津は三重県の県庁所在地である。
江戸時代は、藤堂藩三十二万石の城下町であった。
伊勢参宮街道の宿場町であったことから、
津宿は、伊勢音頭で、「 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ 」 と、謡われるほど伊勢参宮の人々で大いに賑わった。
伊勢街道の遺跡を辿り、津の町を歩いてみた。
近鉄江戸橋駅で降り、国道23号の三重大学前交叉点を右に入ると、三叉路がある。
三叉路の北に向う道が、伊勢参宮街道で、四百五十メートル程歩くと、
両宮常夜燈と道標がある。
「
ここには、名残松があり、両宮常夜燈と道標が残っている。
このあたりは、江戸時代、根上り村ともいわれたところである。
勢陽雑記には、 「 根尺七尺もありて、根のまたを人々がくぐり侍るほどありしが・・ 」 と、ある。
両宮常夜燈は、武蔵国の木綿業者が寄進したもので、高さ四メートル二十センチ、
天保十年(1839)巳亥の建立である。
道標には、「 左 上野白子神戸四日市 道 」、「 右 白塚豊津 道 」 とあり、
伊勢街道と巡礼道の追分であることを示している。 」
この付近は町屋町である。
松林が続く海辺の土地に、伊勢街道沿いに家並が増えた行き、町屋が増えたことから、
現在の地名が生まれたようである。
元来た道を戻りると、三叉路の 手前の左側に、小さな地蔵堂があり、柵の奥に、大きな常夜燈が建っている。
「
荒い彫りの山燈籠は二メートル八十センチで、
銘文に、「 両宮常夜燈 嘉永四年(1851)辛亥孟夏 五穀成就 津領 」 と、刻まれている。
これは、ながく続いた飢饉から一息ついた感謝の気持で建てたと伝わるものである。 」
道は銀行の先で、また、国道に合流したが、陸橋を渡り、国道の右側に出る。
三重大学のキャンバスが近いので、学生の姿が多く見かけるようになった。
国道を七百メートル歩くと、江戸橋北側の変則交差点で国道と別れて、
右斜めの道に入る。
その先にあるのは、木造の江戸橋である。
津宿の境にあったことから、江戸に向かう藩主の見送りもここまでということから、
江戸橋と命名された、という橋である。
江戸時代には、橋を渡ると、津宿であった。
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江戸橋の橋柱に、 「志登茂川」 と 「えどばし」 と書かれていた。
橋を渡ると、下り坂になり、右側に常夜燈がある交差点にでる。
ここは、 伊勢街道(参宮街道) と、 伊勢別街道 の追分(分岐点)である。
「
右側からの道が伊勢別街道で、東海道の関宿の二の鳥居で、
東海道と別れてきた道である。
伊勢街道は、伊勢別街道とここで合流し、伊勢神宮へ向かう。
ここは古くから交通の要衝であった。
江戸時代に入り、盛んになってきた伊勢神宮への参拝客は、
おかげ詣りの時には津の街道筋は、客であふれた、とある。
交差点手前の右側にある常夜燈は、江戸時代の 「伊勢参宮名所図会 江戸橋 」 には、
江戸橋西詰にあったように描かれている。
この燈籠は春日型燈籠で、安永六年(1777)に建立されたもので、
高さは五メートル四十センチもある大きなものである。 」
常夜燈の左下には、「 左 高田本山道 」 の道標がある。
高田本山とは、北へ二キロ半にある、真宗高田派本山専修寺のことである。
この後、伊勢街道に沿って、遺跡を辿って行く。
伊勢街道はこの交叉点で左折する。
交差点を左折すると、左に郵便局がある。
真宗高田派の託縁寺の先に、「 十一面、馬頭 観世音菩薩 入手山 大慈院」 の石柱があり、その先に屋根が傷んだお堂があった。
「
大慈院は、貞観年間(856〜876)の創建と伝えられる、真言宗御室派の一乗寺である。
明治に一時廃寺になったが、再興され、
昭和の初期は本尊の十一面観音を御参りする人が多かったようだが、今は寂れていた。 」
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道の反対には深正寺がある。 このあたりは大浜町。
街道を少し歩くと、右側に卯建の上がった商家で、「 味噌醤油醸造元 阿部喜兵衛商店 」 の看板の店がある。
江戸時代から、味噌、醤油の醸造販売を営んできた阿部家である。
軒先の説明板
「 主屋は間口七間半の切妻造りで、桟瓦葺きの大屋根の両袖に卯建を上げ、
