<名所訪問 伊勢神宮 外宮から内宮まで歩く

名所訪問

「 伊勢神宮 外宮から内宮まで歩く  」  


かうんたぁ。


お伊勢参りの最終目的地は伊勢神宮の内宮だが、 その前に外宮に参らなければならない。 
別宮も数多くあるが、できるだけ寄られるとよいだろう。 
江戸時代の旅人の楽しみは参拝が終えたあとの無礼講にあった。 
その雰囲気の一部を再現したのが、おかげ横丁である。 
また、古市にある旅館麻吉は、江戸時代、花月楼 麻吉という名の多くの芸妓を抱えたお茶屋だったところで、現在も当時の雰囲気を残したまま営業を続けている。 


◎ 伊勢神宮 外宮

伊勢市駅で降り、本町1交叉点を左折し、少し行くと、左が厚生小学校の交叉点があり、右側に 月夜見宮がある。 
交叉点を左折して、樹木が茂る月夜見宮の境内に入って行く。

「 月夜見宮は、外宮の別宮で、 月夜見尊(ツキヨミノミコト)と、月夜見尊荒御魂(ツキヨミノミコトノアラミタマ)の二神を祀る。 
境内はそれほど広い感じはしないが、荘厳な雰囲気が漂っていて、身が引き締まる心地がした。 」

お詣をすませ、先程の交叉点に出て、直進する。 
三百メートル歩くと、右側に 「東邸」 という石柱がある。

「 東家は、 古今伝授の創始者・東常縁を祖に持ち、 漢学者の東夢亭などの文墨の才人を輩出した家系である。
古今伝授とは、古今集の解釈を中心に、歌学などの学説を口伝・切紙・抄物により、 師から弟子に伝授すること。 」

この細い道は、神路通である。
この通りを進むと、信号交叉点があり、左右の県道23号、 ここに、「月よみの宮さんけい道」 と刻まれている、明治26年建立の道標がある。 

「 参道名の神路通(かみじどおり)は、 月夜見宮の神様が通る道ということから、名付けられた。
言い伝えでは、 月夜見宮の神様が、石垣の一部を白馬に変え、それに乗って外宮に通われいた、 とあり、、 人が夜通る時には真中を避けて、道の端を歩かなければならない、と伝えられている。 」

交叉点を右折すると、県道の左側にNTT伊勢志摩ビルがある。
ビルの前に、 お木曳き行事の写真と、 お木曳き行事と山田の関係を記した説明板があった 

説明板「お木曳き行事と山田」
「 伊勢神宮には二十年毎に御宮を遷しかえる式年遷宮という行事があります。  これは千三百年程前の持統天皇の御世に始められたもので、この伝統が堅く守られ、 営々と現在に伝えられています。 
お木曳き行事とは、木曽の山から切り出された御用材を宮川より外宮の北御門まで、 各団の誇るお木曳き車に載せ、木遣り歌、伊勢音頭などを囃したり、練ったりしながら、 神領民と呼ばれる地元の人々によって行われる民俗行事です。 
時期的には遷宮の七、八年前に行われ、いよいよまち全体が遷宮の年に向けて走り出す行事といえます。 
外宮領の山田地区では陸曳きと呼ばれ、街中を曳き、内宮領の宇治地区では川曳きと呼ばれ、 五十鈴川をソリで曳きます。 
 (以下省略)     」

月夜見宮 x 東邸 x 神路通 x 月夜見宮
月夜見宮
東 邸
神路通
お木曳き


現在は伊勢神宮の外宮と内宮は両方とも同じ伊勢市内になっているが、 江戸時代は外宮は山田町、内宮は宇治町と違う町だった。  

十辺舎一九の東海道中膝栗毛では、 弥次郎兵衛と喜多八が山田の町に入ってきた様子を次のように表現している。 

「 此町十二郷ありて、人家九千軒ばかり、商賈、甍をならべ、、 各々質素の荘厳濃にして、神都の風俗おのづから備り、 柔和悉鎮の光景は、余国に異なり、参宮の旅人たえ間なく、繁盛さらにいふばかりなし。 
町の両側には、御師の名を板にかきつけ、用立所の看板は林のように立っていた。 
袴、羽織の社家侍が何人となく馳せ違い、往来の旅人を迎え、どこの講中か、 御師の大夫は、と聞く。 」 

