勝龍寺城は、明智光秀の娘・たま(のちの細川ガルシャ)が幸せな新婚生活を過ごし、
本能寺の変の後、羽柴秀吉との「山崎の戦い」に敗れた光秀が
最後の夜を過ごした城である。
最近の研究により、天主の存在が確認され、
安土城に先行する「瓦・石垣・天主」を備えた、
先進的な城であったことが明らかになった。
恵解山古墳は、五世紀前半に築かれた前方後円墳で、
国の史跡に指定されている。
◎ 勝竜寺土塁と空掘 神足神社
JR長岡京駅西口から南下すると、
左側に 「式内神足神社」 の木柱と、「← ようこそ! ここが勝龍寺城の入口
勝龍寺城土塁・空掘跡」 の看板がある。
中に入ると右側に勝龍寺城の土塁と空掘が復元されている。
説明板「土塁の構造」
「 土塁は側面を急斜面にすることで、城内から攻めようとする敵が、
容易によじ登れないように造られています。
発掘調査の成果から、土塁頂部の幅3.4m、裾部の幅約7.5m、高さ約6m
であったことがわかっています。
また、土塁の断面を観察すると、黒い土と黄色い土が交互に積み上げられた下層と、
黄色い礫層(れきそう)を厚く積み上げた上層に分けられます。
そのため、空掘を掘って出る土を数回に分けて、
計画的に積み上げていることがわかります。
なお、交互に積み上げた土塁の様子をブロック積で表現しています。
平成27年3月 長岡京市 」
土塁の前には、 「西国街道とガルシャゆかりの地をゆく」 の説明板がある。
説明板
「 歴史・文化
戦国大名細川氏の居城で、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガルシャ)が嫁いだ
勝龍寺城跡や京都と大阪を結ぶ西国街道は古くから交通の要衝として栄え、
数々の歴史文化を残されています。
ルート
@JR長岡京駅西口 → A神足ふれあい町屋 → B伝与市兵衛の墓 → C恵解山古墳 →
D中山修一記念館 →E勝龍寺→ F勝竜寺城公園→ G神足神社・勝龍寺城土塁跡→
HJR長岡京駅東口
G 神足神社 ・ 勝竜寺城土塁跡
延暦15年(796) 創建と伝えられる古社。
第55代文徳天皇の斉衛元年(854)には、国の官社にあげられています。
また、勝龍寺城土塁跡の一部を公園として整備しました。 」
土塁に入ると、空掘が見えた。
説明板「土塁下層の堀」
「 発掘調査により、現存する土塁の下から東西方向の堀がみつかりました。
その堀は、幅約4.5m、深さ1.5mの大きさで、断面が逆台形のいわゆる箱堀です。
埋土の状況から南北方向の土塁をつくる直前まで機能していたことが
わかっています。
堀の位置や方向は、現存する空掘にも踏襲されているようです。
この堀は、細川藤孝以前に当地を拠点とした土豪神足氏の城館の可能性が高いと、
考えられます。
平成27年3月 長岡京市 」
土塁跡の奥に進むと、神足神社の社殿が左側にあったので、お参りをした。
説明板「神足神社」
「 旧神足村の産土神。 式内社で、「延喜式」 に載る 乙訓十九座の一つで、
「神足神社」 とみえる。
また、文徳天皇の斉衛元年(854) に、国の官社にあげられている。
祭神は、 舎人親王(天武天皇の子) であるといわれている。
当社には、「桓武天皇の夢」 として、次のような伝説が残っている。
田村(神足村の旧名)の池に、天から神が降り立ち、
宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。
天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた。
以後、この社は、「神足神社」 と、田村は 「神足村」 と呼ばれるようになった、
と言われている。
長岡市京市観光協会 (社)京都府観光連盟 」
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◎ 勝龍寺城跡
東神足交叉点に戻り、今度は南に向うと、
