江戸幕府は、江戸と京都を結ぶ街道として、東海道と中山道に宿駅制度を作り、東海道の宮宿と桑名宿間は海路の七里の渡しによることに決めた。
鉄道の開通により、その存在は忘れられているが、東海道の痕跡を辿って、
桑名の町を歩いてみたい。
スタートは宮宿から船が着いたという、船着き場から。
桑名市船馬町に、 「史跡七里の渡し」 の石標が建っている。
ここが、江戸時代、宮宿を出た七里の渡しの帆掛け舟が着岸したところで、
伊勢湾から揖斐川沿いに少し入った場所になる。
「 慶長六年(1601)、
宮宿と桑名宿の間は 「海上七里を船で渡る渡船」 と定められた。
これを七里の渡しといい、この区間を三時間から四時間で運んだ。
京や大阪に向かう人の他、お伊勢さん詣の人の利用が多かったので、
その賑わいはいかばかりだっただろう?
明治に入り東海道が廃止になってからも、
揖斐川上流の大垣との間に、人荷の流通があり、
船着き場は客船や荷物船の発着場となっていた。
鉄道の開通とトラックの登場で、次第に利用されることがなくなった。
更に、昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事のため、
渡船場と道路の間に防波堤が築かれて、旧観は著しく変化し、
港としての機能は全く失われた。
昭和六十三年から平成元年にかけての整備修景工事により、
コンクリートの堤防で囲まれ、
手前の右側の舟溜まりから出る船のための水門があるという構造になってなった。 」
船着き場の跡からは外の風景は見渡せないが、 伊勢神宮遙拝用の一の鳥居が建っている。
「 江戸時代の天明年間(1781〜1789)に、伊勢国の到着地にふさわしい鳥居をと願い、
矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して建てたのが、鳥居の初めである。
明治以降は、伊勢神宮の式年遷宮のたびに、伊勢神宮の宇治橋外側の鳥居 (一の鳥居) を削って、建て直されている。 」
その脇にある常夜燈(常燈明)は、 江戸や桑名の人達の寄進によって、
天保四年(1833)建立されたもので、
以前は鍛冶町の東海道筋にあったが、 交通の邪魔になるのでここへ移築されたという。
昭和三十七年の伊勢湾台風で倒壊した後、元のままの台石に、
安政三年(1856)の銘がある、上部を多度大社から移して再建した。
安藤広重の 「東海道・桑名」 の絵は、 桑名城を背景に、七里の渡しの帆掛け舟が描かれている。
江戸時代の旅人になった気分で、鳥居から伊勢神宮の方角を拝んでから、
街道にでて、歩き始めた。
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北の方に少し行くと、「料理旅館山月」 があるる。
ここは 「駿河屋脇本陣」 を営んでいた家で、小さな石標が建っている。
隣の 「料亭船津屋」 は江戸時代に大塚本陣があったところである。
(注)料亭船津屋は、現在は結構式場の 「 THE FUNATSUYA 」 に代わっている。
船津屋は泉鏡花の名作「歌行燈」のモデルになったことで有名である。
「 泉鏡花は明治四十二年(1709)十一月、講演の為、桑名に来て船津屋に泊まった。
この時の印象を基に、小説「歌行燈」を書いている。
船津屋は格式の高い料理旅館だったが、小説では 湊屋 と書かれ、
裏河岸から、かわうそがはい上ってきて悪さをする、という噂話が登場する。 」
建物を囲む塀の一角に、久保田万太郎の句碑があった。
「 かはをそに 火をぬすまれて あけやすき 万 」
「 昭和十四年(1939)、久保田万太郎は、船津屋に泊まり、 三ヶ月ほどで戯曲、歌行燈を書き上げたが、 その際に船津屋主人の求めに応じて詠んだものといわれる句である。 」
船津屋の裏側に回った先に、住吉神社がある。
神社前の二基の石塔は、材木商達が寄進したもので、
「天明八戌申年十二月吉日」と刻まれている。
