二条城は、江戸初代将軍・徳川家康が、慶長六年(1601)、
天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所にするため、
西日本の諸大名に命じて築城させた、いわゆる天下普請の城である。
家光が改修を行い、後水尾天皇行幸を迎えるため、本丸御殿と五重天守を建てた。
城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿の六棟が国宝に、
東南隅櫓などの二十二の建造物と二の丸御殿の障壁画計千十六面が重要文化財に、
二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。
平成六年(1994)にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録された。
日本100名城の第53番に選定されている。
市バスの二条城前バス停で下車すると、二条城は目の前である。
堀に囲まれた先に、ニ階建の櫓門 ・ 東大手門がある。
説明板「国の重要文化財 東大手門」
「 東大手門は築城時から二条城の正門であった。
築城当時、現在と同じの二階建ての楼門であったが、
三代将軍家光の時代、寛永三年(1626)に行われた後水尾天皇行幸に際し、
天皇を二階から見下ろさないようにとの配慮から、一重の門に替えられたと伝えられ、
寛文二年(1662)の改修で、二階建ての今の姿となったと見られている。
一階を門、二階を櫓とする櫓門で、二階の櫓は矢倉と書くように武器庫だが、
正面の出格子窓には敵を直下で攻撃する石落しを備え、攻撃と防御の要となっている。
金箔を貼った飾金物は天皇を迎える正門であるための装飾と思われる。
天皇を迎えた時には二階の櫓がなかったことが絵図でわかっていて、
天皇が門を通られることを考えて、二階は不要と判断したと推測される。
寛文年間の改修で、再び櫓が載せられたのは築城当時の正門としてふさわしいと考えたからと思われる。 」
東大手門には、天皇を迎えるにふさわしい装飾もあるが、 鉄鋲で門を鉄板で囲った頑丈な門であることが確認できた。
東大手門を通ると、 番所 という建物がある。
説明板「番所」
「 寛永三年(1626)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所が描かれているが、
現在の建物は寛文三年(1663)に建てられたことは分っている。
平時の二条城は幕府から派遣された二条在番と呼ばれる武士たちが宿直、
警護をしていた。
一組五十人の在番が二組常駐し、この番所は彼らの詰所の一つになっていた。
城内にはこの他、唐門前、北大手門周囲、西門周囲等計九棟の番所があったが、
現在残っているのはここだけである。 」
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東大手門の左手にある唐門は、二の丸の正門で、国の重要文化財である。
「 二条城の 唐門(からもん) は、二の丸御殿への正門で、
御殿の南側に位置している。
桃山時代末の慶長七年(1602)から慶長八年(1603)に建造され、
寛永二年(1625)から寛永三年(1626)の改修で、現在の姿になった。
切妻造、桧皮葺の四脚門で、その屋根の前後に唐破風が付いている。
国の重要文化財に指定されている。 」
唐門は、平成二十五年(2013)の修復工事で、往時の姿によみがえった。
「 金具、漆塗、彫刻の修理、檜皮葺きの屋根の葺き替えが行われ、
柱と瓦以外の見えている部分は全て新しくなった。
屋根の独特のカーブは 唐破風(からはふ) と呼ばれ、
この唐破風を持つ門を 唐門 (からもん) と呼ぶ。
唐破風の下の細かい彫刻は、日光東照宮のような豪華絢爛。
白い鶴と青い蝶、赤い花、牡丹に蝶、鶴に大和松と亀、龍虎、亀乗り仙人と鳳凰、
唐獅子などの極彩色彫刻が施され、
また、門は長寿を意味する 「松竹梅に鶴」 や、聖域を守護する 「唐獅子」
などの豪華絢爛な極彩色の彫刻で飾られている。
柱の飾金具についている菊御紋の下には葵御紋がある。
明治維新で葵御紋の上に皇室の菊の御紋が被せられたからである。
唐破風の上部に付けられた鬼瓦も菊の御紋。
