名所訪問

「 670年の長きに亘り相良氏の居城 人吉城 」  


かうんたぁ。


人吉城は、北・西部を球磨川と胸川に囲まれた丘陵に築かれた城で、 鎌倉時代に地頭として下向した相良長頼が築いた城を、 戦国時代に子孫の長毎が石垣造りの城に改修したものである。 
城の東・南部は、山の斜面と崖を天然の城壁として、利用し、 丘陵の頂上に本丸、その先に二の丸、三の丸を配した、連郭式山城である。 
関ヶ原の戦いで東軍に付いた、相良氏は、所領を安堵され、二万二千石の人吉藩が誕生。 
相良氏は、明治維新までの770年間、人吉の地を統治した。 
城跡は、国の史跡に指定されている。 


熊本駅から、車で、国道445号、九州自動車道、県道54号を走り、人吉城歴史館へ、  85km、約1時間30分で、到着した。 

「 人吉城は、市内中央部に流れる球磨川の南側、 球磨川とその支流胸川の合流点の右側の山に築かれていた城郭である。 
人吉城歴史館は、 相良清兵衛屋敷跡に、 平成十七年(2005)に開館した施設で、 人吉城の立体模型や相良家の資料などが展示され、 石積みの地下室遺構が復元展示されている。 
当日は休館になっていたが、 日本100名城のスタンプは、会館の正面でなく、 車道に沿った二〜三台停められる場所の横のシャッターを開けるとあったので、捺印した。 
城の見取り図もあったので、これをいただく。 」

歴史館の周辺はふるさと歴史広場と空地になっているが、西外曲輪だったところである。 
左手に進むと、胸川に沿って、 角櫓 と 土塀(長塀) と 多聞櫓が 復元されている。 

「  隅櫓は、胸川が球磨川に合流する人吉城の北西隅の要所に建てられた櫓である。
元は藩の重臣・相良清兵衛頼兄の屋敷地であったが、 寛永十七年(1640) の 御下の乱 で屋敷は焼け、 その直後に隅櫓が建てられた。   幕末になると 漆蔵 として使用され、 文久二年(1862) の 寅助火災 では焼失せず、 明治維新の廃藩置県に他の建造物とともに払い下げ、撤去された。 
瓦葺きの入母屋造りで、梁間三間半(7m)、桁行十一間(22m)、壁は上部は漆喰塗りで、 下部は板張りとし、内部は廊下があり、三部屋に分かれている。 
今の建物は平成5年に復元したものである。 」

隅櫓の右手には、「御下の乱」 の供養碑が建っている。 

「 寛永十六年(1639)、当時の城主・相良頼寛は、 父・長毎(ながつね) の遺言により、 専横を極めていた家老の 相良(犬童)清兵衛頼兄(よりもり) を幕府に訴えた。  翌年、清兵衛は津軽藩お預けの処分を下られたが、 これを不服とした清兵衛の養子・半兵衛らは、反乱を起した (御下の乱) 
犠牲になった半兵衛方百二十一人を供養するため、この碑は建立された。 」

人吉城歴史館
     隅櫓      供養碑
人吉城歴史館
復元された隅櫓
「御下の乱」 供養碑


隅櫓の前方に礎石だけが残っている場所があり、 その前に 「軍役蔵跡・買物所」 の説明パネルがある。 

説明パネル「軍役蔵跡・買物所」
「 角櫓の南に位置するこの場所は、絵図面にある軍役蔵と買物所の一部にあたる。 
発掘調査の際、両施設を区画すると考えられる南北方向の溝をはさみ、 西側の軍役蔵の敷地内には、蔵が3棟南北に立ち並び、 南端には防火用水とみられる溜枡2基があった。   また、東側の買物所の敷地北西部には蔵が1棟建てられていた。 
「軍役蔵」「買物所」 といった藩の施設が具体的にどのようなものであったか、 はっきりしないが、これらの蔵の構造は土塀で、漆喰塗りの土蔵風建物であったと考えられる。 」

隅櫓から左、 胸川に沿って、長塀(土塀)が続く。 

説明パネル「長塀跡」
「 球磨川と胸川に面した石垣上には、 要所に櫓が築かれ、 櫓や門の間には塀が立てられた。  宝永4年(1707) の大地震で、塀の一部が損壊すると、外側の下部には腰瓦が張られた。  また、塀の一部には、石落しのための突き出し部があった。 」

