「 斎宮は、 いつきのみや とも呼ばれ、
斎王の宮殿と、斎宮寮という役所のあったところである。
天皇が即位するたびに伊勢神宮に天皇の名代として奉仕する未婚の皇女のことを斎王という。
斎王は、都(京都)で、仮宮を建て、潔斎を済ませた後、
五百人の行列と共に、百四十キロの道を旅し、斎宮に到着した。
これを斎王群行という。
その後、天皇が交替するまで、ここで寝泊まりをして、年三回、
伊勢神宮に奉祀のため通った。
この制度は、平安時代から南北朝時代まで、
六百六十年間続き、その間、記録では六十人余の斎王がいた、という。
近鉄斎宮駅で降りると、目の前に、広々とした空地が広がる。
駅の出口は南口で、そこを出ると、左折し、三叉路を左折する。
目の前に、近鉄山田線の踏切があるので、そこを越える。
正面に 「斎宮」 と書かれた大きな看板があり、 広大な空地が目に飛び込んでくる。
いつきのみや歴史体験館がある。
「 いつきのみや歴史体験館では、平安時代の貴族の住まい、 寝殿造を模したガイダンス棟と古代の役所の建物をモデルとした体験学習棟があり、 十二単衣や直衣の試着体験などが出来る。 」
その右側にある空間は、全て斎宮跡の敷地で、 その一部に、 1/10模型で、内院と神殿、そして、寮庫の建物群が再現されていた。
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神殿の1/10の模型の前には、説明板があった。
説明板「神殿」
「 斎王の神殿があった内院の北側で、掘立柱塀と溝に囲まれた2棟の建物が見つかりました。
建物は桁行4間・梁行2間の建物が鉤型に配置され、
建物の周囲には隅が途切れた溝状の遺構が巡っています。
厳重に囲まれており、斎王や主神司が祭祀を行った所と思われます。
建物は、掘立柱の高床で、屋根は茅葺、千木と鰹木をもつ、
神宮正殿のような建物と推定されます。 」
また、建物の右側に、 「斎王御館之遺跡」 の碑があり、 碑の後方には休憩施設があった。
更に、奥まで行けば、遺跡があるのかも知れないが、その案内もなかったので、
斎王も伊勢神宮へ奉仕する時通ったと思った、伊勢街道(参宮街道)の周囲を
歩いてみることにした。
伊勢街道に出て、伊勢に向うと、左側に牛葉公民館がある。
そのの奥に、 秋葉神社 と 庚申堂 が祀られていた。
牛葉公民館は、 観音寺 という寺があったところに建てられている。
、
地元の人が建てた、「観音寺跡」 の木柱が建っていて、説明板があった。
傍らの説明板
「 天正四年(1576)、斎宮の乾源休が、菩提寺として創建し、その後、
この地に移されて、観音寺とされたが、明治元年に廃寺になった。
本堂は、現在 佐田 清光寺の本堂になっている。 」
ここへくる前の右側に、「乾」 という標札がかかった由緒のありそうな立派な門構えの屋敷があった。
塀は瓦屋根が乗り、上半分が黒漆喰壁、下は黒い腰板、所々に連子窓があった。
この家は、 観音寺と関わりのある家かも知れない。
少し進むと、道の左手に林があり、石垣の一角に、 「斎宮城跡」 の標柱がある。
傍らの説明板には、 「 室町時代、斎宮の住人・野呂三郎が、ここに城砦を築き、
勝手に徳政を敷き、狼藉を働いた。 国司・北畠材親は、これを討伐した。 」 と、あった。
その先の鳥居の右側に、「延喜式内竹神社」 の石柱が建っていた。
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鳥居をくぐり、中にはいると、樹木が茂っていて、その先も鳥居があり、 狛犬が鎮座している。
説明板「竹神社」
「 竹神社の誕生については、 垂仁天皇の御代に、
竹連(竹氏) という豪族が、 天照大神の奉行に供奉して、 この地に留まり、
孝徳天皇の御代に竹郡が創建された時、 その末裔が当社を創祀したと、伝えられる。
また、 竹連 (連は姓の祖) は、宇迦之日子の子 ・ 吉日子 とある。
斎王制度が確立されるともに、 地名も 竹の都 から 斎宮 に変わっていった、
と思われる。
竹神社は、 斎宮歴史博物館の南隣接の中垣内の地にあったといわれ、
郷社竹神社御址 の石碑が建っているが、