柱の隅部はことごとく飾り金具が付けられている。
唐門と繋がる築地塀も修理された。
築地塀の切妻破風も漆と金箔で装飾され、漆が光る。
正面下部の彫刻には、爺さん 仙人が彫られていた。 」
唐門をくぐると、正面に見えるのは二の丸御殿である。
右手にあるのが車寄せ、その左は遠侍、大広間と続く。
「 徳川家光が将軍、 秀忠が大御所となった寛永元年から、 後水尾天皇の行幸を迎えるため、徳川家康が建てた二条城の大改築が始まった。 作事奉行には小堀遠州政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられ、 尾張藩や紀伊藩などの親藩、譜代の十九家が石垣普請を担当した。 城域は西に拡張され、天守も拡張され、西側に位置を変え、 廃城となった伏見城の天守を移築した。 寛永三年(1624)、本丸、二の丸、天守閣が完成し、現在の規模になった。 」
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唐門をくぐると二の丸で、二の丸御殿と二の丸庭園がある。
右側の突き出た建物は、二の丸御殿の「車寄せ」である。
「 正面三間、奥行四間、軒唐破風、入母屋屋根、檜皮葺、
床は牛車で中に入れるように四半敷になっている。
入口上部の欄間彫刻の表側には、五羽の鸞鳥(らんちょう と 松に牡丹、
上部に雲、下部に笹が配されている。 裏側は松の大木である。 」
車寄せの奥にあるのは 「遠侍」 で、来殿者が控える場所で、
二の丸御殿で一番大きな建物である。
来殿者が最初に立ち入る一の間・二の間・三の間は、襖や壁の絵から、 虎の間 と呼ばれ、獰猛な虎の絵が訪問客を威圧している。
その左手にあるのは式台で、その左に続くのは、 大広間 である。
「 大広間は四室あり、一の間(上段の間)、
二の間(下段の間)は、将軍と大名や公家衆との公式な対面所である。
対面の際には将軍は一の間で南を向いて座り、床の間に三幅対の掛け軸をかけ、
違棚や付書院には工芸品を飾ったとされる。 障壁画は狩野探幽である。
慶応三年(1867)、十五代将軍徳川慶喜が、
二の丸御殿の大広間で大政奉還の意思を表明している。 」
二の丸御殿の中は撮影禁止になっているので、外で二の丸庭園に向うと釣鐘がある。
説明板「釣鐘」
「 鐘は京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周囲に知らせるために使われていた。
京都所司代屋敷は、二条城の北に隣接して三ヶ所あり、上屋敷・堀川屋敷・
下屋敷(千本屋敷) と呼ばれていたが、
これらは下屋敷として使われていたもので、 慶応三年(1867)に所司代が廃止された後、
二条城に移されたと考えられる。 」
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門をくぐった先に、国の特別名勝に指定されている二の丸庭園がある。
「 寛永三年(1626)の後水尾天皇行幸のために作事奉行・
小堀遠州により手が加えられたもので、
小堀遠州の代表作に挙げられる桃山様式の池泉回遊式庭園で、 八陣の庭 の別名がある。
二の丸庭園の池には三つの島があり、 池の中央やや北よりに最大の蓬莱島があり、
その北に亀島、 南に鶴島がある。
亀島は亀の形に、 鶴島は鶴の形の石組で、
蓬莱島は亀島と共に見える場所から見ると鶴の形に、
鶴島と共に見える場所から見ると亀の形に石が組まれており、
常に鶴亀の一組を表現する趣向で、 神泉蓬莱の世界を表した庭園といわれている。 」
池の北西部には、二段の滝があるのが見えた。
なお、池の南に広がる芝生のエリアは、
寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所で、
ここが二の丸庭園の第一正面である。
第二正面は東側の大広間側、 第三正面は北側の黒書院側で、
三方向から鑑賞できる、三正面形式の庭園設計がなされている。
