伊賀上野城は、筒井定次が天正十三年(1585)に築いたのに始まる。
慶長十三年(1608)、藤堂高虎が徳川家康の命を受けて大改修を行い、
筒井定次の城が東の家康に備える城構えだったのに対し、
大坂城にいた豊臣秀頼に備えた西に備える配置に変更して、石垣や水堀を設け、
城域を三倍に拡張した。
日本100名城の第47番に選定されている。
伊賀上野に入るため、近鉄伊賀神戸駅で降り、
伊賀鉄道<に乗り換えた。
接続時間が少ないと慌てるが、運転手が待っててくれた。
伊賀市は忍者を売り物にしているので、電車の外観や室内に忍者が描かれていた。
伊賀上野駅には忍者のフイギアが置かれている。
伊賀上野城址は、駅北口から北に歩いて二百メートル程である。
市役所を過ぎると駐車場が右側にあり、その先の細い道を進むと、
左側に 「俳聖殿、伊賀流忍者博物館→」 「←上野城天守閣」 の道標と、
「←近道天守閣、高石垣」 の道標が建っている。
左の道に入り、進むと、天守が見える広い場所に出た。
ここは、 城代屋敷があった場所である。
「 伊賀上野城は、築城の名手・藤堂高虎が、慶長十三年(1608)、
徳川家康の大坂城包囲網の一環とする命を受け、伊予から入封し、
慶長十六年(1611)、大坂城の豊臣秀頼にそなえるよう、
城の大改修に取り掛かった城であるが、
大坂の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、
上野城を支城としたため、上野城には、城代が置かれた。
藤堂高虎は、一国一城令後も上野城が伊賀国の城として存続が認められると、
弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則を城代にし、
文政八年(1825)、藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏が世襲していった。 」
藩主が使用する御殿は広間や書院など、
城代屋敷は政務に使用する表向きの建物と居間や寝室など、生活の場である奥向きの建物から構成される。
上野城の城代屋敷も、それに似た建物構成だったことが分かっている。
この場所には、幕末に描かれた御城内絵図と発掘調査に基づき、
建物跡が縁石やベンチや植栽などで表示されていた。
明治維新になり、城取り壊しにより、全ての建造物が壊された。
今残るのは、石垣と堀の一部だけである。
江戸時代には、
天守が見える側にある石垣の手前に大納戸蔵があり、
米、塩、味噌といった食材が保管されていた。
また、手前には台所棟があったことから、
石垣の先にあった裏門は、 台所門 と呼ばれた。
台所門の一角には、炭や柴を保管する炭小屋があった。
今は広場になっていた。
台所門跡を下ると、右側に 「上野城100m、高石垣150m→」 の道標がある。
さらに下ると、左側に城代屋敷に入る道があり、
その先に城代屋敷に入る、 表門跡 がある。
先程の道標まで戻り、天守のある本丸に向う。 この道が大手道である。
石垣に囲まれた中に入ると、広い場所に出る。 ここが本丸である。
台所門下の石垣に、 「内側から現れた石垣」 という説明板があった。
説明板
「 台所門西側の石垣解体修理工事に伴い実施された発掘調査で、
藤堂時代の石垣内部から、 藤堂時代以前と思われる石垣が現れた。
外側の石垣に比べると、石が非常に小さく、
加工痕である矢穴が残った石は、3石だった。
石垣の上部には、粘土や炭状の土など、何層にも丁寧に叩き締めて、
版築した様子が観察される。
版築は寺院などで使われる手法だが、
城郭の石垣上にこれほど丁寧にされることは珍しい。 」
伊賀上野城は筒井定次が天正十三年(1585)に築いたのに始まる。
このとき、三重の天守が建てられた。 発見された石垣はその時のものなのだろう。
「 慶長十三年(1608)、藤堂和泉守高虎は、伊賀、伊勢への転封になり、
大坂城の豊臣秀頼に対する拠点の城として、
慶長十六年(1611) 正月、筒井氏の城を西に拡張し、
その時、日本一の高さといわれる、高石垣を築いた。
翌十七年九月、当地を襲った台風により、
五層の天守は崩壊、大坂夏の陣で、徳川方が勝利に終わったので、
天守は再建されなかった。 」