江戸時代、伊勢参りが普及したのは、山田町に邸宅を構えた御師の力が大きい。

「 伊勢講は、伊勢参宮のため、資金を積み立て、代わる代わる、 あるいは揃って参詣を果たす信仰者の組織であった。 
御師は、地方を巡って、護符を配布し、寄進の交渉にも当たり、伊勢講を組織化した。 
御師は、参詣の信者を広大な敷地を持つ自宅に泊め、接待した。 
食事なども当時の庶民にとっては特別だったので、 神宮の持つ素朴で気高さとともに感動を与えたのである。 
御師の数が最盛期には八百軒あったというから、伊勢講の隆盛のすごさが分かる。 」

伊勢神宮 外宮は、NTTビルの裏側にある。 
先程の交差点に戻り、右折すると、伊勢街道に出るので、左折してその道を進む。
右側に外宮の北御門があるが、そこを通り過ぎると、表見張り所があり、  豊受大神宮(外宮)宮域図が建っている。

表参道火除橋を渡る。 
表参道手水舎の向かいにある、楠の大木は、高さ十メートル、樹齢千余年の古木である。
平清盛が勅使として参向したとき、 冠に当たった枝を切らせたという逸話から、その名が付いたといわれるもの。 
緑の濃い木立の中を歩いて行くのは、気持がよいものである。

第一鳥居、第二鳥居の先に神楽殿があり、その先には九丈殿と五丈殿と広場がある。 
表参道から見て、手前の建物が九丈殿である。
建物正面の長さからその名称が付いているのだが、 豊受大神宮の摂末社遙祀の祭典が行われるところである。 
五丈殿は、表参道から見て、奥の建物で、雨天のときの修祓や遷宮諸祭の饗膳などが行われる。

その前の庭は 「大庭」 といわれ、遷宮祭の玉串行事や幣帛点検の儀式が行われる。
その先の右手には豊受大神宮(外宮)の御正殿がある。
内宮と同じ唯一神明造の様式であるが、 鰹木は奇数の九本で、千木が垂直に切られているなど、いくつかの違いがある。

「 外宮は、正式には豊受大神宮といい。 祭神の豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みを与る産業の守護神である。
豊受大神宮(外宮)は、内宮(皇大神宮)の創始より、 四百八十一年後の雄略天皇二十二年、 天皇の夢に、天照大御神が現れ、 「 自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように!! 」 という神託があったので、豊受大御神を丹波の国から天照大御神に食事を司どる神(御饌都神)として、 内宮に近いこの山田の地に迎えたものである。  」

表参道火除橋 x 緑の濃い木立 x 九丈殿と五丈殿、大庭 x 御正殿鳥居
表参道火除橋
緑の濃い木立
九丈殿と五丈殿、大庭
御正殿鳥居


内宮も同様だが、鳥居をくぐった外玉垣南御門までしか入れず、そこからの撮影は禁止。 
御正宮は四重の垣に囲まれている。 一番高く見えるのが御正宮。 
我々が入れるのは、二番目の外玉垣南御門までなので、 そこにある純白の綾の御幌(みとばり)ごしに参拝を済ませた。 

手前左隅(西南)の榊は、 一本榊 または 廻榊(めぐりさかき) と呼ばれる。 
昔は、お祭りが終わると、神職が冠につけていた木綿(ゆう)をこの榊の枝にかけた、 といわれるものである。
正殿の右側に、日々供える食事の神饌を整える、 忌火屋殿(いみびやでん) と、 天照大神などの神様に食事を出す、 御饌殿(みけでん) があり、 内宮の神様は外宮まで食事をとりに来ていたことを知った。 
御正殿の道の反対側には、 亀石 と 三ッ石 がある。 

「 外宮正殿前の道を曲がり、 別宮の参拝へ向う水路に架かる石橋の平らな大きな石が亀石と呼ばれているもので、 三重県最大の横穴式古墳の高倉山古墳入口の石だったと伝えられるものである。 
その近くに、結界を結んでいる中に三つの石がある。
式年遷宮の時、お祓いをする場所で、三ッ石の上に手をかざすと感じるパワースポットとして有名である。  」

亀石の先には、外宮別宮の風宮と土宮がある。
その先の高台には多賀宮がある。 

「  外宮の別宮である土宮(つちのみや)。 ここに祀られているのは、 土地の守り神の大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)である。
その東にある、風宮(かぜのみや)には、  級長津彦命(しなつひこのみこと)と、 級長戸辺命(しなとべのみこと)が祀られている。
もともとは、風雨の災害なく、農作物が順調に成育するようにと、 祈りが捧げられる小さな社であったが、 弘安四年(128)の元冦の際、風宮の神様と、 内宮の風日祈宮(かざひのみのみや)の神様がカを合わせ、 侵攻してきた蒙古軍に、神風を吹かせて、敵軍を全滅し、日本国を守ったことから、 別宮に昇格したといわれる。 」

