淀は、京街道の宿場になっていたところである。
「 淀は、宇治川と桂川が合流ところで、
奈良時代・平安時代には、諸国からの宮廷へ貢物を、
また、西日本から奈良や京都に運ばれる海産物や塩が陸揚げされる地であり、
河内・摂津・大和から、山城(京都)に入る要衝の地でもあった。
豊臣秀吉が伏見城の築城をすすめた際、巨椋池(おぐらいけ)に流れこむ、
木津川・宇治川を分離するなどの大規模な河川改修を行い、
伏見から納所にかけて、宇治川の右岸に、淀堤(文禄堤とも呼ばれる)堤防を築いて、
宇治川の流れを固定した。
この堤の上に設けられた道が、伏見と淀を結ぶ京街道になったのである。 」
京都競馬場の横断橋がある右側には、 「 慶応四年正月 史蹟戊辰役東軍西軍 激戦之址 」 と書かれた白柱と、 戦死者慰霊石碑がある。
「 戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦は、 数の上では勝っていた幕府軍が錦の御旗の前に、多数の死傷者を出して淀まで敗退し、 この辺一帯で最後の激戦が行われ、新撰組も先頭にたって戦い、多くの戦死者を 出した。 敗退した幕府軍は、幕府側の淀城に入ろうとしたが、 淀藩(藩主稲葉正邦) は寝返り、 幕府軍に門を 閉ざして開けなかったので、仕方なく橋本まで後退し、 以降、幕府軍の弱体化と敗北へと傾いていった。 」
江戸時代はこの先に淀小橋があり、京街道の淀の宿場町に入ると、
淀川と桂川が合流するところに、江戸時代に築かれた淀城があった。
京阪本線の淀駅の立体工事は完成し、ロータリーまで出来て整備されている。
南西に向うと淀本町に淀城跡公園があるが、その入口に 「唐人雁木旧跡」
「淀小橋旧址」「淀城之故址」の道標が建っている。
「 唐人雁木とは、
徳川将軍の就任祝いに朝鮮王から派遣された朝鮮通信使の使節が、
大坂から乗った船が着岸する臨時の船着き場のことである。
朝鮮通信使は歩いて京に向い、琵琶湖湖畔の朝鮮人街道を経て東海道に出て、
江戸に向った。
服装もカラフル、朝鮮の音楽を演奏しながら進み、
宿舎では学者などとの交流を進めたので、
当時の人々には一大イベントだったようである。 」
淀城跡公園の入口には、 式内興杼(よど)神社がある。
慶長十二年(1627)に建立された拝殿は、国の重要文化財に指定されている。
「興杼神社社の由来」
「 興杼神社は、豊玉姫命、高皇産霊神、速秋津姫命を祀る。 古くは淀姫社又は水垂社とも呼ばれた。
社伝によれば、 応和年間(961-964) 僧の千観内供が、
肥前国河上村の興止日女大神(よどひめおおかみ)を勧請したことに始まると伝えられる。
当初は水垂町に祀られていたが、明治三十三年、 桂川改修工事のため、
ここに移された。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
興杼神社の境内に 「 年々欽寸輝 淀屋 」 と刻まれた高灯篭があった。
説明板「 高灯篭」
「 淀屋は大阪の豪商で、幕府を凌ぐ程の財産を所有したため、
宝暦二年(1705)に財産没収と所払いとなった。
灯篭に刻まれている宝暦巳卯仲春日は宝暦九年(1759)のことで、
この四年後の宝暦十三年(1763)には、
大坂の元の場所 (淀屋橋南詰一帯) に木綿問屋として、
淀屋清兵衛 (後期淀屋) を称して、再興を果たした。
この高灯篭は淀屋ゆかりの者が寄進したものである。 」
公園内に入ると、城の石垣が残っているところがある。
説明板 「淀城の由来」
「 徳川二代将軍秀忠の元和五年(1619)、伏見城廃城に伴い、
新たに桂川、宇治川、木津川の三川が合流する水陸の要所のこの淀の地に、
松平越中守定綱に命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。
翌寛永三年、秀忠、家光父子が上洛の途次には、この城を宿所としている。
寛永十年(1633) 、国替により、永井尚政が城主となり、
その後、諸大名(石川憲之、戸田光熈、松平乗邑)が次々と入城したが、
享保八年(1723)五月に稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀に移り、
明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。 」
石垣の右手には、 稲葉正成(いなば まさなり) を祭神とする稲葉神社がある。
「 稲葉正成は、戦国時代から江戸初期にかけての武将で、
美濃の稲葉重通の婿となったが、妻に先立たれた後、結婚したのが重通の姪・
福(後の春日局)である。
彼は秀吉、小早川秀秋、徳川家康に仕え、