今の天守は、 昭和十年(1935)十月、地元の名士、
衆議院議員だった、川崎克氏が私財で、
木造、三重三階、二重二階の小天守を伴った、連結式形の層塔型模擬天守を建て、
「伊賀文化産業城」 と称した、模擬天守である。
天守一階に、日本100名城のスタンプが置かれていて、
三階には、横山大観など有名人の書画四十六点の大色紙が格天井に飾られていて、
上野盆地の雄大な景色が一望できる。
天守の先には高石垣があるのだが、危険と柵があり、見ることはできない。
手前の左側を下ると、左側に 「史跡 上野城跡」 の石碑がある。
昭和四十二年(1967)、旧上野城域一帯が国の史跡に指定された。
両側に石垣が残る道を下ると、 「白鳳門」 と書かれた門に出た。
この道が搦手道なのだろう。
白鳳門を右折して、高石垣が見えるところに向う。
白鳳門の隣にあるのは上野高校で、
本館は、明治三十三年(1900)に、三重県第三中学校校舎として、
建築された木造の建物で、県の文化財に指定されている。
中央の玄関から、左右対称に、東西に細長い校舎で、
東西両端では、北に折れ続き、上から見ると凹状を示す。
南に張り出したポーチは凝った造りで、屋根は入母屋造りの破風を見せ、
柱間はアーチ状の細かい装飾が施されている。
校門前には「 横光利一 若き日の五年この校に学ぶ 」 と書かれた石碑がある。
「 横光利一は川端康成とともに新感覚派と呼ばれる昭和初期の文壇を代表する作家で、
明治四十四年(1911)に三重県第三中学校(現上野高校)に入学し、卒業するまでの五年間をこの校舎で学んだ。
石碑の揮毫は、地元の作家、岸宏子氏で、父が横光の従兄弟である。 」
上野高校の先にあるのは、 旧崇広堂 である。
「 崇広堂は、津藩藩校有造館の支校として、
文政四年(1821)に、上野城内に開設された藩校で、
敷地の東は文場、西は武場とされた。
嘉永七年(1854)の地震で講堂を除き倒壊したが、その後再建された。
講堂を中心とした文場部分は藩校当時の趣きを残すとして、
昭和五年(1934)に国の史跡に指定された。 」
上野高校と崇広堂の間の小路を北に進むと、 右側に、駐車場から木の間越しに、水堀と高石垣が見えた。
「 本丸西面にある高石垣は、
大坂城の高石垣とともに、日本で一、二の高さを競う石垣である。
慶長十六年(1611)に建てられた石垣は、総高二十九・七メートルを誇り、
打込みハギ、算木積で積み上げられた直線的な石垣が美しい。
石垣は三方に折廻して、その延長は三百六十八メートルに及ぶ。 」
以前に訪れた時は堀の周りから石垣がよく見えたが、 周囲の樹木が繁茂して、あまり見えなかったのは残念である。
「 上野城の本丸には、櫓は建てられなかったが、 外堀の土塁上には、二層櫓が二棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、 長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門は建てられたというが、 明治維新後の廃城令により、廃城処分とされ、石垣上の建物は取り壊された。 」
堀を周遊し、城に戻ると、 松尾芭蕉を祀る俳聖殿(はいせいでん) がある。
「 俳聖殿は、松尾芭蕉生誕三百年を記念するために、
昭和十七年(1942)に、建築家伊東忠太の設計で建設された、下層八角形平面、
上層円形平面の木造建築物で、屋根は桧皮葺で、
平成二十二年(2010)に国の重要文化財に指定された。
外観は、川崎克の着想を元に、伊東忠太が仕上げたもので、
松尾芭蕉の旅姿を模したものされ、
上層の屋根が笠、下部が顔、下層のひさしは蓑と衣姿、
堂は脚部、回廊の柱は杖と脚を表している。 」
その先の奥には、伊賀忍者博物館がある。
「 昭和四十九年(1964)、同市高山にあった民家を移築し、
忍術研究家の奥瀬平七郎が、忍者屋敷として、開設したのが始まりである。
昭和七十三年(1998)、施設を増築し、 伊賀流忍者博物館 に名称を変更した。 」
上野城を訪れる人の大多数の目的は忍者屋敷に訪問することのようで、
当日も多くの人が訪れていた。
これで上野城の探訪は終了した。
伊賀上野城へは近鉄伊賀線「上野市」駅から徒歩10分
旅をした日 平成三十一年(2019)一月二十二日