外玉垣南御門 x 三ッ石 x 土宮 x 風宮
外玉垣南御門
三ッ石
土宮
風宮


少し高いところにある多賀宮は、 豊受大御神の荒御魂(あらみたま) をお祀りしている。

「 神様の魂には、穏やかで優しい和御魂(にぎみたま)と、  行動的で激しい荒御魂がある。 
外宮の御正宮には、豊受大御神の和御魂を、 多賀宮には豊受大御神の荒御魂と分けて、お祀りしている。 」

右側に少し入ったところに下御井神社がある。 
小さな社殿の中には清らかな水をたたえる御井戸がある。 
神宮内のお祀りには外宮の御神域に上御井神社があり、 そこから汲み出された水を使用するが、 不都合が生じた場合には下御井神社の井戸を使用するという。
忌火屋敷と御酒蔵から、苔が生えた鳥居をくぐり、森閑とした森に入り、 北の火除橋を渡ると、北御門に出た。 
正面に火除橋、右側に裏見張所があり、左側に手水舎がある。 

「 江戸時代、外宮の北御門は、伊勢参りに訪れた多くの人々が神宮にたどりついたと感じる終着点だった。 
それと同時に、全国各地への旅立ちの始まりの場所でもあった。 
熊野古道に向かう多くの人々も、ここから三山を目指して新たな旅を始めようとしていたのである。 」

下御井神社 x 御饌殿 x 苔が生えた鳥居 x 裏火除橋
下御井神社
御饌殿
苔が生えた鳥居
裏火除橋




◎ 伊勢神宮外宮〜内宮 

外宮を出て、内宮まで歩いて、御参りすることにする。
外宮前交叉点を出て、県道32号を歩く。
岡本1交差点で左折して、県道と別れ、次の交差点を右折し、道なりに進む。
小田橋を渡ると、その先はカーブし、 長く続く、 尾部(おべ)坂 である。 
倭町に入り、 倭姫宮(やまとひめのみや) に、立ち寄った。

「  倭姫宮は、第十一代垂仁天皇の皇女で、 豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に代わり、 御杖代(みつえしろ)として、 天照皇大神を祀る宮地を求めて、 諸国を巡幸した倭姫を祀る神社である。 
皇大神宮の別宮になったのは、大正年間なので、伊勢神宮の別宮の中では一番新しい。  」

近いよころにあると思っていたが、入口が遠く、思わぬ時間を食ってしまい、 この後、おかげ横丁の営業に間に合わぬ結果となる。 

街道に戻り、必死に坂を上る。 
道は右にカーブする。 
古市郵便局の道の対面には、「 近畿道は御銀―自然歩道、お伊勢さんを感じる道 古市  」 と、書いた道標が建っている。

「 江戸時代、伊勢の古市は、江戸の吉原・京都の島原と、 並ぶ三大遊郭だった。  
全盛期には、 妓楼七十軒、遊女約千人を数えたといわれる。 
今は住宅地になり、その面影はない。 」

やがて、道がなだらかになった。 
右に入ったところに、大林寺 という寺があった。 
その先、近鉄鳥羽線を陸橋で渡る。 
陸橋の手前、右側のお店の前に、  「 油屋跡 旧古市を代表する妓楼 歌舞伎伊勢音頭恋寝刃の舞台 」 と、 書かれた石柱が建っている。

「 伊勢まで苦労を重ねて旅して結果の反動から、 旅人達は解放感に浸り、 妓楼では舞台付の大広間で連夜、伊勢音頭を唄い踊る声が絶えなかった。 
妓楼・油屋で起きた嫉妬殺傷事件は、当時人気のあった歌舞伎の題材となり、 盛んに上演されたようである。 」