「 後水尾天皇の二条城行幸は、 寛永三年(1624)九月六日から五日間に渡って行われ、 その間、舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。 この行幸が二条城の最盛期で、壮麗な城に天皇を迎えることで、 徳川家による江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめた。 行幸のために新たに建てられた行幸御殿は、上皇となられた後水尾院の御所に移築、 その他、多くの建物は解体撤去された。 」
大広間の奥にあるのは、黒書院と白書院である。
「 黒書院の江戸時代の名称は 小広間
で、 大広間に次ぐ公式の場として、
将軍や徳川家に親しい大名や高位の公家などが対面する場合に用いられた。
一の間と二の間は 桜の間 といわれ、 襖絵は探幽の弟の尚信の筆である。
白書院は、江戸時代には 御座の間 と呼ばれたことから、
将軍の居間と寝室だったと思われる。
一の間と二の間は西湖、三の間は中国の歴史上の人物が描かれた水墨画で包まれ、
落着いた印象を与える。
大広間の四の間は、 将軍が上洛のときに武器をおさめた場所といわれ、
障壁画の松鷹図は、桃山時代の様式を取り入れた巨大な松と勇壮な鷹が描かれている。 」
白書院前で左折し、門を出ると内掘と、その先に石垣がある。
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正面にあるのは東橋で、本丸と二の丸を隔てる内掘に架かっている。
東橋の先には、二条城の本丸への正門 ・ 本丸櫓門(ほんまるやぐらもん) がある。
本丸櫓門は、国の重要文化財に指定されている。
「 本丸櫓門は、寛永二年(1625)頃の建築で、
鉄鋲の門柱がある白漆喰壁の入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、
本丸西櫓門(焼失)とともに本丸を防御する重要な門であった。
戦時には、木橋(東橋)を落して敵が渡れないようにし、
さらに銅板で覆われた扉を閉じて火器に備えた。
本丸には井戸や米蔵があるので、籠城戦の備えもできる。
内側の土塀に見える穴は鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えである。
寛永の行幸の際に天皇は二回天守に登られたが、その時の木橋は二階橋で、
天皇は二の丸御殿から橋の二階の畳廊下を通って地上を歩くことなく天守に行かれた。
二階橋の一部は昭和五年(1930)頃まで残っていたが、その後解体され、
部材の多くは土蔵に保管されている、という。 」
本丸櫓門は、門をくぐると枡形になっている。
枡形を進むと、本丸である。 本丸は、二万平方メートルという広さであった。
本丸跡には 本丸庭園がある。
本丸庭園は、明治天皇行幸の際、枯山水庭園から大改造した庭園で、
東南隅に築山を配し、 芝生を敷き詰めて曲線的な園路を設けた優美な造りである。
説明板「本丸庭園」
「 本丸庭園は明治二十九年(1896)に明治天皇により作られた庭園である。
明治天皇は右側に見られる本丸御殿の最上階から指示を出され、
それは植栽にまで及ぶものだった、という記録がある。 」
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本丸庭園の右側に、本丸御殿がある。
「 本丸を建設した際、寛永三年(1626)、
三代将軍・徳川家光は本丸御殿を建てたが、
京の町を焼き払った天明八年(1788)の大火の飛び火で、隅櫓などと共に焼失した。
徳川幕府の太平の世の中が続き、皇室や公家への監視のための二条城の存在意義は減り、
再建されなかったが、幕末になり、十五代将軍・徳川慶喜が本丸御殿を建てた。
この建物は明治十四年(1881)頃、取り壊わされてしまった。 」
現在の本丸御殿は、明治二十七年(1894)に、
京都御所の北東部にあった、桂宮家の御殿の一部を移築したもので、
我が国で唯一現存する宮家の御殿として、国の重要文化財に指定されている。
移築時にはいったん庭が作られていたが、明治天皇の指示により、すぐに改造された。
「 御殿は、玄関・御書院・御常御殿・台所及び雁之間の四棟からなり、
棟により寛政五年(1793)から嘉永二年(1849)までとさまざまである。
御所が火災にあった際に、 一時仮御所として使用された御書院、居間であった御常御殿、
