長岡天満宮は、桓武天皇が平城京から平安京へ移すまで、長岡京の都になった地にあり、菅原道真を御祭神にしている神社である。
菅原道真は、在原業平と、当地でしばしば遊んで、詩歌管弦を楽しんだといわれる。
太宰府に左遷された時、当地に寄り、「我が魂、長く当地に留まるべし!!」 と、名残りを
惜しまれたことから、縁者により、公の木像を彫ったのが、当社の始まりである。
長岡天満宮は、阪急電車京都線長岡天神駅で降りる。
駅の南西四百メートルのところに、長岡天満宮がある。
長岡天神駅の南にある踏切の道が天神通りで、
右側に 「天満宮」 と書かれた常夜燈がある。
この通りを進むと、長岡天満宮前交叉点に出た。
左右の道は県道10号で、正面に 「長岡天満宮」 の看板があり、 階段の上に大きな鳥居がある。
階段を上ると、参道が三つあり、参道の左右にあるのは、 八条ヶ池 である。
説明板「八条ヶ池」
「 長岡天満宮の東側に南北に細長くのびるこの池は、
八条宮智仁親王にちなんだものです。
神社の由来書によると、江戸時代に当地一帯を領した親王が、
寛永十五年(1638)に境内の東側に池を開き、
翌年境内周辺に堀を掘ったといわれています。
以来、今日まで、農業用の溜め池として利水されてきました。
池のほぼ中央にのびる中堤には、
樹齢170年のきりしまつつじが参道の両側に植えられています。
このきりしまつつじを守るために、平成三年より中堤の整備工事が行われました。
きりしまつつじ 市指定 天然記念物
以下、きりしまつつじの説明があるが、省略する。 」
左の参道からの八条ヶ池の左手に点在する建物は錦水亭である。
中堤の先には、三つの太鼓橋が架かっている。
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太鼓橋を渡ると、天満宮の境内である。
参道を進むと、「古今伝授の間ゆかりの地」 の碑と、「温故知新」 の碑、
そして、「開田御茶屋から古今伝授の間」 という説明板が建っていた。
説明板「開田御茶屋から古今伝授の間」
「 慶長五年(1600)、八条宮家(のちに桂宮家と改称)の初代・智仁親王は、
細川幽斉(藤孝)から古今和歌集の解説に関する奥義の伝承を京都の自邸で受けました。 二代・智忠親王は、父の智仁親王が古今伝授をうけた建物を八条宮家の領地が
あった開田村の開田天満宮(のちの長岡天満宮)境内に移築します。
幽斉の居城勝龍寺城があった長岡の地に移されたこの建物は、
以後、「開田御茶屋」とよばれ、大切に伝えられてきました。
明治維新を迎え、開田村が桂家の領地でなくなると、
明治四年(1871)に開田御茶屋は解体され、ゆかりのある細川家に引き取られます。
そして、大正元年(1912)、茅葺屋根に変わり、熊本の水前寺成趣園に、
「古今伝授の間」として再建されました。
平成二十一年(2009)から翌年にかけて行われた古今伝授の間の解体修理では、
柱・欄間・花頭窓といった部材や間取りなどが、
長岡天満宮時代のものを受け継いていることが確認されています。
幽斉と智仁親王を結ぶ開田御茶屋が、
今もなお古今伝授の間として伝えられていることを受け、
「住みつづけたみどりと歴史のまち」 を実現するため、
長岡京市制施行四十周年記念の年に、ゆかりのある地であるここ長岡天満宮に、
この石碑を建立いたします。
平成二十四年十一月五日 長岡京市 」
上記の古今伝授の間は、日本100名城で熊本城を訪れた時、
水前寺公園にも、
足を伸ばし、見学してきた。
参道はその先で、左に左折し、左に常夜燈がある。
その先に鳥居があり、くぐって進むと、右側に鳥居の壊れたものが置かれている。
説明板「ニの鳥居」
「 長岡天満宮のニの鳥居は、平成30年(2018)9月近畿地方に、
甚大な被害をもたらした台風21号による倒木が、その笠木を直撃し、
倒壊しました。
補修も検討しましたが、技術的に困難と判断し、
このたび形を変えて残す事と致しました。
この倒壊した鳥居は、霊元天皇(第112代天皇、御在位寛文3年〜貞享4年)が、
上皇になられてからの元禄5年(1692)に、
当天満宮に寄進された二基のうちの一基であります。
因みに天明6年(1786)に刊行された「再板郡名所図会」に、
「洛西長岡天満宮」が紹介されており、寄進された二基の鳥居が描かれています。
なお、「一の鳥居」は、現在、府道柳谷道からの参道(山の道、長岡禅塾横)に
移設されています。 」
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ニの鳥居跡で右折して進むと、左に 「 献 清廉潔白 至誠一貫 」、
右に 「 献 文道大祖 風月本主 」 の大きな石柱が建っていて、
その先に石段が続いている。
石段を上ると、大きな鳥居があった。
その先は平らな土地になっていて、右手に駐車場があった。
「 長岡天満宮の社地は、菅原道真の所領であったとされ、
在原業平らと共に、しばしば訪れ、詩歌管弦を楽しんだところと伝わる。
昌泰四年(901)、道真が太宰府へ左遷された時、当地に立ち寄り、
「 わが魂長くこの地にとどまるべし 」 と、名残りを惜しんだ。
菅原氏の一族とされる中小路宗則は、高槻まで付き従い、
別れた時に道真から自作の木像と念寺仏を託され、道真の死後、木像を祀ったのが、
当天満宮の創立とされる。
爾来、皇室の崇敬篤く、度々の寄進造営を受けた。
その後、荒廃していたが、明治に入り、中興の祖・中小路宗城が復興させた。
息子の宗康は、昭和16年に平安神宮の旧本殿、祝詞舎、透垣を拝領し、
現在の境内が完成する。 」
現在に本殿は、昭和十六年(1941)に、
京都の平安神宮の社殿を拝領移築したものである。
境内には、中小路宗城の像があった。
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天明六年(1786) の刊行の 「都名所図会」 に、長岡八幡宮が紹介されている。
説明文
「 慶長六年(1601)、ここ旧開田村は、
八条宮家初代智仁親王の代に宮家の領地になり、社観の整備が進められます。
開田天満宮はやがて長岡天満宮とよばれ、
洛西きっての名勝として広く知られるようになりました。
よって、築造された大池 (現在の八条ヶ池) に面して建ち並ぶ、
江戸時代中期の 「歌仙御茶屋」(開田御茶屋) のようすをうかがうことができます。 」
神社の敷地は現在も二万余坪あり、 庭園「錦景苑」 は紅葉庭園とも呼ばれる。
期間限定で、夜間ライトアップさせるという。
訪れた時は紅葉シーズンで、境内の楓が錦模様になっていた。
帰りの参道からは八条ヶ池に架けられた水上橋を歩くことができる。
中国の西湖に浮かぶ島「三譚印月(さんたんいんげつ)」の廻廊をモチーフにしたものである。
以上で、長岡天満宮の参拝は終了した。
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訪問日 令和四年(2022)十一月十七日