、本町1交叉点を左折する。
少し行くと、左が厚生小学校の交叉点があり、右側に 月夜見宮がある。
交叉点を左折して、樹木が茂る月夜見宮の境内に入って行く。
「 月夜見宮は、外宮の別宮で、
月夜見尊(ツキヨミノミコト)と、月夜見尊荒御魂(ツキヨミノミコトノアラミタマ)の二神を祀る。
境内はそれほど広い感じはしないが、荘厳な雰囲気が漂っていて、身が引き締まる心地がした。 」
お詣をすませ、先程の交叉点に出て、直進する。
三百メートル歩くと、右側に 「東邸」 という石柱がある。
「 東家は、 古今伝授の創始者・東常縁を祖に持ち、
漢学者の東夢亭などの文墨の才人を輩出した家系である。
古今伝授とは、古今集の解釈を中心に、歌学などの学説を口伝・切紙・抄物により、
師から弟子に伝授すること。 」
この細い道は、神路通(かみじどおり)である。
「 参道名の神路通は、
月夜見宮の神様が通る道ということから、名付けられた。
言い伝えでは、「
月夜見宮の神様が、石垣の一部を白馬に変え、それに乗って外宮に通われいた。 」、とあり、、
人が夜通る時には真中を避けて、道の端を歩かなければならない、と伝えられている。 」
この通りを進むと、信号交叉点があり、左右の道は県道23号、
ここに、「月よみの宮さんけい道」 と刻まれている、明治26年建立の道標が建っている。
交叉点を右折すると、県道の左側にNTT伊勢志摩ビルがある。
ビルの前に、 お木曳き行事の写真と、
お木曳き行事と山田の関係を記した説明板があった
説明板「お木曳き行事と山田」
「 伊勢神宮には二十年毎に御宮を遷しかえる式年遷宮という行事があります。
これは千三百年程前の持統天皇の御世に始められたもので、この伝統が堅く守られ、
営々と現在に伝えられています。
お木曳き行事とは、木曽の山から切り出された御用材を宮川より外宮の北御門まで、
各団の誇るお木曳き車に載せ、木遣り歌、伊勢音頭などを囃したり、練ったりしながら、
神領民と呼ばれる地元の人々によって行われる民俗行事です。
時期的には遷宮の七、八年前に行われ、いよいよ、
まち全体が遷宮の年に向けて走り出す行事といえます。
外宮領の山田地区では陸曳きと呼ばれ、街中を曳き、内宮領の宇治地区では川曳きと呼ばれ、
五十鈴川をソリで曳きます。
(以下省略) 」
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伊勢神宮の外宮と内宮は、現在は両方とも同じ伊勢市内になっているが、 江戸時代は外宮は山田町、内宮は宇治町と違う町だった。
十辺舎一九の東海道中膝栗毛では、 弥次郎兵衛と喜多八が山田の町に入ってきた様子を次のように表現している。
「 此町十二郷ありて、人家九千軒ばかり、商賈、甍をならべ、、
各々質素の荘厳濃にして、神都の風俗おのづから備り、
柔和悉鎮の光景は、余国に異なり、参宮の旅人たえ間なく、繁盛さらにいふばかりなし。
町の両側には、御師の名を板にかきつけ、用立所の看板は林のように立っていた。
袴・羽織の社家侍が何人となく馳せ違い、往来の旅人を迎え、どこの講中か、
御師の大夫は、と聞く。 」
江戸時代、伊勢参りが普及したのは、山田町に邸宅を構えた御師の力が大きい。
「 伊勢講は、伊勢参宮のため、資金を積み立て、代わる代わる、
あるいは揃って参詣を果たす信仰者の組織であった。
御師は、地方を巡って、護符を配布し、寄進の交渉にも当たり、伊勢講を組織化した。
御師は、参詣の信者を広大な敷地を持つ自宅に泊め、接待した。
食事なども当時の庶民にとっては特別だったので、
神宮の持つ素朴で気高さとともに感動を与えたのである。
御師の数が最盛期には八百軒あったというから、伊勢講の隆盛のすごさが分かる。 」
伊勢神宮 外宮は、NTTビルの裏側にある。
先程の交差点に戻り、右折すると、旧伊勢街道に出るので、左折してその道を進む。
右側に外宮の北御門があるが、そこを通り過ぎると、表見張り所があり、
「豊受大神宮(外宮)宮域図」 が建っている。
表参道火除橋を渡る。
表参道手水舎の向かいにある、楠の大木は、高さ十メートル、樹齢千余年の古木である。
平清盛が勅使として参向したとき、
冠に当たった枝を切らせたという逸話から、その名が付いたといわれるもの。
緑の濃い木立の中を歩いて行くのは、気持がよいものである。
第一鳥居・第二鳥居の先に神楽殿があり、その先に九丈殿と五丈殿と広場がある。
表参道から見て、手前の建物が九丈殿である。
建物正面の長さからその名称が付いているが、
豊受大神宮の摂末社遙祀の祭典が行われるところである。