家康により、美濃国十七条藩主、越後国糸魚川藩主、下野国真岡藩初代藩主となった。
その末裔である稲葉正知が、 享保八年(1723)、 佐倉藩から淀藩に移封され、
稲葉家が明治まで淀藩主を務めたことから、この神社が誕生した。 」
石段を上るとあある石組が、穴蔵式天守台跡である。
「 江戸時代に築城された淀城は、木津川・宇治川・
桂川の合流地にある中州を干拓し、
淀三町 と呼ばれる城下町を造成した地に築かれた城である。
川の中の中州に築城された城で、北の納所地区とは淀小橋、
南の八幡地区とは淀大橋でつながっていた。
城には二重の堀が張り廻られ、本丸と二の丸を中心とした回という字の形に、
三の丸・西の丸があり、
東の外には東曲輪(巨大な馬出曲輪)を配していた。
天守は廃城となった伏見城の資材を転用し、二条城の天守を移築して築かれた。 」
(注) 当初の計画は、廃城にした伏見城の天守を移築することであったが、 伏見城天守は二条城へ、 そして二条城の天守を淀城へと変更になった。
「 宝暦六年(1756)の雷火で、 白亜五層の天守閣や本丸御殿など、 大半の建物が焼失し、天守閣や本丸御殿は再建されなかった。 」
昭和六十二年夏、天守台の石垣解体修理に伴う発掘調査が、
伏見城研究会によって行われ、大小の礎石を含む石蔵が発見された。
これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、
宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものであった。
![]() |
![]() |
![]() | ||
そのまま進むと、石垣と水堀がある。
「 江戸時代の淀城は、周囲を二重、三重の濠をめぐらし、
城の西南と北の二ヶ所に、直径八メートルの水車が取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛観は、延享五年(1748)五月二日に来着した、
朝鮮通信使(将群への祝賀使節) の様相を写した 「朝鮮聘礼使淀城着図」
に詳しく書かれている。 」
幕末、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗北し、淀城に籠もろうとするが、
淀藩に拒絶された。
淀城は、大坂城などとともに、西国大名に睨みを利かすために築城された城だが、
皮肉にも、外様大名を主体とした官軍の勝利に一役買うことになったのである。
「 この時の兵火で、淀城の城下町と城内の一部が焼亡してしまった。
明治の廃城令により、淀城は廃城となり、本丸の一部を除いて破却された。
更に、淀城東部の巨椋池の干拓により、納所地区と地続きになり、
本丸南東部を京阪電気鉄道(京阪本線)が貫通すると、
このあたりの景色はすっかり変わった。
現在の残るのは、一部の石垣と、北側と西側の堀のみである。 」
石垣の一角に、「明治天皇御駐蹕之址」 の石碑が建っている。
この石標は、明治天皇行幸の地を示すものである。
「 明治天皇は、 慶応四年(1868)三月二十一日、 親征、海軍検閲のため大坂へ行幸するため、 淀を訪れ、淀城で休憩された。 二十三日には、大坂行在所となった本願寺別院に到着。 一カ月あまり大坂に滞在し,閏四月七日大坂を出発し、 水路で八軒屋より守口に上陸し、同日は淀城で宿泊した。 翌日、鳥羽で休憩の後,京都へ還御された。 」
堀の北側の府道13号線の道端に、「淀川瀬水車旧趾」 の石碑が建っている。
「
江戸時代の名所図会には、淀城の左手に、二連の水車が描かれていて、これを謡った
「 淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると・・ 」 という歌は有名である。
< 「 水車は城の西南と北側に取り付けられていた、直径九間(約十六メートル)の大型水車で、淀川から城内の二の丸の居間や西の丸の園池に、水を送るのが目的だった。 」
![]() |
![]() |
![]() | ||
所在地:京都市伏見区淀本町167(淀城跡公園)
淀城へは京阪電気鉄道京阪本線淀駅から徒歩5分
(追記) 淀には、秀吉が築いた淀城があった。
「 秀吉の側室・茶々が、天正十七年(1589年)、鶴松を生む際、
この懐妊を喜んだ秀吉は、桂川に面する納所地区に産所として、
淀城を建て、茶々を住わせた。
茶々はそれ以後、淀の方と呼ばれるようになったといわれる。
鶴松誕生後の淀殿は秀吉のいる大坂城へ移り、豊臣秀次の失脚により、
城主の木村重茲が連座すると淀城は廃城になった。
秀吉の建てた淀城跡は、宅地化し、京都市立納所小学校などの敷地になっている。
妙教寺山門前に、石碑が建っている。
訪問日 平成三十年(2018)一月二十三日