JR向日市駅から、旧西国街道(府道207号線)に沿って歩いて、見て廻ることにした。
西国地下歩道をくぐると、向日市寺戸町瓜生である。
修理式・瓜生交叉点で左折して、
府道207号を線路に沿って南下する。
左に小公園があったので、トイレのついでに顔を洗い、タオルに水を含ませて首に巻いた。
少しいくと、左側にJR向日町駅がある。
駅前の薬屋の前に、 「 浄土門根元地粟生光明寺道 」 の大きな道標が建っていた。
向日町駅前で、道は左に大きくカーブする。
その先信号交叉点があり、左側の寺戸川の橋のたもとに
「 愛称西国街道 」 という標識があった。
阪急京都線の踏切の手前の右側に愛宕山常夜燈が建っていた。
踏切を渡ると、右手に阪急京都線の東向日駅が見える。
西国街道はこの三叉路を左(直進)である。
道の右角に大きな太神宮常夜燈がある。
これは、天保十三年(1842)に、築榊講 という伊勢講の人たちが建てたものである。
ここにはバスを誘導する警備員が立っているが、向日競輪と関係があるのだろうか?
西国街道は三叉路で、府道と別れ、左側の車両一方通行の狭い道に入る。
三叉路の中央には、「 右 さんご寺 西山上人御廟道 」 と書かれた道標が建っていた。
この道は、昔ながらの街道情緒が残る道で、
石畳にカラー舗装と街道であることが分かるように工夫されていた。
その先の交差点の右側にはセブンイレブンがあるが、 ここは大原野へ至る道(府道207号大原野道)と交わるところで、 道の角に四本の道標が建っている。
右端の道標は、大正九年に建立されたもので、
「 官幣中社大原野神社 右へ一里 」 と刻まれている。
その隣から順に、
「 淳和天皇 桓武天皇皇后 御陵 」、「 左 ほうぼだい院観世音 」 、
「 右 灰方伺地蔵 」 の道標がある。
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ここは向日市寺戸町梅ノ木で、
市が作った寺戸町梅ノ木の道標には、
「 昔、この辺り一帯が梅林であったため、この地名が付いた。
地元に伝わるご詠歌にも、 「 ありがたや だいいちさまの おすがたが うめのこがげにおわします 」 」 とあった。
梅ノ木道標のすぐ先の左側には長屋門の家があったが、 この先にも古い家が一部残っていた。
道をすすむと、左側に文化十二年(1815)建立の愛宕山常夜燈などが祀られていた。
その先には地蔵尊が祀られていて、野辺地区に入ると右側に西山高校、
左に入ったところに、野辺坂児童公園がある。
西山高校を過ぎると、右側に石仏が祀られているところがあり、
道の角に愛宕大権現の常夜燈がある。
この愛宕山常夜燈は大正十二年に建てられたものである。
西山高校の東側の住宅街を南西へ進んでいる訳だが、
小高い地形のため、こののあたりから上り坂になった。
その先の信号交叉点を右折すると、突き当たりは京都向日町競輪場である。
西国街道は交叉点を越え、狭い一方通行の道を南西に進むが、
交叉点に入ってすぐの右側に西国街道の道標が建っていた。
自動販売機で、清涼飲料水を一本買った。
その近くに市が建てた 「 寺戸町東ノ段 」 の道標がある。
道標の文面
「 この付近は小高い地形になっており、段をなしているように見えたのでしょう。
西国街道を中心に、東側を東ノ段、西側を西ノ段と呼び習わし、地名として定着した。 」
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この東ノ段と呼ばれる上り坂の左側にあるのが安永五年(1776)建立の愛宕山常夜燈である。
梅ノ木からここまでの短い区間に、愛宕山常夜燈が三基あった訳で、
愛宕山の火防信仰の強かったことを感じた。
上りが急になったが、このあたりには右に屋根に煙出しのある白漆喰に家、
左に蔵のある虫籠模様の白漆喰の連子格子の家などがあった。
上りきると、府道67号線(西京高槻線)と合流した。
この交叉点の右角には、向日町道路元標が残っていた。
交叉点の対面にあるのは、京都府指定文化財の須田家住宅である。