「 桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、
十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達した。
住吉浦には全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって航海の安全を祈り、
浪速の住吉神社から勧請して住吉神社を建立した。 」
境内には、山口誓子 の句碑がある。
「 水神に 守られ冬も 大河なり 誓子 」
住吉神社から見ると、揖斐川と長良川が流れ、
その先で一つになって流れていく様は巨大で竜を感じさせる。
快晴の今日は臥竜のように穏やかな風景を演出していた。
風景を見ていると、時間が刻々と過ぎ、自分の存在が小さく感じられた。
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七里の渡しに戻り、東海道を南下する。
「 桑名宿は東海道五十三次で四十二番目の宿場で、
旅籠では宮宿に次ぐ二番目に多い宿場だった。
元禄十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内の総家数 二千五百四十四軒、宿内人口 八千八百四十八人で、本陣が二軒、脇本陣が四軒、旅籠は百二十軒あった。 」
船着場から春日神社あたりまでは、船宿や旅籠があった所である。
丹羽本陣は、左側の後藤商店やめん処川市のあたりにあったようである。
その先の右側には、 「泉鏡花の歌行燈」 と書いたうどん屋がある。
その先の交差点の左角にある、柿安本店は
明治四年(1871)創業で、文明開化の牛鍋屋由来の老舗である。
ここで桑名城址に立ち寄る。
交差点を左折すると、多聞橋と舟入橋があり、
それらを渡ると左手に鹿の飾りの兜を被った、本多忠勝の大きな銅像がある。
ここは桑名城の三の丸跡である。
「 本多忠勝は、徳川四天王の一人で、慶長六年(1601)に、
桑名十万石に封じられると四層六重の天守をはじめ、
五十一基の櫓と四十六基の多聞が立ち並んだ近代城郭の桑名城を建てた。
また、葦が生えた湿地に城下町を整備した、といわれる桑名の基礎を築いた人物である。 」
右折して狭い道を進み左折すると、 鎮国守国神社 がある。
「 桑名藩はその後本多氏は移封され、二代目以降は松平氏一族に変った。
鎮国守国神社は、寛政の改革の老中・松平定信の息子が、城内に設けた神社で、
桑名藩主になった先祖の松平定綱(鎮国公)と、実父松平定信(守国公)を祀っている。 」
神社を右折して進むと、 桑名城の本丸跡である。
桑名城の天守閣は、元禄十四年(1701)の桑名の大火で焼失し、以後再建なされなかった。
その先の小高いところは、「辰巳櫓」 の跡である。
「 辰巳櫓は三重櫓で、天守の代わりをしていたが、大政奉還の後の慶応四年(1868)、 明治政府軍により、 桑名城を焼き払われ、建物は灰燼に帰した。 」
桑名城の跡は全体で、「九華公園」 となっている。
現在は、無数の堀の中に空地があるという感じで、
ここに 「水城の桑名城」 があった姿は想像できなかった。
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中橋を、渡って出たところは東海道の春日神社前で、青銅の鳥居が建っていた。
「 春日神社は桑名宗社ともいわれる神社で、
旧桑名神社 (祭神三崎大明神) と 中臣神社 (祭神春日大明神)
を合祀した桑名の総鎮守社である。
春日神社門前の旧東海道に面して建つ、青銅鳥居は、
高さ七メートル六十センチの大きなもので、
寛文七年(1667) 桑名藩七代藩主・松平定重が、 辻内善右衛門に命じて建立したもの。
その後、何度か天災や戦災に遭ったが、その都度修復されて今日に至っている。 」
鳥居の左側前の大きな石柱は、「しるべ石」 といわれるもので、 江戸時代の迷子の捜索板である。