長塀(土塀) と 多聞櫓 は平成五年に復元された建物である。 

説明パネル「多聞櫓跡」
「 石塁上に建つ細長い櫓は、 一般的に多聞(多門)櫓と呼ばれる。 
人吉城の多門櫓は、 城の正面口である大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓である。 
大手門櫓・角櫓と同様、江戸時代前期の1640年代の建てられ、 宝永4年(1707)の大地震で傾いたので、修理されている。 
幕末になると、「代物蔵」として使用され、寅助火事でも焼失せず、 廃藩置県後の払い下げで撤去された。 
写真は医師の佐竹文敬により、明治初期に撮影されたものである。 
建物は石塁に合わせて鍵形となっており、梁間2間(4m)、桁行25間(50m)で、 瓦葺きの入母屋造りの建物である。 
壁は上部を漆喰塗りとして窓をつけ、下部は板張りとしている。 」

軍役蔵・買物所跡
     長塀跡      多聞櫓
軍役蔵・買物所跡
長塀跡
復元された多聞櫓


多聞櫓前の道の反対に縦列で数台停められるスペースがある.
その上の空地に、「渋谷家屋敷跡」の説明パネルがあり、屋敷き跡を示す礎石がある。 

説明パネル「渋谷家屋敷跡」
「 城の正面である大手門周辺は、城の防衛にとって重要な場所であるので、 監視のための番所を置き、重臣の屋敷を配置して戦時に備えた。  この場所は、 寛永16年(1639) の絵図では、 西然太郎屋敷と下台所屋敷であったが、 翌年の御下の乱 (おしものらん) によって焼失した。  その後、 天保期(1830-1844)の絵図では、 家老の渋谷三郎左衛門(150石)屋敷となっている。  発掘調査の結果、 渋谷家は、鍵形の母屋を中心に、 土蔵、泉水、井戸などを配しており、 屋敷周りには塀をめぐらしていた。  母屋は広さ262u(約80坪)で、 台所、広間、座敷、寝間など5部屋からなり、 台所隅には食糧貯蔵用の穴倉がある。  広間前の泉水には、魚の寝床となる壺2個がすえられていた。  屋敷の北西部には、 塀で囲まれる木屋 (小屋) の 掘立柱建物(2間X4間) がある。 
平成3年復元整備。 
  平成5年3月  人吉市教育委員会   」

多聞櫓前に戻ると、多聞櫓の左側の道の両側に石垣があり、 「大手門櫓台」 の説明パネルがある。 

説明パネル「大手門櫓台」
「 胸川御門 とも呼ばれた大手門は、 城の正面入口となる重要な場所であったので、 石垣の上に櫓をわたして、 下に門を設けた。  大手門櫓は、 正保年頃(1644〜1648) に建てられ、 享保5年(1730) に造り替えられたが、 明治初期の払い下げにより、 撤去されている。  門の南側には、 櫓台から胸川に対し、 石垣を堤防状に築き、 雁木 (城壁にのぼるために設けられた石段)   を用いて、多くの城兵が一度に門脇の塀裏に 駈け上がれるように工夫されている。 
現在は、横に長く雁木が続いているが、 18世紀後半に描かれたとされる 「人吉城大絵図」  には、 大手門の櫓台から続くコの字構造の塀が、太字で描かれている。  発掘調査では、この絵図と同じように、長さ1m大の巨石が列をなしていることが確認され、 コの字構造の塀の基礎と推定している。 
  平成27年3月  人吉市教育委員会    」

説明パネル「大手門」
「 大手門は、城の正面入口となる重要な場所にあるため、 門の上に、矢倉(櫓) を造り、 その櫓を鍵形の通路にして、 これに橋を架けていた。  (現在の大手橋の位置と異なる。 
櫓は、間口24m、奥行5mの建物と見られ、 切妻型の瓦葺きの屋根、壁は上部は漆喰塗り、下部は板張とする。  大手門橋は昭和初期まで残っており、高畠という人物が描き残している。 」