「 須田家は、屋号を松葉屋といい、明治三十年代まで醤油の製造販売をしていた家で、 現在も残る建物は堂々とした建物なので、内部を見たかったが、非公開だった。 」
家の角に、平成九年に建てられた 「 江戸期古道名 」 と書かれた石碑があった。
「 石碑には、
「 右・西国街道 中・あたごみち 左・たんばみち 」 と、刻まれていた。
ここは昔からの交通の要所で、
西国街道が、愛宕へ至る物集女(もずめ)街道(府道西京高槻線)と、
丹波道とに別れる追分だったのである。 」
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西国街道は府道67号を南に向って歩いていく。
アーチに「向日町商店街」とあったが、アーチをくぐると、
街灯には「アストロ通り」と書かれていた。
江戸時代にはこのあたりに多くの旅籠があったようで、
日本地図を作った伊能忠敬もこの宿場に泊ったようである。
右側の京都銀行の先の三叉路の左側角に、
「 → 向日神社 元稲荷古墳 ← 長岡大極殿跡 」 の道標があった。
道の右側には向日神社の標柱と大きな鳥居があり、奥に向かって参道が伸びていた。
鳥居の左方には石柵で囲まれた一角があり、「 説法石之由来碑 」 と書かれた石柱が、
建っている。
石柱には 「 徳治二年五月、日像上人が此の石の上で法華経を詠み、説法をせしところ 」
、とある。
石の囲いの中の大きな岩が説法石だが、これについては以下のいわれがある。
「
日像上人は、日蓮宗の開祖・日蓮の孫弟子にあたる人物で、
今からおよそ六百九十年前の鎌倉時代の末期に、
日蓮宗を都で広めようと辻説法を行っていたが、天台宗の妨害に遭い、都を追われたが、
向日神社に立ち寄ったところ、二羽の白いハトが飛んできて、
日像の衣のすそをくわえて離さなかった。
これを契機に、当地で説法を始め、信者を増やしていったという。
説法石は、当初は参道の中程にあったが、廃仏希釈の際、取り外され、
後日、現在の場所に鎮座された。 」
向日神社の参道は、長くだらだらとした上り坂の石畳の道であるが、
途中に勝山稲荷神社があった。
黙々上っていくと、向日神社の拝殿が見えてきて、その奥に本殿があった。
向日神社は、向日大神とも呼ばれる、地元の鎮守である。
神社の歴史は古く、延喜式に記載された向神社(上ノ社)と火雷神社(下ノ社)が、
合併したものである。
向日神社の由緒書
「 社伝によると、創始は養老二年(718)である。
当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、
延喜式においては山城国乙訓郡向神社と称され、 後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して、
今日に至っている。
両社は、同じ向日山に鎮座されたので、 向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
当社の創立は、大歳神の御子・御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、
この地に永く鎮座して、 御田作りを奨励されたのに始まる。
向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。 」
本殿は応永二十五年(1418)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。
東京の明治神宮の本殿は、この本殿をモデルとしたとされ、当社本殿の1.5倍の大きさである。
当社が建つ丘陵は名神高速道路建設の採土になったため、山が削られ、
向日神社と元稲荷古墳の周辺を残すのみになった。
街道に戻る。
道標にある 「長岡大極殿跡」 が気になっていたので、道標の指示した方に下って行く。
突き当たりの小公園を右折すると、住宅地の中に、ひっそりとした小公園があり、
これが長岡京の大極殿跡だった。
「
長岡京は、平安京ができる前の延暦三年(784)から十三年まで、奈良の平城京から移された都があったところである。
小生が訪れた時はなにもなかったが、今は「史跡長岡宮跡」の黒い石碑と「大極殿公園」の石碑