「 しるべ石の左に 「 たづぬるかた 」 と右に 「 おしへるかた 」 と彫られていて、 それぞれの石面に「尋ね人の名前と特徴」と「見つけた場所」を書いて貼り付ける、というしくみだった。 」
鳥居の先に、 楼門(随神門) がある。
天保四年(1833) 十五代藩主・松平定永により、建立されたが、
昭和二十年の空襲で焼失した。
現在の門は、平成七年(1995)に再建されたものである。
神社の境内には、 文化三年の常夜灯や明治天皇に供した御膳水の井戸がある。
また、 山口誓子 と 二川のぼる の句碑があった。
「 山車総(す)べて 鎧(よろい)皇后 立ち給う 」 (山口誓子)
「 山車の燈に 夜は紅顔の 皇后よ 」 (二川のぼる)
山口誓子の句は、春日神社の 石取祭>(いしとりまつり) を詠んだもので、
皇后とは神功皇后である。
「 石取祭の起源は江戸時代初期に神社の祭場へ町屋川の石を奉納した神事といわれ、
毎年八月第一土曜日の午前零時から日曜日深夜まで行われる。
町内毎に大太鼓一張と鉦を四〜六個持つ山車があり、それが三十数台寄り集まって、
東海道などを練り歩き、全車が桑名宗社へ渡祭(とさい)を行うまでの二日間、
おはやしを打ち鳴らし練り歩く。
その音のうるさいことから、日本一やかましい祭といわれる。 」
春日神社の先には、「桑名御坊」 と称せられる、本統寺がある。
「 本統寺は、東本願寺桑名別院で、徳川家康や明治天皇も宿泊した由緒ある寺院である。
慶長元年(1596)、本願寺第十二代世教上人により開創され、開基は同上人の長女(教証院)である。
延宝年間の火災で堂宇が全て焼失したが、桑名の長者、山田彦左衛門の寄進で再建された。 」
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本統寺境内には、芭蕉句碑がある。
「 冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす 」
松尾芭蕉は、 「野ざらし紀行」 の初旅の折この寺に宿泊している。
「 当時の住職は、琢恵(たっけい)で、古益 という俳号を持ち、北村季吟門下の俳人でもあった。 」
東海道に戻ると、左側が掘割があるところに、「歴史ふれあい公園」
と名付けられたポケットパークがある 。
この堀は、桑名城を囲む城壁の一部で、
正面の堀川東岸の城壁は、 川口樋門(揖斐川に出る) から南大戸橋に至る、
約五百メートルが残っている。
小公園を過ぎると道は突き当り、左側にあるのは 南大手橋である。
以前はもう少し南にあったようだが、
桑名城の出入口のなっていたところである。
東海道は、ここで右折する。
100m行くと右側に石取会館があり、入場無料で石取祭のビデオの上映や祭に参加する山車が見られる。
京町交差点の手前の左側には、桑名市博物館(入場無料)があり、その壁面に、
石の道標があった。
「右 京いせ道、左 江戸道」 と書かれた石の道標で、下の方は欠けているように思えたが、「 東海道に置かれていたものを移設した。 」 とあった。
県道613号を横断して、交差点を渡る。
真直ぐ行くと変則交叉点で、右側に赤い建物の 毘沙門天堂がある。
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その先に小公園の「京町公園」あるが、ここが、京町見附跡である。
「 見附とは、番所のようなもので、ここで桑名城と宿場に入る人を監視していた。
江戸時代の東海道は、ここで左折し、更に左折し、そして、右折するという
「鉤型」 になっていた。 」
鉤型の道はなくなっているので、毘沙門天堂まで戻り、曲がって、
よつや通りに入る。
吉津屋(よつや)町 には、仏壇屋が多い。
横断歩道の信号を押して向こう側へ渡ると、少し先の右側に、
桑名市勤労青少年ホームがある。
説明板 「吉津屋見附跡」
「 江戸時代の 「吉津屋見附」 があったところである。