陸橋を渡ると、左側に、長峰神社がある。

「 神社の祭神は天岩戸で舞をまったとされる天綱女命である。 
伊勢音頭の遊女や古市歌舞伎役者の祖先として祀られた、といわれる。 」

倭姫宮 x 古市郵便局 x 油屋跡 x 長峰神社
倭姫宮
古市郵便局前道標
油屋跡碑
長峰神社


その先に、 旅館 麻吉の案内看板がある。 
左に入ると、駐車場があり、その先に建物がある。 

「 ここは江戸時代から続く、 今では古市で唯一、昔の面影を残す楼閣として、今もなお営業を続けている。 
江戸時代には、花月楼 麻吉(あさきち) という名の多くの芸妓を抱えたお茶屋で、 1782年の古市街並図に、 麻吉 の名があること、 また、東海道中膝栗毛にも 「 麻吉へお供しよかいな 」 と、登場することから、 二百年以上の歴史があるといわれる。 
実は清水寺のように斜面に建っていて、木造六階建てなのである。 」

街道を進むと、左側に徳川家康の孫・千姫の菩提を弔うため、 創建された 寂照寺 がある。 

伊勢自動車道を渡る手前の大きな交差点角には、 古市参宮街道資料館( 無料、月休 )がある。
その前の道標には、「 内宮まで2.1km 」 とあった。 
また、近くの三条バス停前には、「 月よみ宮さんけい道 」 の道標が建っていた。
時間がないので、寄らなかった。

月読宮(つきよみのみや)
「 月読宮は、 この先、参宮道の左の方向に、  1.2kmのところにある神社 (伊勢市中村町字向垣内、近鉄五十鈴川駅から600m) である。
この神社は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮で、境内には、月讀宮・月讀荒御魂宮・ 伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮の四つの宮が鎮座している。 
古事記には、 「  黄泉の国に行ってしまった伊弉冉尊(いざなみのみこと)と決別した、  伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、 黄泉の国の穢れを祓うため海水で左目を洗ったら、  左目から天照大御神(あまてらすおおみかみ)が生まれ、  右目を洗ったら右目から月讀尊(つくよみのみこと)が生まれた。 」 とある。 
陰陽道では、天照坐皇大御神が陽であるのにたして、  月夜見尊は陰であり、 陰陽の両方があって、 初めてこの世の中が成り立つと説き、  天照大御神は、太陽神、月讀尊は月の神と対になっている。 

境内の四宮は、それぞれ皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮である。 
■ 月讀宮(つきよみのみや) 祭神は月讀尊(つきよみのみこと)
  月夜見宮にまつられている月夜見尊と同じ。 見えないもの、夜をつかさどる神様である。 
■ 月讀荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや)  祭神は月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
  月夜見尊の荒御魂をまつる。
■ 伊佐奈彌宮(いざなみのみや)祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと) 
  日本の国や山川草木、天照大御神や月讀尊などを誕生させたニ柱の御親神のうちの女性神を祀る
■ 伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)<祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 
  日本の国土や山川草木、天照大御神や月讀尊を誕生させたニ柱の御親神のうちの男性神を祀る

その先は桜木町で、道の右側の大きなの樹の先に、「奉献両宮常夜燈」 と書かれた石碑があった。
その脇に、大正三年建立の大きな常夜燈が二基建っていた。

薄暗くなった牛谷坂を下ると、左側に 「猿田彦神社境内地」 の石柱や、 両宮参拝碑が建っている。 
更に下って行くと右側に、 「宇治惣門跡」 の標柱がある。

標柱の説明文
「 旧参宮街道の牛谷坂と宇治の町並みの間に設けられ、俗に黒門と呼ばれました。 
明治維新までここに番屋があった。 」 

街道に下ると、 黒門橋 がある。
伊勢街道は、その先の宇治浦田西交叉点で、県道32号に合流する。
交差点を左折して進むと、左側に、猿田彦神社 がある。

麻吉旅館 x 古市参宮街道資料館 x 両宮常夜燈 x 猿田彦神社入口
麻吉旅館
古市参宮街道資料館
両宮常夜燈
猿田彦神社入口


猿田彦神社に祀られるのは猿田彦大神である。
本殿は、さだひこ造り と称する特殊な、妻入造で、 欄干・鳥居に、八角の柱を使っている独自の建築である。 

「 日本書記によると、 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨を先導をしたのは猿田彦大神とされ、 古来、交通安全、方位除けの守護神といて、 各地で信仰されてきた。 
天孫降臨を終えた猿田彦神は、 伊勢の五十鈴川の川上に鎮まり、 その子孫は、 宇治土公(うじつちぎみ) として、 伊勢神宮の要職を務め、 猿田彦大神を私邸内に祀ったのが、 猿田彦神社の創祀という。 」