が建っている。
道路で南北に分けられた公園には、南側に大極殿、
北側に小極殿が整備・復元されているようである。 」
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街道に戻り、西国街道の旅を再開する。
向日神社の先の「向日町商店街」とあるアーチのあるところは五辻交叉点で、
その名の通り、五叉路になっている。
府道67号は右にカーブしていくが、西国街道は直進(左斜めの道)する。
狭い道を進むと、道の左側に石塔寺がある。
説明板
「 この寺は、鎌倉時代末期、日像上人が向日神社前にある法華題目の石塔婆の傍らに、
お堂を建て、石塔寺と称したのが創建と、伝えられている。
毎年、五月三日の花まつりには、鶏冠井(かいで)題目踊りが奉納される。
石塔寺で行われる鶏冠井題目踊は、京都府指定無形民俗文化財である。 」
電柱には、 「 愛称 西国街道 」 と、書かれた道路上にある標識があるので、
この道が西国街道であることが確認できた。
この辺りからゆるい下り坂になるが、その先の三叉路の左側に赤い祠がある。
祠に祀られているのは鈴吉大明神である。
この坂は島坂と呼ぶれる坂である。
紀貫之は、土佐日記で、帰京時にここに立ち寄り、
「 島坂にて、ひと饗(あるじ)したり 」 と書いている。
紀貫之は、山崎までは船で来て、山崎で京からの迎えを待って、
陸路で京に向かっている。 」
この坂を下りきったところの左側に、大正十三年建立の愛宕大神と刻まれた常夜燈があった。
周囲には工事用の材木が置かれて、雑然としていた。
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道なりに進むと、右からの府道67号と合流するが、目の前に阪急京都線のガードがある。
西国街道は、ガードをくぐったところに信号があり、道を横断すると右斜めの小道があるので、その道をいく。
小さな川に架かる橋の欄干には右側に 「西国街道」、左側に「小井川」 と書かれている。
橋を渡るとアスファルト舗装ではなく、ブロックで敷き詰められた舗装に変わった。
右側の電柱の脇には、 「 上植野町上植野町下川原 」 の標柱がある。
標柱の文面
「 言い伝えによれば、豊臣秀吉が小畑川の流路を西に移し、
道路を拡張整備すると同時に堤防を築いた。
この時出来た広い河川敷が、後世、農地化、宅地化され、それが地名に残ったとされている。 」
その傍には 「 愛宕御神前 正徳五年(1715) 」 と、書かれた常夜燈が建っていた。
右側に黒板塀に犬矢来、長屋門、そして、
連子格子で白漆喰壁に虫籠窓という家があり、庭木も立派である。
その先の右側に 「 喫茶中小路家住宅 」 という看板を出していたので、
中を覗くと、これまた、立派な古い家だった。
現在の主屋は、弘化五年(1848)に建てられたものである。
「 中小路家の先祖は、菅原道真の一族で、太宰府へ左遷される道真に従ったのち、京へ戻り、 道真を祀る天満宮を、現在の長岡京市開田に造立したと伝えられ、 室町時代から戦国時代にかけては、乙訓西岡の土豪として活躍し、 本拠として開田城を築いた人の末裔といい、幕末には聖護院門跡領の庄屋を務めていた。 」
その先左側、白漆喰の虫籠窓の家も味わい深い。
この集落の道はそれほど長くはなかったが、古い家が多くて旧街道の情緒があった。
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集落が終わると府道203号、左からは府道67号が合流する一文橋交叉点に出た。
交叉点の右側を渡ると、木立の下に「西国街道」の石碑があったので、
西国街道を歩いていることが確認できた。
府道67号に入ると、小畑川に架かる橋の手前に、
大きな一文銭がのった石の下に、「一文橋」の標示がある。
その手前に一文橋の由来碑が建っていた。
由来碑文面
「
京と摂津西宮を結ぶ西国街道にかかるこの橋は、室町時代ごろに造られた、
有料の橋とも伝えられる。
大雨のたびに橋が流され、その架け替え費用のため、
