名所訪問

「 明智光秀が築いた 福知山城 」  


かうんたぁ。


福知山城は、織田信長の命により、丹波攻略のため、 明智光秀が築いた城である。、 
洪水を防ぐ堤防や城下町を整備し、租税制度も改めたので、 福知山の人々は善政の殿様として、今も慕っている。 
続日本100名城の弟158番に選定されている。 


福知山城は、JR福知山駅の東八百メートルの所にある。 

「  福知山城は、北東に向って伸びる舌状台地に、 左(西)から、内記丸・伯耆丸(三の丸)・二ノ丸・本丸と続く連郭式城郭である。 
長さは、東西約六百メートル、南北約百五十メートルから三百メートル。 
本丸は、丘陵(舌状台地)最先端部の一番高い、標高三十五メートル、 比高約二十五メートルのところに置かれた。 
台地の北側の低い所に、左門丸・対面丸・侍屋敷・大膳丸の曲輪を、 台地の南側に、泉水・蔵屋敷・馬屋・鷹部屋・庭園などを設けた。 
城下町は、北方に、鍛冶町・紺屋町・鋳物師町・呉服町・京町などの町家、 川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、 東北には斜めに由良川が流れ、西・南に、外堀が巡らされている。 
福知山城はいわゆる惣構えとなっていた。 」 

福知山駅から福知山城へ向って歩くと、右側に惇明小学校があるが、 このあたりが、「内記丸」の跡である。 
その先の市役所の裏の伯耆丸公園は、 伯耆丸 の跡である。 

「 伯耆丸は、福知山藩初代藩主・有馬豊氏の弟、 有馬伯耆守重頼の館があったところである。 」 

市役所駐車場の北西隅にあったのは、「内榎原門」で、 武家屋敷からの登城に使われたようである。 

「 本能寺の変後、羽柴秀勝・杉原家次・小野木重勝が城主となった。  
江戸幕府の誕生で、初代福知山藩主になったのは有馬豊氏で、 現在のような城郭や城下町は、有馬豊氏時代に完成されたとされる。
有馬豊氏の後、岡部長盛・稲葉紀通・松平忠房と替わり、 寛文九年(1669)、朽木稙昌が藩主となり、その後は、朽木氏が明治維新まで十三代続いた。 
福知山城は、明治六年(1873)の廃城令によって解体され、 現在も残っているのは、天守から本丸にかけての石垣と、 「豊磐の井」 と呼ばれる井戸と銅門番所だけである。 」 

市役所から裁判所前を通り、福知山丹波生活衣館に差し掛かると、 右手小高いところ(本丸)に天守閣が見える。 

「 裁判所の一帯は平地で住宅地帯になっているが、 江戸時代には二ノ丸があり、本丸と陸続きで繋がっていた。 
明治二十年(1887)、二の丸の建物が取り壊された際、 二の丸の台地は削り取られ埋め立てられ、今の姿になった。 
また、伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、 福知山線の建設に伴い、独立丘陵になってしまっている。 」 

その先の陸橋の手前右側に城郭の建物があるが、佐藤太清記念美術館である。 
その先に法川が流れているが、江戸時代には堀だったのだろうか?  それとも由良川の名残なのだろうか? 
明治維新後、地形が大きく変えられていて、過去を探索するのはむずかしい。 

市役所
     本丸      美術館
市役所から見た福知山城
本丸
佐藤太清記念美術館


本丸に向って美術館脇の道を上っていくが、 この道は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものであり、 江戸時代の道は、現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていたようである。 
見上げると櫓門が見え、石垣には 「転用石」 の標札も建っていた。 
明智光秀は、荒木山にあった法興寺や宝積寺から、石垣に使用する石を取り集めたとの伝承がある。 

標札「転用石」
「 石垣は野面積み、乱石積み、穴太積みと呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれている。 
石材の加工と用い方は野面積み、角部の積み方は算木積み、 勾配は、基底部は傾斜が緩やかで段々傾斜を増していき、 上部はほぼ垂直になる扇の勾配と呼ばれる方法で築かれている。 
また、転用石とも呼ばれる宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されていて、  一辺が六十二センチの大型の石材もあり、寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがうかがわれる。 」 

更に上って行くと本丸になり、復元された天守が建っていた。 

「 天守は三重四階建ての大天守で、 北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが、 櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物があった。 
大天守には、床と棚をしつらえた八畳の上段ノ間・水流し・厠、 小天守にも床と棚をしつらえた住居施設になっていた。 
大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされている。  
石落としの幅は八寸とされ、福知山城では大天守の虎口の上、 大天守と小天守の二階の隅に設置されていて、 一階が一ヶ所、二階が九ヶ所、計十ヶ所あった。 
二階の石落としは一階の張り出した屋根で隠されている。 」 

現在の天守は三年かけて、昭和六十一年(1986)に再建されたもので、 昭和六十年(1985)に小天守と続櫓が完成した。

「 復元天守は、大天守、続櫓、小天守が連結された形で、 近世初期の望楼型である。  外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造。  内部は「福知山市郷土資料館」として、城に関する資料や福知山地方の歴史、文化財を紹介している。   また、望楼からの城下の眺めは抜群である。  」 

登城道
     石垣      天守
登城道
転用石が使われた石垣
復元天守


本丸はそれほど広くない。 本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、 城の中央に位置し広大な二ノ丸御殿が中心施設だったと思われる。 
「福知山城石垣の転用石」の説明板があり、その下には沢山の石材があった。 

説明板 「福知山城石垣の転用石」
「 天守閣の石垣は野面積み、乱石積み、などと呼ばれた技法で、 未加工の自然石が積み上げられている。 
また、五輪塔や宝篋印塔を始め、石仏、石臼、灯篭などの石造物が、 大量に石材として利用され、これらは転用石と呼ばれている。 
転用石の大量利用の例は福知山城や大和郡山に見られる。 
再建時の発掘調査で五百余りが確認されている。 
中に延文四年(1359)銘の五輪塔地輪や、 天文十年(1541)銘の五輪塔地輪(天守の地階の階段石に転用)がある。 」 

銅門番所は、江戸時代には市役所の東(二ノ丸登城路付近)にあったもので、 大正五年(1916)に天守台に移され、 昭和五十九年(1984)、天守復元のため、現在地に移された。 

本丸天守の東側に、豊磐井(とよいわのい) と呼ばれる井戸がある。

「 この井戸は、城主であった朽木稙昌の父・ 朽木稙綱の神号  「豊磐稙綱命」にちなんだもので、 井戸の深さは五十メートルあり、井戸底は海面下七メートルに達し、 高所に関わらず水深は三十七メートルあり、現在も満々と水をたたえている。 
伝承では、この井戸に抜け穴があり、 二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。 」

以上で、福知山城の見学は終わった。 

転用石
     銅門番所      豊磐井
転用石
銅門番所
豊磐井


福知山城へはJR福知山線福知山駅から徒歩約15分 京都交通バスで5分  

訪問日    平成三十年(2018)六月十七日




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