境内には、芸能の神 ・ 天宇受売命(あめのうずめのみこと) を祀る佐瑠女(さるめ)神社がある。

神社の説明板
「 天照大御神が、天岩窟(あめのいわや)に籠られたときに神楽をされ、 大御神が再び現れて平和な世を迎えられた、と伝えられる。 
天孫降臨の際は、 猿田彦大神と最初に対面、 大神が御啓行(みちひらき)の後は 、詔によりともに伊勢に来られ、功により、 媛女君 の称号を受けられました。 」 

神社の前には、「近畿自然歩道 猿田彦神社」 の道標がある。
「おはらい町0.3km」 とあった。 

宇治浦田町交差点を渡り、国道23号に入り、内宮に向かって歩く。 
御神燈が建ち並ぶ道を急ぎ足で歩き、神宮会館を過ぎると、もう少し。 
とうとう内宮の大鳥居まできた。 

猿田彦神社 x 猿田彦神社本宮 x 佐瑠女神社 x 内宮大鳥居
猿田彦神社
猿田彦神社本宮
佐瑠女神社
内宮大鳥居



◎ 伊勢神宮 内 宮

この鳥居の前は、毎年行われる大学駅伝「熱田神宮から伊勢神宮」で、 ゴールになる場所で、先程まで歩いた内宮からの道はゴール寸前のキツイ坂として、 紹介されている。

内宮を御参りする。
その先には五十鈴川が流れ、宇治橋と一の鳥居がある。
二十年毎に行われる遷宮の際には、社殿だけではなく、鳥居も橋も取り替えられる。
宇治橋は掛け替え工事中で、左側の仮橋に迂回させられた。
工事開始から半年経たので、かなり進捗している様子だった。

「 宇治橋は、長さ百一b八十a、幅八b四十aの橋である。
渡り板には、約六百枚の檜が、  すりあわせ と呼ばれる船大工独特の技術で、並べられて作られる。 
宇治橋の渡り始めは、十一月三日で 、旧神領から選ばれた渡女を先頭に全国から選ばれた三代揃いの夫婦らが橋を渡る、という。 」

脇の仮橋を渡り、右折すると神苑で右手に、大正天皇御手植松がある。
左手には、 参集殿が建っている。
直進すると火除橋がある。 
手水社と鳥居があり、その先の右手には、 五十鈴川御手洗場がある。
参詣する前に、心身を清める場所で、小生も五十鈴川で手を清めた。

「 伊勢神宮の誕生は、日本書紀に垂仁天皇の御代に皇女倭姫命を使って、各地を訪れ、 この伊勢の五十鈴川の畔に移したという時に始まる、とあるが、 それはそれまでの伝承に大和政権の誕生における政治的な意図もあったようで、そのまま信じることはできない。 」

御手洗場の北側(手前左上)に、 滝祭神がある。 

「 滝祭神社は、 皇太神宮(内宮)にある境内社で、 滝祭大神を祀っている。
滝祭大神は、五十鈴川の水の神の弥都波能売神(みづはのめのかみ))で、 内宮の中でもここだけは、社殿がない古来の姿をとどめている。  
内宮が出来る前から地元民により信仰されていたという古社である。 」

五十鈴川の対岸には、 「風日祈宮」 という、 風の神を祀る別宮がある。
鎌倉時代の元寇のとき、神風を吹かせて日本を守った、といわれた神である。 

そこを過ぎると鳥居があり、鳥居をくぐると、左側に授与所と神楽殿がある。
その隣にあるのは、五丈殿と御酒殿、由貴御倉などがある。 
左手に石垣が現れ、そこには、 別宮遥拝所があり、籾だね石があった。 

その先、左側の石段の上は、今回の式年遷宮で平成二十五年に新しい正殿が建てられる新御敷地である。 
(注)現在、御正宮になっているが、当時はまだ工事中であった。

工事中の宇治橋 x 滝祭神 x 神楽殿 x 左側の石段
工事中の宇治橋
滝祭神
神楽殿
左側の石段


その先、右側の 御贄調舎 は、お祭の時にお供えするアワビを調理する儀式が行われるところである。 
その反対側に、三十段程の石段がある。
石段を上ると鳥居があり、その先に、廻りを四重の垣根に囲まれた、御正殿がある。
鳥居の先に幕に覆われた板垣南御門があるが、そこから先は撮影禁止である。
御正殿は、 生絹の御幌(御幕)を通してしか、対面できないし、 皇室関係者以外はここで参拝するのである。