そして、玄関、台所等の移築前の主要建物がここに揃っている。
桂宮家は、桂離宮で知られる桂宮智仁親王を始祖とし、
十二代継承した淑子内親王が、明治十四年(1881)に薨去したことにより、断絶した。
十四代将軍・徳川家茂の正室となった皇女和宮が、江戸に向けて出立した御殿である。
淑子内親王は、明治天皇の叔母にあたり、和宮は彼女の妹である。 」
本丸の南西隅に、「天守閣跡」 の説明板があり、 その先に石垣と石段がある。
急な石段を上ると、平らな空地が 天守閣跡 である。
「 徳川家康が建てた天守閣は、大和郡山城から移築されたもので、
本丸の清流園のあたりにあった。
徳川家光は、後水尾天皇を迎える寛永の行幸の時、城域を拡張するため撤去し、
淀城に移築し、代わりに
寛永三年(1626)、一国一城令により廃城になった伏見城の天守を、この場所に移築した。
外観は五重、内部は地上五階、地下一階の層塔型の天守で、取付矢倉が附属するものである。
屋根は瓦型の銅板で葺かれていたようで、面積は約四百二十七平方メートルである。
寛永行幸の時、後水尾天皇が二回天守閣を登った。
天守に登った天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれている。
寛延三年(1750)の落雷により焼失したが、その後再建されることなく、
石垣だけが残され現在に至っている。 」
天守台から本丸御殿と本丸庭園を一望後、西に目を向けると、 西橋と内掘の先に土蔵が見えた。
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下に降りて、本丸庭園を西に行くと西橋で、本丸と二の丸を隔てる内掘に架かっていた。
ここにもかっては櫓門があったと思われるが、今は枡形が残っているだけである。
西橋を渡ると休憩所がある。 ここで左折すると内掘の袂に土蔵があり、
その突き当たりは西南櫓である。
そちらに行かず、右折すると土蔵があった。
説明板「重要文化財 土蔵(北)米蔵」
「 本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっている。
寛永三年(1626)頃の建築である。
建物は長さ十七間と長く、内部は二つに分けられている。
内部に床をはり、天井はない。
戸は土戸を外に開く関戸で、板庇を設け、内側の鉄格子に銅網が取り付けられている。
窓は北、東、西の三方に設けられている。
現在城内に三棟の土蔵があるが、江戸時代には十棟存在した。
城の土蔵が残るのは二条城だけである。
土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。
寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝用二棟、火縄用一棟が描かれているが、現存しない。 」
その先の左側に西門の説明板が立っている。
説明板「西 門」
「 寛永三年(1626)頃に建築され、江戸時代には通用門として使われた。
天明八年(1788)の大火で周辺の櫓門は焼失し、明治以降にかかっていた木橋も失われ、
今では西門だけが残る。
門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから埋門(うづめもん)と呼ばれるが、
屋根だけ見れば高麗門である。
高麗門とは死角をなくすために屋根を出来るだけ小さくした門で、
柱の上にしか屋根はない。
この門を突破されても、正面に櫓門が待ち受け、
敵をその二階や石垣の上から攻撃することになるが、
その際屋根が邪魔にならないように考えられた造りである。 」
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内堀に沿って右折し、東に向うと北中仕切門が建っていた。
説明板 「重要文化財 北中仕切門」
「 内掘の南側にある南中仕切門と対になっている。
規模もほぼ同じで、寛永三年(1626)頃の建築である。
本丸西櫓門への通路を塞ぐ防衛上重要な門である。
門は小振りで、西門より少し小さく、
背面の屋根だけが延びるという変わった構造になっている。
門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから埋門と呼ばれる。