神足郵便局の先の右側に、勝龍寺城の水堀が見えてきた。
水堀の先で、右折する角に、案内板があった。
案内板
「 乙訓景観十景
令和元年京都府地域交響プロジェクトおよび京都市西京区地域力サポート事業として、
旧乙訓郡域の後世代に継続して残したい自然景観歴史的文化景観、
ならびに生態景観からなる乙訓景観十景を選定しました。
今後ともこの地域の誇りとする景観の保全と活用を期待します。
勝竜寺城公園
織田信長の命により、細川氏の勝龍寺城に嫁いだ細川ガルシャ。
歴史とロマンが詰まった勝竜寺城公園は四季折々の姿をみせる美しい公園として
多くの人に愛されています。
令和元年十二月 乙訓地名詩編纂チーム乙訓 長岡京市公園緑地課 」
その先の城への入口には、「明智光秀公三女玉お輿入れの城」の石柱があり、 その隣に「勝龍寺城跡」の説明板がある。
説明板「勝龍寺城跡」
「 勝龍寺城は、京都盆地の南西部に位置し、西国街道と久我畷の陸上交通を抑え、
淀川水系にもほど近い、交通の要衝に立地します。
文明二年(1470) 西軍畠山義就が勝龍寺を陣城としたように、
応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が、
たびたび臨時的な砦として利用されるようになり、
次第に恒常的な城郭として整備されたようです。
元亀二年(1571)には、織田信長の意向を受け、
細川藤孝によって大きく改造されました。
藤孝在城期の勝龍寺城は、
西岡の有力国人神足氏の神足城(神足神社付近)を取り込むかたちで築かれました。
小畑川・犬川に挟まれた神足・勝竜寺の集落を含む、
いわゆる惣構の城郭として評価されています。
昭和63年(1988)の発掘調査によって、主郭部で石垣が築造されていたこと、
建物の多くに礎石が用いられていたこと、瓦葺きであったことが判明し、
その後の城郭の基準となる諸要素を備えた、
先駆的な城郭の一つとして注目されています。
天正二年(1574)、藤孝は、天守と思われる建物で、
三条西実澄(のちの実枝)から古今伝授の切紙を受け、
同6年(1578)には藤孝の子息・忠興と明智光秀の娘玉(細川ガルシヤ)の婚礼が
、獲り行われるなど、文化的な交流の場ともなっています。
同10年(1582) 羽柴秀吉との山崎合戦で退却した明智光秀が、
最後に籠った城として知られています。
令和元年(2019)11月 長岡京市 」
その右手の地面には「日本の歴史公園百選」の石碑があり、
勝竜寺城公園は平成十九年に選ばれたとあった。
橋を渡り、中に入って行くと、左に曲がる枡形になっていた。
右側に「本丸跡」の説明板があった。
「 元亀二年(1571)、織田信長の命を受けた細川藤考は、
それまであった勝龍寺城を、京都防衛の軍事拠点として、大規模に改修しました。
昭和63年(1988)の発掘調査で、「瓦・礎石建物(殿主)・石垣」 という当時の
最新技術を取り入れた城であったことが判明しました。
本丸は東西約120m、南北約80mの長方形で、周囲は高さ4〜5mの土塁で囲まれ、
外側には堀巡らせています。
堀は幅10m〜15m・深さ約3mで、本丸側の堀裾には石垣を築いていました。
石垣の下には、沈み込みを防ぐ木の土台が据えられていました。
石垣の築造には自然石のほか、石仏や五輪塔なども使われていました。
瓦も大量に出土し、軒丸瓦・軒平瓦の一部は、明智光秀の坂本城(滋賀県大津市)や
佐々成政の小丸城(福井県越前市)の瓦と同じ木型で作られた可能性が高いものでした。
これは織田家の家臣の城に支配した瓦造り工人が派遣されたことによるとみられます。
令和元年11月 長岡京市 」
枡形の正面には古い石垣の上に多聞櫓が築かれ、
その前に「勝竜寺城公園」 の石碑が建っていた。
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左側の石段を上り、門をくぐって中に入る。