通行人から一文を取り始めたのが、橋名の由来といわれる。 」
小畑川を渡ると、向日市から長岡京市になった。
太陽がじりじり照りつけるのには閉口する。
暑さにたまらなくなったので、小畑川に下りて、水面にタオルを浸して、
頭や首そして手を拭いたが、
手には知らない内に汗が乾いて塩分に変わっていたことを知った。
もう一度、タオルを川に付けて、濡れたタオルを首に付けて、街道に戻った。
一文橋から馬場一丁目までは府道67号線は小畑川の堤防上の道を進む。
ここには「西国街道」 の道路表示があった。
府道67号線の堤防道の下、右側に細い道があったので、
歩いていくと、新しそうなお地蔵さんが祀られていた。
その先で再び、府道67号線に合流したが、
左側に 「手打ちうどん そば 九十九 」 という看板の店があったので、
そこに入り和風冷麺を注文し、しばしの休憩と昼食をとった。
冷房が利いていて、トイレでタオルを濡らしたので、この先、頑張れるような気がした。
食事を終え、街道に戻ると馬場一丁目の交叉点に出た。
交叉点の右側には「弓場街道」の標識があった。
交叉点の向うにローソンがあったが、これは最近出来たように思われる。
ローソンの先左側にある駐車場の入口に、
「西国街道」の道標があり、 「 右 一文橋 京 」
、 「 左 調子八角 山崎道 」 とあった。
西国街道はここで府道67号とわかれ、左の細い道に入る。
ここには西国街道の説明板があった。
「 西国街道は京都の東寺を起点として摂津の西宮に通じる江戸時代の幹線道路です。
この街道は豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して拡張整備したことから、
秀吉が作った道として知られ、江戸時代には西国街道ではなく、
唐道、唐海道 と絵図や古文書に書かれています。
東寺口から西へ桂川をわたって久世、向町、神足を経て山崎へ至る街道は、
乙訓地域に住む私たちにとってなじみ深い道です。
神足は東寺口から出発して二里(約8キロ)目にあり、一里ごとに置く一里塚があり、
旅人の目印になっていました。
また、江戸時代の初めには街道沿いに永井直清氏が、神足館(勝竜寺城)を十六年間構えており、
当時の絵図には武家屋敷とともに京口、茶屋口が描かれています。 」
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西国街道の狭い道は、府道67号線のすぐ東側に平行していて、
最近作られたと思える二色の淡いタイルのようなもので舗装されていた。
右側に民家の一角に、上ノ町 蛭児(えびす)社がある。
日本書紀では、 「 イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれたのが、
意にそわない蛭児(ヒルコ)だったので、葦船にのせて流した。 」 とある。
それがエビス神として戻ってきたという話は、西宮神社で知ることになるが・・・
そのまま南下すると、神足(こうたり)商店街の表示が見えてきた。
左側の鈴木病院駐車場の先には、千本格子に白漆喰、虫籠窓、
煙出しのある古い造りの家があった。
右側に地蔵堂があったが、少し歩くと天神通り(府道210号)に出た。
交叉点の左上には「西国街道」の道路標識があり
、右側のCOCACOLAの自動販売機前の石柱に、
「犬の小便厳禁」 という板が下げられていたが、
犬は読めないので、飼い主のモラルは低いなあと思った。
このあたりは再開発で整備され、風景が変わってしまっているところで、
左手にJR長岡京市駅が見え、
対面の右側にアルモンドビル、左側にバンビオ2番館という大きなビルが建っている。
交叉点の右角と対面の道角の二ヵ所に、新しい大きな道標が建っている。
「 道標には、「 長岡京 延暦三年至る延暦十三年 桓武天皇王城ノ地ナリ 」 、 「 西国街道 右一文橋 左 調子八角 山崎 」 と、書かれていた。
向日市の散歩は、ここで終了で、JR長岡京駅に向った。
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訪問日 平成二十二年八月二十九日