軒先には雨除けの幕板、おおだれを付けている。
入口の二間と南側一間には荒格子を入れ、
その内側に板戸を上からおろして戸締まりする形式が残されている。
この建物は江戸時代後期の建築と推定され、
典型的な大店の商家建築として市内で唯一のものである。 」
その先の右側に、鳥居と小さな社殿があった。
鳥居の社名が朽ち落ちているので、確認できなかった。
「
小さな社殿は、式内小丹神社の拝殿である。
小丹神社は、江戸時代には江戸橋北詰にあったが、水害で度々移転し、
現在はこの西方にある兵丹池の近くにある。 」
その先右手に入った所に積善寺があるはずなので、右折したが、区画整理が行われた結果、様変わりしていて、位置も建物も変わっていた。
訪れた目的が、積善寺の道の反対側にある鶴之宮遺跡碑だったのであるが、
これはどこに行ったのかなくなっていた。
「
鶴之宮は、第二代藩主、藤堂高次が鶴を射止めて社殿としたところであるが、現在は小丹神社に合祀されている、という。 」
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津市の再開発事業が続いていて、道の右側は更地になり、
右手前方に十八階建てのビルが見える。
その建物はアクト津で、津駅前開発を象徴する建物である。
整備中の道路の左側にある建物は、どのくらい古いかは分からないが、
今回はなんとか残ったという感じである。
数百メートル歩くと、栄町3丁目で、津駅前交差点の隣の信号交差点を通りぬける。
右折すると津総合駅で、JR紀勢本線、伊勢鉄道と近鉄名古屋線の駅である。
左手の国道23号沿いには、銀行や保険会社の建物が建っている。
駅前の信号交差点を越えると、右角に寺があり、
そこを右折すると、「魚藍観音」 の赤い幟がひらめく寺院がある。
「聖徳太子厄除け祈願所」 とある真言宗御室派の馬宝山蓮光院初馬寺である。
重要文化財の大日如来と阿弥陀如来を安置している。
街道を進むと、左側にホテルルートインがある。
更に進むと、右手が小高くなっていて、その奥には三重県庁があるところに来た。
駅前から五百メートル位だろうか?
右側に連子格子、虫籠窓の家が残っていると聞いていたので、楽しみにしていたのだが、
右も左も駐車場になっていて、残っていないようである。
信号交差点を越えて進むと、右に一筋は行ったところに四天王寺がある。
門前には右側に、「塔世山」、左側に、「四天王寺」 の石柱が建っている。
門をくぐると、山門、そして、本堂と続く。
「 四天王寺は、聖徳太子ゆかりの古刹である。
寺記に 「 用明天皇の御字に聖徳太子物部守屋を討ちて四箇所の天王寺を創建せらる。
本寺はその一なり 」 とある寺である。
寺には、戦災を免れた、承保四年(1077)、仏師定朝により造られた薬師如来坐像や、
聖徳太子画像や藤堂高虎と夫人画像が所蔵されていて、
これらは国の重要文化財に指定されている。
山門は寛永十八年(1646)、津藩主二代目藤堂高次の時、
再建されたもので、幅三メートル八十センチ、奥行三メートル十センチの、
均整のとれた美しい門である。
本堂は、昭和二十年の戦災に遭い、その後に建てたものなので新しい。
」
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四天王寺の右側にある幼稚園は、戦災で焼けた伽藍の跡という。
その左側にある鐘楼の前には、小さなお堂 ・ 北向地蔵堂がある。
お堂の中には、北向地蔵尊と周りに沢山の石仏が祀られていた。
その先は安濃川。 伊勢街道はここで途切れる。
「
もとは塔世川と呼ばれ、当初は橋がなかったが、延宝二年(1675)に土橋が架けられた。
しかし、橋を渡るには、一度河原に下りて、行かねばならなかった。
木橋になったのは幕末のことである。 」
国道23号に出て、塔世橋を渡る。
国道を歩くと、万町交差点を過ぎたところに、
「津市北丸の内」 と書かれた歩道橋がある。
左の小路に入り、一筋目を右折して、南下する。 この道が伊勢街道である。
大きな道(県道561号)を横切り、南下すると、タイル張りの道にでる。
「 旧町名 立町 現町名 大門 」 の石柱が建っている。
ここを左折すると、正面に、「 Pure DAITATE 」 と書かれたアーケードが見える。
アーケードの中に入り、商店街を行く。
道脇に「旧町名 立町」 の石柱があり、立町の由来が書かれていた。