平成四年(1992)に、本丸および沼田丸跡が、勝竜寺城公園として整備され、
模擬櫓などが建造された。
その先には、模擬櫓の二階建て管理棟がある。
令和元年(2019)に展示室や園内看板が一新された。
中に入ると、瓦や一石五輪塔などの出土遺物を展示され、勝龍寺城は
「瓦・石垣・天主」を備えた近世城郭の原点として、紹介されていた。
「 城郭での本格的な瓦や石垣の使用は、 天正四年(1576)の安土城築城が画期となると考えられてきたが、 発掘調査の結果、勝龍寺城でもすでに使用されていたことが確認された。 」
本丸跡は日本庭園になっていて、その中に細川忠興・玉(ガルシャ)像があった。
天正六年(1578)、明智光秀の娘たま(玉、のちの細川ガルシャ)は、
織田信長のすすめにより、勝龍寺城主・細川藤孝(幽斉)の嫡男・忠興(三斉)のもとに
輿入れした。 婚礼は勝龍寺城で挙げられ、幸せな新婚生活を送りました。
桜が紅葉して素晴らしい佇まいの中に、「東辺土塁の石垣と井戸」の説明板がある。
説明板
「 本丸東辺土塁の中央部では、内側斜面に築かれた石垣が見つかっています。
このほかに、土塁上では幅約四メートルの二列の石垣が確認されました。
この石垣は北東の隅櫓につながる長屋風の建物の基礎構造である可能性が考えられます。
斜面の一部は内側に張出し、ここには井戸が作られていました。
また、土塁の裾部付近には、南北に並ぶ小型の礎石列が見つかっています。 」
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この北東には復元された隅櫓があった。
説明板「北東隅櫓の石垣と階段」
「 本丸の北東隅櫓では、石垣で補強された高さ四メートルの土塁が見つかっています。
石垣は、七段の階段になっており、階段を上がると、少し西に回り込んで、
土塁の頂上まで行けるようになっていました。
頂上には約四メートル四の平坦部があり、
ここは城の外を監視・攻撃するための櫓が存在したようです。 」
ここから見た紅葉はきれいだった。
下に降りて進むと、北の入口の脇に石造物が並べられている。
説明板「勝龍寺城の石造物」
「 勝龍寺城からは、石垣などに転用された、
信仰に関連する石造物が数多く見つかっています。
このような例は他の城にも見られ、石材不足を補うため、
または城を守護するためと、言われています。
出土した石造物は五輪塔や一石五輪塔、宝きょう印塔、層塔、板碑、
石仏などがあります。
石仏の大半は大日如来とみられ、地蔵菩薩も確認されています。
また、一石五輪塔や板碑には年号を刻んだものがあり、
古いものでは大永二年(1522)、
新しいものでは永禄十二年(1569)のものがあります。 」
その左手には「西辺土塁」の説明板があった。
説明板「西辺土塁」
「 本丸の西辺に構築された土塁です。
この土塁の南側は本丸内で一番高く、
また本来は、もう少し南の方へ張り出していました。
「殿主(でんしゅ)」 と呼ばれた、いわゆる天守は、これらの立地的な条件から、
この土塁上にあった可能性が指摘されています。
発掘調査では、その石垣の一部とみられる人頭大の石と裏込めの石が見つかりました。 」
天正十年(1582)、明智光秀は、本能寺の変を起し、ここ勝龍寺城を拠点として、
羽柴(豊臣)秀吉を迎え撃ちます。
圧倒的な秀吉軍の軍勢を前に、山崎の合戦で敗れると、光秀は勝龍寺城に後退して、
最後の夜を過ごした。
夜中に城から逃れて、坂本城へ向かう途中、落ち武者狩りに討たれて絶命。
光秀が脱出したと伝えられる北門には、当時の石垣や門の礎石が残っている。
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◎ 勝龍寺
勝龍寺城を出て、先程の道を南下すると、右手に勝龍寺があった。
入口に 「洛西観音霊場第十四番札所 真言宗 恵解山 勝龍寺」 の石柱があり、
その奥に本堂がある。
本堂の前説明板
