久留米は、福岡県の南部、筑紫平野最大の都市で、人口約30万人である。
明治三十年(1897)に、師団の駐屯地になると
軍事産業が生まれ、大正十一年(1922)に地下足袋製造が始まり、
ゴム化学工業へ発展して行き、ブリジストンやアサヒゴムなどの会社が誕生した。
豚骨ラーメンは久留米で生まれ、博多で大きく飛躍し、全国になっている。
そうした久留米市だが、過去はどうだったのか、と旅をした。
羽田から福岡空港に十時五十分に到着し、地下鉄で博多駅の出て、 久留米駅に十一時二十七分に到着した。
久留米といえば、豚骨ラーメンの久留米ラーメンである。
福岡の長浜ラーメンは数軒食べているが、発祥の地で、ラーメンを食べてみたかった。
「 土地感がないので、駅の食堂街の店に入ることにした。
入った店は、満一GOLDLABELである。
この地の麺は極細で、茹で時間が数秒と、関東では考えられない短時間である。
客の好みでばり硬、硬、普通など、茹で時間を変えている。
麺が半生の状態で出てくるが、細麺なのですぐやわらかくなるので、
大盛りはなく、替玉で対応する。
その違いがわからない小生は、とんこつしぼり麺の並を注文した。
おいしかったが、長浜ラーメンとの違いはわからなかった。 」
久留米の歴史は古い。
「 律令制の時代には、筑後国の国府が置かれ、筑後国の中心として栄えた。
その400年は、久留米市西牟田の西牟田氏がこの地を支配していた。
豊臣秀吉の九州国分けで、小早川隆景の養子・秀包が久留米城に入ったが、
関ヶ原の戦いで、西軍に付いたため、改易された。
その後任になったは、石田三成を捕えた、田中吉政である。
彼は、三河国岡崎城から柳川城へ入り、筑後一国を与えられた。
しかし、細川藩二代目・田中忠政が亡くなると、無嗣断絶となった。
その後継になったのは、福知山藩主の有馬豊氏である。
前藩主・田中氏の時代に一国一城令により、久留米城は破却されていたので、
城の修復と城下町の整備を行った。
今日の久留米の基礎は田中氏と有馬氏により築かれたのである。 」
久留米城跡は、JR久留米駅の北々東、筑後川沿いにある。
駅の東口から、駅前の神社がある交叉点を左折し、右折するとブリヂストン通りに出る。
左にブリヂストンの工場、右側にブリヂストンクラブというレストランがある。
さらに進みと、交叉点の手前に 「 ←久留米城跡 有馬記念館 」 の道標がある。
その先道の縁には、 「久留米城三ノ丸跡」 の石柱が建っている。
「 三の丸は、二の丸の南にある周囲を堀に囲まれた郭で、 御蔵屋敷・御蔵番屋敷・久留米藩の五名の家老の屋敷が置かれていた。 今はブリヂストン久留米工場の敷地となっていて、その位置に石碑が建っている。 」
「 久留米城は永正年間(1504年〜1521年)頃に、
在地の土豪により築かれた篠原城がはじまりといわれる。 当時は砦程度のものであった。
豊臣秀吉による九州征伐の後、毛利元就の九男・小早川秀包が
筑後国の三郡(御井、上妻、三潴)、七万五千石を与えられて入封し、天正十五年(1587)、
堀を掘削し石垣を積みあげ天守を置くなど、織豊期城郭への大改築を行った。
小早川秀包は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦で、西軍に属して戦い、
城主が留守の上、僅かな兵力しかいなかった久留米城は、黒田孝高や鍋島直茂などに攻められ、
開城勧告に応じて開城された。
秀包が改易となった後、田中吉政が筑後一国の領主として、柳河城に入城し、
その際、久留米城は支城として二男の吉信が入れたが、
慶長十一年(1606)に小姓から切りつけられその傷がもとで亡くなり、
久留米城は、一国一城令により破却された。
その後任になったのは、有馬豊氏である。
福知山藩主・有馬豊氏は、摂津有馬氏の一族で、細川澄元の曽孫という名門の血筋である。
豊臣秀吉により、遠州横須賀三万石の大名になったが、秀吉の死後は、
家康に接近し、家康の養女・連姫を娶り、関ヶ原の戦いの功により、石高が加増され、
六万石の福知山藩主となった。
更に、父の死去により、遺領二万石を得て、八万石の大名となった。
慶長十九年(1614)の大坂の陣に於いて、参戦して功を挙げ、
元和六年(1620) 十二月、筑後国久留米に二十一万六千石を与えられ、国持ち大名となった。
翌年三月、丹波国福知山より久留米に入部し、 幕府の御墨付きを獲て、
一国一城令により破却された久留米城の修築と城下町の整備に取り掛かった。
修築に際しては、 榎津城、福島城などの廃城の資材が転用されたといわれる。
また、丹波福知山の瑞巌寺を久留米に移し、梅林寺を建立している。
寛永八年(1631)、 筑前国福岡城主・黒田長政の指導により、筑前堀を完成させた。
慶安二年(1649) から四年掛かりで、外郭部を構築し、城下町を整備した。
元禄四年(1691)、四代頼元の代になって漸く城郭が完成し、
以後、明治維新まで、久留米は有馬氏の居城となった。 」
「 久留米城は北西側の筑後川を天然の堀とし、
比高十五メートルの川沿いの丘陵の頭頂部を平坦にして、本丸が築かれ、
その南側に二の丸・三の丸・外郭(四の丸)・柳原が配された連郭式平山城である。