もともとは、斎宮内に祀られた十七社の一つだったようである。
この地は、古来、 野々宮 と呼ばれ、 斎宮 があったとも伝わる地であるが、
明治の神社合祀令により、明治四十四年、 江戸時代には、
八王子祠と俗称された社を合祀移転し、 竹神社となった。
その際、観音寺にあった 八王子 と称した宇志葉神社など、
近隣の二十社がこの神社に合祀された。 」
境内の大きな石灯籠は、池村の氏神だった1、 饗庭の森八王子の宮の常夜灯 として、嘉永七年に建立されたものである。
従って、この常夜燈も移転したものだろう。
他に、丑寅神社の常夜燈もあった。
竹神社では、毎年六月、斎王行列を復元した斎王まつりが行われるので、機会があれば見たいと思った。
斎王の森 の前の道を東に進み、 エンマ川 との交じわる点から、
更に二百メートル東に行くと、 「丑寅(艮)神社跡」 という碑がある。
竹神社にあった丑寅神社の常夜燈はここにあった訳で、明治の神社統合令により、
丑寅神社は、竹神社に合祀されたと思われる。
丑寅神社は、斎宮の鬼門鎮めと見られる神社だったようである。
街道に戻ると、竹神社前交差点で、伊勢街道の標識があったので、
道に沿って、歩いて行く。
竹神社の拝殿前に、「竹神社と謡曲絵馬」 の説明板があった。
説明板
かって、絵馬堂がこのあたりの四辻にあったようである。
参宮街道を通る人が立ち寄っていたが、絵馬堂は朽ちてなくなり、
竹神社に絵馬が収納されている。 」
中町には、切妻ツシ二階の平入り、格子造りで、軒に幕板が下がっている家が、
多く残っていた。
道の左側に、天満宮云々の道標があるが、北野天満宮への道標で、
最近建てなおしたものである。
昔はここに黒木の鳥居があった、とある。
このあたりは、笹笛川(旧名笛川) の川沿いであるが、河川改修で流れが大きく変わったことで、古い姿は分からなくなっている、という。
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二軒先の左側に、「 有明六地蔵 ← 」 の看板があるので、左に入ると、 奥に中町公民館が見える。
説明板
「
ここは、古には有明池があったところで、明治初年まで、笛川の中町地蔵堂があった。
斎宮は、神領だったため、明治の神仏分離により、この地の寺院は全て壊された。
有明六地蔵石幢は、歴史を語る貴重な遺産である。 」
六地蔵石幢とは、灯籠の六角形の火袋部分に、六体の地蔵を刻んだものである。
室町時代の永正十年(1513)に造られたもので、
均整の取れた美しさは、県下一といわれる。
石幢を跨いて、三つの建物があるが、全て庚申堂である。
また、石幢の隣に、五基の山の神が祀られていた。
街道に戻ると、道の左側に、蔵と門のある建物の、本格的な屋敷があった。
黒い板を張り、白い漆喰の蔵は緑の緑青がアクセントになる。
その隣は、中に入る入口で、屋根が付いた高塀になっていて、植え込みの木々のみどりを覗かせていた。
右側には切妻平入り二階建ての格子造りの建物があり、軒に幕板が下がっている。
手入れが整っていることもあるが、まさに立派な日本建築である。
少し歩くと、左側の小道に 、二つの道標が並んで建っている。
「
道標に、「斎宮旧蹟蛭沢之花園」 とあるのは、天然記念物の 地元で どんど花 と呼ぶ、野花しょうぶ群落地への案内である。
斎宮小学校が建てた、「飛び出し注意」 の看板を縛り付ける柱の代わりに、
使われていた。
その奥にある大きな石柱は、「 斎王隆子女王御墓従是拾五丁 」 、とある道標である。
この道標は、病気で亡くなった斎王・隆子女王の墓への道案内である。 」
そこを過ぎると、道は右にカーブしていく。
その先の勝見交差点を過ぎると、古い家が多く残っている斎宮集落は終わりになる。
小生の斎王の探索はここで終え、近鉄に乗り、伊勢神宮へ向かった。
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斎宮跡 所在地 三重県多気郡明和町大字斎宮。
近鉄斎宮駅から徒歩5分
斎宮跡の関連施設は、小生が訪れた、上廟芝生広場前の いつきのみや歴史体験館の他、少し離れた北西に、 斎王歴史博物館がある。
旅をした日 平成二十一年(2009)三月七日