「 真言三宝宗の末寺。 洛西観音霊場第十四番札所。
本尊は、十一面観音で、鎌倉時代作の国の重要文化財である。
また、同時代作の十一面観音像、聖観音像、持国天像、
多聞天像は市指定文化財となっている。
寺伝によれば、
大同元年(806)に帰朝した空海が唐長安で学んだ青龍寺の名をとって開基。
応和二年(962) 大干ばつ、大飢饉の際、千観和上の雨ごいの効験によって、
勝龍寺と改名したという。
また、元応元年(1319)に鋳造された鐘が大阪府能勢町の真如寺に残り、
大阪府の指定文化財となっている。
同寺は、この鐘が鋳造された十七年後の延元元年(1336)六月と、
山崎合戦の天正十年(1582)の二度の兵火によって焼け落ちたと言う。
なお、現在ある鐘は三度目に鋳造されたものである。
長岡京市観光協会 (社)京都府観光連盟 」
勝龍寺は、嵯峨天皇の時代には、観音堂を始め、九十九坊があったというが、
今は本堂があるだけの質素な寺院であった。
本堂の左手にある梵鐘には三代目とあった。
説明板
「 初代の梵鐘は、豊臣秀頼、徳川家康の大坂の陣(1615)の際に持ち去られ、
戦いが終り、源八堤(旧淀川・造幣局の上手)に捨てゝあるのを能勢の伊予守頼次氏が
発見、記念として持ち帰り、地元の布留神社に奉納する。
其の後、転々として現在は大阪府豊能町の真如寺に現存し、
その梵鐘には梵字、漢字にて、真言陀羅尼が二十八種、並びに
元応元年巳未年五月十日 山城国乙訓郡神足郷勝龍寺洪鋳○
と刻まれており、大阪府の指定文化財となっている。
二代目梵鐘は明和三年(1766)三月二十八日に鋳造され、「勝龍寺の鐘」として
永く地元の人方々に親しまれた梵鐘も、第二次世界大戦末期、昭和二十年春に
供出する。
先住職入山の後、初代梵鐘の現存することを聞き、真如寺に赴き現存を確認し、
後日返還を求め久しく奔走するも実現せず、昭和五十二年(1977)五月、
檀信徒の浄財により、この三代目を鋳造する。
なお、大晦日には除夜の鐘として信者各位にも打って頂いております。 」
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第3霊場で、ぼけ封じ観世音菩薩が祀られていた。
隣には春日神社があった。
神仏習合の名残りで、勝竜寺地区の氏神である。
説明板
「 春日神社は、勝竜寺地区の氏神で、祭神は天津児屋根尊、姫大神、
武みか槌命、斉主命です。
勝龍寺に隣接する元禄十三年(1700)銘の石鳥居をくぐると、
覆屋をもつ一間社流造・柿葺きの本殿があります。
明治初期の社伝によると、承安四年(1174)、関白九条兼実の建立で、
天正十年(1582) の山崎合戦に際して焼失したのち、
慶長九年(1604)に再建されたといいます。
江戸時代には「春日大明神」とも呼ばれ、
勝龍寺の子坊であった専勝坊と玉林坊によって、管理されていました。
弘化二年(1845)ごろには覆屋と本殿、瓦葺きの拝殿が再建され、
このうち本殿のみが再建当時の姿を今に伝えています。
現在は、宮総代を中心に地元の方々が社を管理し、
毎年5月2日の例祭や、年に2度のオセンド(お千度)など、神事を行っています。
令和3年3月 長岡京市観光協会 (社)京都府観光連盟 」
勝龍寺は、室町時代には守護大名が地域拠点として使用していたようで、
その後、勝竜寺城が築城され、その役割を終えたが、
天正十年(1582) の山崎合戦で焼失したと伝わる。
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◎ 恵解山古墳(いげのやまこふん)
この後、南方にある恵解山古墳へ向かう。
恵解山古墳への道標があるので、住宅街の中をそれに従って歩いていくと、
犬川に出た。
橋を渡ると三叉路を右折する。
恵解山通りを歩くと、左側は長岡八小学校である。
少し歩くと、左側に 「←勝龍寺城0.5km JR長岡京駅1.4q 」 の道標があった。