「 皇大神宮(内宮)は、垂仁天皇二十五年に、天照大神を当地に祀るため、祠が建てられたのが始まりと伝えられる。 
天武天皇から持統天皇の時代に、現在のような大きな社殿になり、 二十年に一度の式年遷宮もそのころから始ったようである。 
御正殿は、 唯一神明造り の古代様式を伝え、 妻造りの平入で、 萱葺きの屋根には十本の鰹木(かつおぎ)が乗せられ、 東西両端の破風板の先端が屋根を貫いて、千木(ちぎ)がある。
四本の千木(ちぎ)の先端は、水平に切られている、 と警備員から教わった。 」

参拝後、荒祭宮 へ向かう。
左側に稲を納める、 御稲御倉(みしねのみくら) と、 古い神宝を納める外幣殿(げへいでん) がある。
その先には石段を上ると荒祭宮があった。 

「  荒祭宮は、内宮の境内にある別宮の一つであるが、天照大神の荒御魂(あらみたま)を祀っているので、 内宮の次に参拝することになっている。 
社殿は、内宮に準じ、内削ぎ(水平に切られている)の千木と偶数の六本の鰹木を持つ萱葺の唯一神明造の建物である。
他の別宮に比して社殿の規模が大きく、幅二丈一尺二寸、奥行一丈四尺、高さ一丈四尺八寸あり、南に面して建っていた。 」

皇大神宮 (内 宮)の参拝は終わった。 

板垣南御門 x 御稲御倉 x 荒祭宮
板垣南御門
御稲御倉
荒祭宮



◎ おはらい町

伊勢参拝は無事終了したので、おはらい町に寄り、帰ることにした。
内宮大鳥居の脇に、おはらい町がある。 

「 内宮の 門前町として発達してきたこの町は、 明治の初めまでは、多くの御師が存在し、  神宮に代わって、 神楽をあげたところから、「おはらい町」  と呼ばれるようになったという。 
道の両側には、伊勢地方独特の切妻、入母屋、妻入り様式の家屋が建ち並び、 土産物店や菓子屋、旅館として軒を連ねている。 

町の中央部に、 伊勢名物の 赤福本店 があった。

「  建物は、明治十年(1877)の建築であるが、赤福の創業は宝永四年(1707)というから、 今から三百年程前である。 
皇大神宮(内宮)前の五十鈴川のほとりで、 やわらかい餅を晒餡(さらしあん)でくるんだものを、 「赤福」 という名で発売した。 
当初は砂糖が貴重品だったことから、塩味の餡であったが、八代将軍吉宗のさとうきび栽培奨励により、 砂糖が手に入るようになったことから、次第に、 黒砂糖餡を使うようになった。 
現在の白砂糖餡になったのは明治に入ってからと、いう。 」

中に入り、受付で、 赤福セット(350円)を注文すると、 奥の広間に案内された。
すこし待つと、お盆に番茶と赤福餅が三個乗った皿が運ばれてきた。
餅の上の餡に、三筋の線が引かれているが、これは五十鈴川を表したものという。
手作りで、搗きたてなので、うまかった。 
あっという間に、食べ終わり店を出た。 

赤福前の交差点の先には、「おかげ横丁」 がある。
お伊勢さんのおかげ という、感謝の気持を持って、 平成五年に誕生させたという町である。
約二千七百坪の敷地内には、  江戸から明治にかけての伊勢路の代表的な建築物が、 移築、再現されている。
、 芝居小屋を除けば、みやげ店や食べもの屋などのショッピングタウンというものである。 
おかげ横丁に入ると、正面にに見えるのが、芝居小屋で、 芝居小屋の上には、役者絵が挙げられていた。

「伊勢名物 伊勢うどん」 の看板がある店に入った。 

「  伊勢うどんは、やわらかく茹でた極太の麺に、 たまり醤油をベースとした、黒く甘みのあるつゆを、少量かけていただくものである。 
見た目と違い、やわらかくこしがないので、最初食べた時は頼りなく感じた。 
たまり醤油がどす黒くて不気味に感じ、塩からいのでは思ったが、 これまた、予想に反していた。 
見た目と食べた時のギャップが大きいうどんである。

大鳥居のバス停からバスに乗り、近鉄の宇治山田駅に行き、近鉄特急で自宅に帰った

おはらい町 x 赤福本店 x 伊勢名物赤福 x おかげ横丁
おはらい町 家並み
赤福本店
伊勢名物 赤福
おかげ横丁 芝居小屋


旅をした日 平成二十一年(2009)三月七日




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