埋門の形はこの他に石垣に囲まれただけのものがあり、
姫路城が有名で、高松城にもある。 」
門をくぐり進むと右は内堀、左は芝生の庭園で、 その先に、御茶屋和楽庵、そして奥に香雲亭が建っている。
「 この一帯は、池泉回遊式の和風庭園と芝生を敷詰めた洋風庭園から成る面積約五千坪の清流園である。 高瀬川一之船入のところにあった京都の豪商、角倉了以邸の建物の一部と、 庭園の庭石約八百をもとに、全国から集めた名石約三百個を加え、 昭和四十年(1965)に作庭されたとされる和洋折衷庭園である。 」
休憩所を直進すると北大手門である。
「 北大手門は、二条城の北側にある大手門で、
国の重要文化財に指定されている。
入母屋造、本瓦葺きの楼門で、屋根の瓦には三葉葵の紋が残っている。
慶長七年(1602)から慶長八年(1603)に造られ、寛永二年(1625)から寛永三年(1626)の改修により
現在の姿になった。
北大手門は、外掘を挟んで竹屋通りに面しており、通常は閉じられているが、 東大手門修理の際は、臨時に開かれていた。 」
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北大手門から引き返すと、鳴子門がある。
そこをくぐると先程訪れた東橋と本丸楼門に到着。
まっすぐ進むと桃山門があった。
説明板 「重要文化財 桃山門」
「 北の鳴子門と対になっており、南に向いて本丸櫓門への通路を塞いでいる。
寛永行幸時の絵図には大きな建物が描かれているが、それを改造して現在の門になったのではないかと考えられている。
そのため当初の姿や目的は不明な点が多い。
現在は長屋門で中央に門を設け、両側はそれぞれ門番所としている。
城内にあってこのような防衛を厳重にするのは異例といえる。 」
門をくぐり抜けた先の三叉路を右折すると、左側は 桜の園 になっている。
十数年前写真クラブで桜を撮るため訪れたことがある。
その日はあいにく雨だったが、なんとか数枚写したことを思い出した。
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「 南中仕切門も、北中仕切門同様、 門の上の土塀と石垣に囲まれた 埋門 と呼ばれる頑丈な造りである。 」
門をくぐると左側は梅林になっていて、
季節になると優雅な花や香りがあたり一面漂ってくる。
その先の左手に西南隅櫓があるが、ここで引き返し東に向うと、
先程の桃山門の三叉路で、直進すると右側に南門がある。
説明板「南門」
「 大正四年京都御所の紫宸殿で大正天皇の即位の儀式が行われ、
その後の饗宴が二条城で開かれた。
この一連の行事を大正大礼という。
南門はその時に天皇の入城口として新たに作られた門である。
それまで二条城の南側に入城口はなかった。
饗宴には皇室関係者、各国の要人や総理大臣が招かれた。
当時皇室の別邸として利用されていた二条城で、
新たな天皇の即位を華やかに御祝いしたのである。
饗宴のためさまざまな建物が建てられたが、直後に移築または撤去され、
現在は南門だけが残っている。
メイン会場として建てられた大宴会場の一部は、京都公会堂として、
京都市岡崎に移築された。
現在ロームシアター京都京都会館が建つ場所である。 」
二条城内の見学を終え、東大手門を出て、左折し、水掘に沿って歩き、 最後に、城の南東隅にある東南隅櫓(とうなんすみやぐら)の写真を撮影した。
「 東南隅櫓は江戸時代初期の寛永年間(1624〜1643)に建てられた隅櫓で、
二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺で、国の重要文化財に指定されている。
隅櫓は城の四隅に造られていたが、天明八年(1788)の大火で東北隅櫓と西北隅櫓が焼失し、
以後再建されることなく、この東南隅櫓と西南隅櫓の二つだけが現存している。 」
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二条城へはJR東海道新幹線・東海道本線京都駅から市バスで約20分、二条城前で下車、徒歩すぐ
地下鉄東西線二条城前駅から徒歩すぐ
訪問日 平成三十年(2018)六月十九日