吉津屋門があり、桑名藩士が詰める番所が置かれていたので、吉津屋見附と呼ばれた。
後に、鍛冶町 として独立したので、鍛冶門に変わった。 」
この先は、城下町や宿場町特有の 「鉤型」 になっているところである。
このあたりは鍛冶町で、勤労青少年ホーム前を右折し、その先で左折すると、
右側に、桑名名物の佃煮のしぐれを販売している 貝増商店 本店 があった。
「 桑名の名物の蛤を土産にと願う声が高まり誕生したのが、
蛤を溜まり醤油で煮て作った佃煮である。
「 桑名の殿様 しぐれで 茶々漬 」 と、民謡にも唄われるほどの人気ぶりだった。
東海道名所図会にも 「 初冬の頃美味なるゆえの時雨蛤の名あり、溜まりにて製す 」 とあるが、
時雨蛤 という風情ある名前は、芭蕉門下の各務至考の考案らしい。 」
その先の四差路を左へ曲がると民家の前に、「鍛冶町常夜燈跡」 の説明板があった。
説明板「鍛冶町常夜燈跡」
「 常夜燈は、七ッ橋近くにあり、天保四年(1833)、
江戸・名古屋・桑名二百四十一人の寄進で、建てられた多度神社の常夜燈である。
戦後の道路拡張で、七里の渡し跡に移した。 」
先程、七里の渡し場で見た常夜燈は、ここにあったものなのである。
七ッ橋は、埋められて、今はない。
このあたりは入江葭町である。
三つ目の道(大通りに出る手前の道)まで歩き、右折し、道を横断すると、新町に入る。
右側の教宗寺の先に、 泡洲崎八幡社があり、「 右 きやういせみち 左 ふなばみち 」 の道標が建っている。
道標は、天保十三年(1842)に、
「新町北端」 に建立されたものといい、真中で折れていたので、
折れた後、保存のため、ここに移設保管したのだろう。
「 桑名は、江戸時代以前は町屋川の流れにより、自凝(おのころ)洲崎 ・
加良(から)洲崎 ・ 泡(あわ)洲崎 の三洲に、分かれていた。
この付近は泡洲崎といわれ、 泡洲崎八幡社は、この地の鎮守社だったといわれる。 」
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東海道沿いのこの周辺には寺院が建ち並んでいる。
本多忠勝が築城の時、城の備えとして、寺院を配置したといわれる。
光明寺には、「円光大師遺跡」 の石碑が建ち、七里の渡しの海難事故で亡くなった旅人の供養塔がある。
道一つ向うの光徳寺には、万古焼創始者の沼山弄山や、
その後継者の加賀月華の墓がある。
その隣が光徳寺で、県道613号の反対側(東側)には法盛寺がある。
光徳寺の隣の十念寺前には、 「桑名藩義士森陣明翁墓所」 という、 馬鹿でかい石柱が建っている。
説明板
「 森陣明は、桑名藩主・松平定数の京都所司代在任中、
公用人として勤皇佐幕に心をくだき、
戊辰戦争では公に従い函館に立て篭もった。
敗れてのち、朝廷より反逆の首謀者を出せと藩へ命じられたので、
彼は自ら進んで全藩に代わって出頭し、東京江川の藩邸で死んだ。 」
寺の裏にある彼の墓には 「 うれしさよ つくすまことの あらわれて 君にかわれる 死出の旅立 」 という、彼の辞世の句碑が建っている。
右側の壽量寺を過ぎると、県道401号の大通りに出る。
右手に伝馬公園が見えるが、東海道は左斜めの道である。
左側に、長円寺、報恩寺があり、寺の高い塀に沿って進むと、
萓町交差点からきた、県道613号に合流した。
道の反対には日進小学校、日進幼稚園があるが、ここは 七曲見附 の跡である。
江戸時代には、ここに桑名城の七曲門があり、番所があったのである。
隣の顕本寺には、四日市代官・山田奉行などを務めた、水谷九左衛門光勝の墓がある。
東海道は、このあたりで、鉤型になっていた。
鉤型は残っていないので、右側を歩き、日進小学校前交差点に出たら、右折する。
東海道はここから矢田の火の見櫓まで直線の道である。
このあたりは東鍋屋町で、200m先の右奥にあるのは、天武天皇社である。
(注)天武天皇社の奥は伝馬公園で、県道421号には伝馬橋バス停がある。