更に進むと、道の左側に、「山崎合戦の古戦場 国史跡 恵解山古墳(明智光秀本陣跡)」 の看板があるところに出た。
その先には復元された埴輪が並べられているところがある。
恵解山古墳に到着した。
「 恵解山古墳は、五世紀前半に築かれた前方後円墳で、
国の史跡に指定されている。
全長120m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅55m、高さ6.5mで、幅30mの周濠を持つ。 」
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下に降り、古墳に近づいていくと、
四角に区切られた中に円筒埴輪が並べられている。
ここにある埴輪は複製品であるが、
発掘調査では、蓋(きぬがさ)・家形・水鳥などの形象埴輪が出土している。
説明石「西造り出し」
「 ここは、前方部西側に取りつく、東西約85mの四角い施設で、
特別な葬儀が行われた場所とみられます。
造り出し上部は、埴輪で囲まれていました。
その東辺の埴輪列は、北よりで食い違って、
そこから中に入る仕組みになっていました。
造り出しの取り付き部分には、そこを島に見立てた入江状の表現があり、
当時の死生観を知るうえで興味深いものです。 」
階段を上り、前方部にいってみる。
一番上の周囲に埴輪が並べられ、
階段を上った右側には、 「交通と恵解山古墳・山崎合戦」 の説明板があった。
「 交通と恵解山古墳
恵解山古墳は、西側から続く標高約16mの低い台地の縁に築かれています。
この古墳より東には、桂川右岸に広がる平野があり、
南に緩やかに下りながら、幅を狭めています。
桂川、木津川、宇治川の三つの川が合流して、淀川になる地点にも近い位置です。
京都から大阪平野に流れ込むこれらの川は、古代の水上交通上重要であり、
この重要地点を押さえていた自らの権力の強さを、
往来する人たちに知らしめ、見せつけていた事でしょう。
山崎合戦と恵解山古墳
織田信長が、明智光秀に倒された本能寺の変の直後、
羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した山崎合戦は、あまりにも有名ですが、
恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった可能性があります。
発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土しています。
また、後円部にある現在の墓地が棚田状に三段になっていることや、
前方部に大きな盛り込みがあることも、
光秀方が、恵解山古墳に陣を置いた際の造作である可能性があります。 」
左方に行くと、長方形の細長い区画があり、 その前に 「武器埋納施設」 の説明石があった。
説明石「武器埋納施設」
「 ここには、多量の鉄製武器類が木の箱状の入れ物に納められていました。
その大きさは、長さ6.5m以上、幅約80cmです。
箱の底には刀が、その上に剣と槍が、さらにその上に短刀と大量の矢が束められて、
整然と置かれていました。
約700点もの鉄製品は、葬られた人の権力の高さを物語っています。 」
その先は行くことができないようになっていて、 後円部と前方部の一部が墓地になっていた。
「 昭和五十五年(1980)に、墓地が他の墳丘部分に拡張されることになり、
事前調査が行われた。
この部分は後円部で、以前より墓地になっていたようで、内部主体は失われているが、
竪穴式石棺と推測されている。 」
以上で、恵解山古墳の見学は終了である。
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勝竜寺城へはJR長岡京駅東口から南へ徒歩約10分
阪急長岡天神駅東口から南東へ徒歩約20分
名神高速道路大山崎ICから約6分、京都縦貫自動車道長岡京ICから約6分
訪問日 令和四年(2022)十一月十七日