五丈殿は、表参道から見て、奥の建物で、雨天のときの修祓や遷宮諸祭の饗膳などが行われる。
その前の庭は 「大庭」 といわれ、遷宮祭の玉串行事や、幣帛点検の儀式が行われる。
その先の右手に、豊受大神宮(外宮)の御正殿がある。
内宮と同じ唯一神明造であるが、
鰹木は奇数の九本で、千木が垂直に切られているなど、いくつかの違いがある。
「 外宮は、正式には豊受大神宮という。
祭神の豊受大御神は、お米をはじめ、衣食住の恵みを与る産業の守護神である。
外宮(豊受大神宮)は、内宮(皇大神宮)の創始より四百八十一年後の、
雄略天皇二十二年、 天皇の夢に、天照大御神が現れ、
「 自分一人では食事が安らかにできないので、
丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように!! 」
という神託があったので、
豊受大御神を丹波の国から、天照大御神に食事を司どる神(御饌都神)として、
内宮に近いこの山田の地に迎えたものである。 」
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内宮も同様だが、鳥居をくぐった外玉垣南御門までしか入れず、そこからの撮影は禁止。
御正宮は四重の垣に囲まれている。 一番高く見えるのが御正宮。
我々が入れるのは、二番目の外玉垣南御門までなので、
そこにある純白の綾の御幌(みとばり)ごしに参拝を済ませた。
手前左隅(西南)の榊は、 一本榊 または 廻榊(めぐりさかき) と呼ばれる。
昔は、お祭りが終わると、神職が冠につけていた木綿(ゆう)をこの榊の枝にかけた、
といわれるものである。
正殿の右側に、日々供える食事の神饌を整える、 忌火屋殿(いみびやでん) と、
天照大神などの神様に食事を出す、 御饌殿(みけでん) があり、
内宮の神様は、外宮まで食事をとりに来ていたことを知った。
御正殿の道の反対側には、 亀石 と 三ッ石 がある。
「 外宮正殿前の道を曲がり、
別宮の参拝へ向う水路に架かる石橋の平らな大きな石が「亀石」と呼ばれているものである。
この石は、三重県最大の横穴式古墳の高倉山古墳入口の石だったと伝えられる。
その近くに、結界を結んでいる中に、三つの石がある。
式年遷宮の時、お祓いをする場所で、
三ッ石の上に手をかざすと感じるパワースポットとして有名である。 」
亀石の先には、外宮別宮の風宮と土宮がある。
更に、その先の高台には多賀宮がある。
「
外宮の別宮である土宮(つちのみや)。
ここに祀られているのは、
土地の守り神の大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)である。
その東にある、風宮(かぜのみや)には、
級長津彦命(しなつひこのみこと)と、 級長戸辺命(しなとべのみこと)が祀られている。
もともとは、風雨の災害なく、農作物が順調に成育するようにと、
祈りが捧げられる小さな社であったが、
弘安四年(128)の元冦の際、風宮の神様と、
内宮の風日祈宮(かざひのみのみや)の神様がカを合わせ、
侵攻してきた蒙古軍に、神風を吹かせて、敵軍を全滅し、日本国を守ったことから、
別宮に昇格したといわれる。 」
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少し高いところにある多賀宮は、 豊受大御神の荒御魂をお祀りしている。
「 神様の魂には、穏やかで優しい和御魂(にぎみたま)と、
行動的で激しい荒御魂(あらみたま) がある。
外宮の御正宮には、豊受大御神の和御魂、
多賀宮には荒御魂と、分けて、お祀りしている。 」
右側に少し入ったところに、下御井神社がある。
小さな社殿の中には清らかな水をたたえる御井戸がある。
神宮内のお祀りには外宮の御神域に、上御井神社があり、
そこから汲み出された水を使用するが、
不都合が生じた場合には下御井神社の井戸を使用するという。
忌火屋敷と御酒蔵から、苔が生えた鳥居をくぐり、森閑とした森に入り、
北の火除橋を渡ると、北御門に出る。
正面に火除橋、右側に裏見張所があり、左側に手水舎がある。
「 江戸時代、外宮の北御門は、伊勢参りに訪れた多くの人々が、
神宮にたどりついたと感じる終着点だった。
それと同時に、全国各地への旅立ちの始まりの場所でもあった。
熊野古道に向かう多くの人々も、ここから三山を目指して新たな旅を始めようとしていたのである。 」
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旅をした日 平成二十一年(2009)三月七日