立町の由来
「 観音寺門前の町筋と直交して、
西隣りは京口御門まで通じる町筋であることから、立町と称した。
町の規模は小さいが、城下町の中心的市街を形成しており、芝原浄林を始め、
油屋善四郎などの豪商が住んでいた。 」
交差点の左側に、明治二十五年建立の参宮道標がある。
道標の左面に 「 右さんぐうみち 左こうのあみだ 」 、
右面に 「 すぐこうのあみだ 左さんぐう道 」 と刻まれている。
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指示された通り、歩いていくと、商店街に「旧町名 大門町」の石柱がある。
商店街を抜けると、正面に 「恵日山観音寺」 という標柱があり、
その奥に仁王門がある。
仁王門前にある説明板
「 恵日山観音寺は、真言宗の古刹で 日本3観音の一つである。
本尊は阿漕浦の漁夫の網にかかったといわれる聖観世音菩薩で、
奈良時代初め、和銅2年(709)の開山以来、全国の人々から海上安全、五穀豊穣、
所願成就の観音様として深く信仰を集めている。
将軍足利義教が三重塔を建立し、豊臣秀吉が出陣の際に祈願を怠らなかったのが津の観音寺で、津藩主藤堂高虎や徳川家康の側室清雲院お夏の方は、特に津観音に縁が深いと言われている。
元は阿漕津奥にあった寺だが、織田信包が領主の時に現在地に移され、
藤堂高虎を始め、藤堂家の祈願寺になった。
隆盛を極めた寺院だったが、昭和二十年七月の津大空襲により、
四十一棟あった堂宇は全て焼失し、現在の建物はその後の建築である。 」
前述の参宮道標に、 「こうのあみだ」 とあったが、
これは、 国府の阿弥陀如来 のことで、
こちらも拝まないと、片詣りといわれた。
仁王門の前には、「 国府阿弥陀如来縁起」 があった。
国府阿弥陀如来縁起
「
阿弥陀如来坐像は、大里窪田町の安養寺の本尊であったが、
終戦後安養寺の本堂が観音寺に移設されたために、同町の仲福寺に安置されていたものが再度、観音寺に保管が寄託されたものである。
寄木造、近年の修理で金箔が厚く塗られているが、
平安時代の定朝様の特色を随所に認めることができる。
台座は底面の墨書銘から、江戸時代初期の正保2年(1645)に作り直されたことがわかる。
現在は、観音寺本堂内の向かって、右側に安置されている。 」
仁王門をくぐると、観音堂があり、聖観世音菩薩と、国府阿弥陀如来が祀られている。
「
観音堂の前の銅燈籠は、寛永五年(1628)に、津藩主・藤堂高虎が寄進したもので、
高さ220cm、昭和20年の戦災の爆風で倒壊したが、修復されて昔の姿に戻されている。
観音堂の鉄製樋受は嘉永六年(1853)、手洗い場の銅製水盤は天保七年(1836)、銅鐘は元和三年(1617)の作である。 」
伊勢街道に戻り、先程の道標を右折して、旅を続ける。
ここからは、また、南に向かう。
アーケードの商店街が続き、「旧中之番町」 の石柱があった。
江戸時代、旧中之番町は、津宿の中心で、店舗や旅籠、問屋、本陣、脇本陣があった、という が、どこにあったかは表示されていなかった。
からくり時計があったが、当地をテーマにしたものではなかった。
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信号交差点を横切ると、「旧宿屋町」 の石柱がある。
石柱にある説明文
「 宿屋と書いて「しゃくや」と読むが、いずれにしても「旅館」の意味で、
中世の呼称がそのまま残ったと考えられる。
津城下における旅館業は、北町から地頭領町に至る参宮街道沿いに限って営業が許され、
最盛期には宿屋が約八十軒あった。 」
津城跡を訪問する。
ここを右折して、三重会館前交差点に出る。
交差点を越えると右側に津中央郵便局があるが、その反対側を左折する。
少し先の津商工会議所ビル前の広場には、「お城前公園」 の標石がある。
紺の 「藤堂高虎公入府四百年記念」 の幟があり、その奥にあるのは、
津城の二の丸跡に建つ、 模造の三重櫓である。
津城の歴史
「 津 の古称は 安濃津 で、伊勢平氏の支配したところで、
平安時代より伊勢国の政治経済の中心地であった。
津城は、戦国時代の永禄年間(1558〜1569)に、
細野藤敦が、安濃川と岩田川にはさまれた三角州に小さな城を築いたことに始まる。
信長の伊勢侵攻により、永禄十二年(1569)、織田信包が城郭を拡充し、