天守はなく、本丸に二重の多聞櫓で連結された三重櫓が各隅に七棟配されていた。 」
交叉点を左折すると左側にブリヂストンの工場が続いている。
右側に小公園があるが、道端に 「久留米城二ノ丸跡」 の石柱が建っている。
説明文
「 江戸時代には本丸の南に二の丸と三の丸があり、
二の丸は周囲を堀に囲まれた郭で、藩主の御殿などがあった。 」
久留米駅から千一百メートル歩くと、 「篠山神社と有馬記念館」 の看板があり、 その先に本丸の石垣が見えてきた。
「 本丸は、南北約百五十六メートル、東西約九十六メートルと、 南北にやや長い長方形で、約十四メートルから十五メートルの高石垣で囲まれていた。 」
道を左に行くと堀と石垣があったが、かなり大きな高石垣である。
「本丸跡」の案内の先に、土橋のがあり、その上に、篠山神社の狛犬が鎮座している。
江戸時代、本丸に入るため、内堀に架かる土橋を渡ると、
正面に 冠木御門(二の門) があり、その先に 櫓門(一の門) があり、枡形を形成していた。
冠木御門は、本丸の大手虎口にあった 桝形門(平門) で、その虎口は、内桝形をしていた。
現在は、土橋の上に狛犬が鎮座し、その先の両側には冠木門土塀があった石垣が残っている。 」
冠木門跡に入ると、正面に 「久留米城本丸跡」 の石柱が建っている。
その左側に、石垣と常夜燈、その奥に鳥居が建っている。
その間にある石垣が、枡形虎口に櫓門が建っていた櫓台石垣である。
その先の西側の隅に、石碑が幾つか建っているが、その一つが 「西海忠士之碑」 である。
説明文
「 明治維新で倒れた筑後の人、真木和泉、水野正名など、数十名を表彰する碑である。
有栖川親王から賜った「西海忠士」の大書を刻した碑で、明治二十五年に建立されたが、
福岡西方地震で倒れたので、平成二十七年に復元した。 」
「太鼓櫓跡」 と書かれた石の黒いプレートがあり、 「 冠木御門の左手に位置し、三階建てになっていた。 」 と書かれていたので、江戸時代にはここに太鼓櫓が建っていたのだろうと思った。
楼門跡の石段を上ると、篠山神社と有馬記念館などの建物が建っているが、 ここは本丸跡である。
「 本丸の規模は、南北約百五十六メートル、東西約九十六メートルと、 南北にやや長い長方形で、高さ約十四メートルから十五メートルの高石垣で囲まれていた。 本丸は、中央に本丸御殿、それを取り囲むように、七つの櫓が築かれ、 櫓は二重の多聞櫓で結ばれていた。 」
左側に有馬記念館と茶室、千松庵がある。
「 江戸時代には本丸南西隅に三重櫓の坤櫓(ひつじさるやぐら)が建っていたが、 有馬記念館の左側の建物はその櫓の櫓台石垣の上に建てられている。 また、 その北にあった 「西下櫓跡」 に、有馬記念館が建てられている。 」
有馬記念館の前の井戸は本丸に残る井戸の一つである。
篠山神社は本丸御殿跡に建っている。
「 本丸御殿は、久留米城の中心となる建物で、歴代藩主が政務を執っていたが、
明治七年(1874)の廃城令により解体された。
明治十年(1877)、篠山神社は、その跡地に創建され、本殿(神殿)と拝殿が建っている。 」
「 乾櫓(いぬいやぐら) 跡 」 のプレートがあった。
「 明治四年(1871)に廃城となり、明治七年(1874)の廃城令によって、
城の大半の建造物は解体された。
乾櫓は本丸北西に建てられた三重櫓で、 その北側にあった多聞櫓とともに、
櫓台石垣は残っていなかった。 」
城の東北部に行くと、多聞櫓跡と思えるが、石垣が残っていた。
「 艮櫓 (うしとらやぐら) 跡 」 のプレートがあった。
「 艮櫓は、本丸北東に建てられた三重櫓で、 櫓台石垣の一部を欠損しているが、石垣が残っている。 」
艮櫓からは駐車場越しに筑後川が見えた。
本丸御殿跡 (篠山神社) の北西側に、固い岩盤をくり抜いて造られた大井戸がある。
現在は落下危険防止のため、覆いや金網が張られていた。
本丸には他に二つの井戸があり、その内の一つが前述の有馬記念館前井戸である。
「月見櫓跡」 のプレートがあった。
月見櫓は本丸東に建てられた三重櫓で、櫓台石垣が残っている。
その東にあったのは東御門である。
月見櫓に付属していたため、月見櫓御門とも呼ばれた門で、
現在は門礎石の一部が残っている。
下に降りて行くと、右側に駐車場があるが、
草むらに 「蜜柑丸(みかんまる)跡」 のプレートがあった。
「 蜜柑丸は本丸東側にあった腰郭で、蜜柑の木が植えられていたことから、 蜜柑丸と呼ばれていた。 現在は車道となり、一部が篠山神社の駐車場として利用されている。 」
高石垣の右側は、小さな石で積み上げられた古い手法の石垣で、
左側の石垣は、大きな切石積みの石垣なので、造られた時期が違うように思えた。
本丸南東隅に、「巽櫓(たつみやぐら)跡」 のプレートがあった。
「 巽櫓は、元和六年(1620)頃に有馬豊氏により建てられた、
天守の代用の層塔型の三重櫓である。
城で一番大きな櫓で、縦は約十二・七メートル、横は約十四・五メートルの大きさであった。 」
櫓台石垣が残り、「 青木繁 」 の石碑が建っていた。
これで、久留米の旅は終了である。
JR鹿児島本線久留米駅から徒歩約15分
久留米駅からバス18系統で6分、大学病院で下車、徒歩5分
訪問日 令和元年(2019)九月二十四日