天武天皇社の社殿は質素であるが、鬱蒼とした樹林に囲まれて深閑としていた。
「 天武天皇社は、壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が一時を過ごしたとされる場所に、
後年になって創建された神社である。
当初は、隣の旧本願寺村にあったが、天和年間(1681〜1684)にこの地に移された。
天武天皇・持統天皇と、天武天皇の第一皇子の高市皇子が祀られている。 」
(注) 壬申の乱
「 壬申の乱とは、西暦672年、天智天皇の弟・大海人皇子が、
近江朝を継いだ大友皇子に対し、反乱を起こした戦いである。
大海人皇子は、隠れていた吉野を出て、伊賀を通ってこの地に陣を置き、
伊勢や尾張の兵を集めて、美濃に進出して不破の地で全戰線の指揮をとった。
同行した妻の鵜野皇女(うののひめみこ)、後の持統天皇はこの地に留まり、
伊勢の勢力を固めたといわれる。
戦いに勝った大海人皇子は即位し、天武天皇となった。 」
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その先左側の広場に、ボルト締めになった、 「善光寺一分如来碑」 がある。
「 石碑には、「善光寺一分如来 世話人万屋吉兵衛」 と刻まれていて、寛政十二年(1800)の建立である。 」
その先の右側には 「 左 東海道渡船場道 」 「 右 西京伊勢道 」 と刻まれた、
明治二十年建立の道標がある。
道標の向かいに、珍しい名の神社 ・ 一目連神社がある。
一目連は神社の名前であるが、桑名の北の多度大社に同名の神社がある。
「
多度の一目連神社は多度大社の別宮で、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。
本宮の祭神・天津彦根神(雨乞いの神、風神、海神)の子で、製鉄、鍛冶や金属加工の神、
そして台風の神ともいわれる。
祭神の目一箇は片目という意味のようで、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、という説がある。
鋳物に従事する人達が多度大社に勧請して、一目連神社を建てたのだろう。 」
このあたりは鍋屋町(現在は東鍋屋町)で、鋳物に従事する人が多かったことから町名になったといわれる。
その先に、 「梵鐘」 を造る家があり、店のガラス越しに大小の鐘が置かれていた。
道を越えると西鍋屋町。
ここには明円寺と教覚寺があった。
東矢田町を過ぎると矢田町交差点で、国道1号線を越えてすすむと、西矢田町である。
右側に善西寺があった。
善西寺の先右側の鳥居は、 立坂神社 の鳥居である。
立坂神社は、県道421号を越えた先、ここから150m奥にある。
「 立坂神社は、桑名藩初代藩主・本多忠勝により創建された、矢田八幡宮が前身である。 」
このあたりは戦災を受けなかったので、古い連子格子の家も残っている。
突き当たりの三叉路の右側の黒壁の倉前には火の見櫓がある。
江戸時代の矢田町は東海道の立場であった。
久波奈(くわな)名所図会には、 「 比立場は食物自由のして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無きなし 」 とあり、桑名は物資が四方から集まる商業都市であったことがこの文からも分かる。
三叉路の左手に、三ッ矢橋バス停がある。
江戸時代にはこのあたりは 「八曲り」 といわれる鉤型になっていた。
「 ここは桑名宿の西の入口に当り、 西国の大名が通行する際には、
桑名藩の役人がここで出迎えて案内をした。
また、旅人を引き止めるため、客引小屋があった、という。 」
江戸時代の桑名宿はここで終わる。
小生の桑名探訪もここで終了とする。
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旅をした日 平成十九年(2007)一月十八日