本丸、二の丸、三の丸を整備し、堀をめぐらせた。
天正五年(1577)には、五重の天守閣と小天守を建設している。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、東軍についた富田信高の軍は千三百人、
それに対し、西軍の毛利秀元・長宗我部盛親の軍は三万人で、
城は落城し、建物の大半は焼失した。
慶長十三年(1608)、藤堂高虎が伊勢・伊賀国を併せて、
二十二万石の大名として入城し、城を大改修し、輪郭式の城に変えた。
藤堂氏は、その後の加増により、三十二万三千石の大大名になり、伊勢街道を移して、
城下町を整備した。
伊勢神宮参拝の宿場町として、 「 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ 」 と、うたわれるまでになった。
津城は明治の廃藩置県で廃城になった。
今も残るのは、一部の石垣と本丸と西之丸のまわりの内堀のみである。 」
城内は公園になっていて、中に入ると高石垣がある。
これは、五層の天守閣があった本丸南西隅の一段と高い石垣である。
また、城内に祀られていた高山神社が移設して、残っている。
和風公園の中に、藤堂高虎の威風堂々とした銅像があったが、今でも津市民の誇りになっていることが窺われた。
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先程の交差点に戻り、伊勢街道を直進する。
右手にあるりそな、中京銀行の裏側を過ぎたところで右折し、
次の通りを左折し、岩田川に出た。
これが伊勢街道であるが、これらの城下町の縄張りも藤堂高虎が行ったのである。
「 岩田川に架かる橋は、もとは土橋だったが、のちに板橋となった。
藤堂高次が橋を架け替えた際、当時では珍しい銅製の擬宝珠が付けられ、
街道の名所の一つになった。 」
国道23号に出て、岩田橋を渡ると、岩田橋南詰交叉点で、伊予町バス停がある。
国道左側の歩道部分が、 江戸時代の伊勢街道である。
その先に左手に、 岩田山浄安寺があるが、まだ新しい建物である。
右手に津信用金庫が見えてくると、岩田交差点である。
伊勢街道は、交差点を渡ったらすぐ、左斜めの小道を入って行く。
道端に、 「旧町名立会町」 の石柱が建っていた。
道はここから先は、南東に進んでいくが、町並みから見ると斜めに横断する感じで、
途中広い道を見ながら進む。
県道114号に出ると、交差点の右手に倉本内科病院が見える。
道の反対に細い道が見えるので、県道を横断して、細い道を進む。
すると、幾つかの道が合わさる交差点に出る。
交差点の左側に、「南無地蔵菩薩」 と書いた赤い幟を立てた、
三体の石仏を祀った小さなお堂がある。
祀られているのは、延命子安地蔵尊 のようである。
その右側に閻魔堂がある。
正式名は真教寺であるが、
本尊が閻魔大王坐像なので、このように呼ばれているようである。
「
江戸時代には、このあたりが津のはずれで、角町の守護として、
津藩第二代藩主・藤堂高次がこの寺を建立した。
堂中央にある閻魔王座像は、天和弐年(1682)の作で、高さ約二メートル。
両脇に倶生神半跏像と暗黒童子半跏像が祀られている。
この周辺は、江戸時代には 「えんま前」 と呼ばれ、
旅人・人足・馬などの休息場の立場になっていて、蕎麦屋や茶店が出来て賑わった、といわれる。 」
閻魔堂の右側に、「市杵島姫神社」 の石柱が建っていたので、中に入っていった。
境内には、文化十年(1813)に、阿漕町産子中 が寄進した常夜燈が建っていた。
説明板
「 市杵島姫神社は太古は庚申塚であった。
市杵島姫命は、伊勢国司だった北畠氏の守護神として、
北畠氏の滅亡まで多気の城内に鎮座されていたが、その後、当地の産土神になった。 」
御神木のイチョウは、樹齢四百年とも五百年ともいわれる。
この神社の呼び名の 弁財天 に習い、上弁財町・下上弁財町の町名ができた、という。
伊勢街道の津宿跡巡りはここで終えることにする。
空襲などで、街並みは変わってしまったが、歴史の片鱗を感じながら、
楽しく歩くことが出来た。
この後、近くのバス停からバスに乗り、近鉄津駅から帰宅した。
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旅をした日 平成二十一年(2009)二月十八日