渋谷家屋敷跡
     大手門櫓      櫓台と雁木
渋谷家屋敷跡
大手門櫓
雁木と大手門櫓台


以上で西外曲輪の見学を終了。

車を南東にある観光駐車場に移動させ、山側の城郭跡に向った。 

道の向うに相良神社があり、交叉点の左手に元湯がある。 
交叉点を渡ると、 勝海舟の書がある、日蓮宗の林鹿寺 である。 

道の反対は蓮池で、相良神社の石垣がある。 
池に架かる橋を渡り、境内に入ると鳥居が建っている。
神橋の手前に 「御館(みたけ)入口」 の説明パネルがある。

説明パネル「御館(みたけ)入口」
「 御館は、代々の城主が居住していた所で、南を正門入口とする。 
前には溜池があり、多脚式の石橋を渡った所に、 本御門が建ち、その内側右手に門番所を置いて出入りの監視をしていた。 
石橋は、 明和3年(1766) に、 山田村の石材を切り出し、 領内各村に割当をして運搬させ、 建設されたが、 各村民は作業割当日の翌日に交代で踊りを披露している。 」 

江戸時代には、石橋の先に、正門である御門があった。 
また、藩主の館(一般的には御殿といわれる館)が建ち、監視をする番所があった。

林鹿寺
     相良神社神橋      相良神社
林鹿寺
相良神社神橋
相良神社鳥居


参道に、「 昭和53年 駆逐艦秋月戦没者慰霊祭 斎行 」 の奉納看板があった。

「 昭和53年に、駆逐艦秋月戦没者慰霊祭を斎行した際、奉納されたものである。
駆逐艦 ・ 秋月は、第三艦隊/第十戦隊/第六十一駆逐隊で、駆逐艦群を構成する一隻である。
昭和十九年十月、エンガノ岬沖で、米軍の爆撃機により、撃沈し、 乗艦していた乗務員のうち、183名が、戦死している。 
その戦没者を慰霊する式典がこの神社で行われたということである。 」

この一帯が、一国一城令で、上部の城郭が使用できなくなり、 相良氏が居住し執務する御殿が建てられたところであるが、明治維新後取り壊されてしまった。 
奉納看板の奥に、相良氏が御館のために築園した庭園が残っている。 

説明板「御館(みたち)跡庭園」
「 御館は、天和三年(1683) に、城主・相良氏の居宅が置かれて、 藩政の中枢となった場所である。 
公的な接客・饗応を行った表御殿の南端には、 玄関がついた大広間や使者ノ間がおかれていて、 この庭園を眺望できるようになっていた。 
本庭園は、霞がたなびくような中島を浮かべる池と、 優美な稜線を重ねる築山群による雅やかな空間の中に、 立石(りっせき) 群からなる力強い滝石組を要に、 三様を見せる石橋を見所として配する、 池泉回遊式庭園である。 
庭園空間は、園内にとどまらず、背後の高御城や原城の丘と一体ものであり、 重要な鑑賞位置である池の北岸の礼拝石と、 滝口を結ぶ軸線は、中世相良氏の古城跡へと向かう 構想は、 水の流れに、鎌倉以来の相良氏の歴史を重ね、 一族の由緒をたどる祖先敬慕の遙拝庭園である。 
優雅にして力強く、 小空間にして宏大であり、 眺めにも勝る相良氏の想い。  歴史ある大名ならではの名園と言える。 
 監修 作庭家 野村勘治    
    平成二十四年三月  人吉市教育委員会   」

参道の奥にあるのは、相良護国神社の拝殿である。 

「 明治十三年(1880)、 人吉城の御館跡に、相良神社と相良護国神社が創建された。  拝殿の右側に宝物館があり、奥に相良護国神社の本殿がある。  拝殿の左側には渡り廊下で続く建物があるが、これは相良神社である。  相良家初代〜36代の歴代当主の名札があり、歴代当主が祭神として祀られている。 
護国神社の社地は水ノ手門跡の石垣の裏から蓮池までの縦に長い長方形である。 」

駆逐艦秋月戦没者慰霊祭
     御館 庭園      相良護国神社拝殿
駆逐艦秋月戦没者慰霊祭奉納看板
御館 庭園
相良護国神社 拝殿


御館跡庭園の端に、「本丸 二の丸 三の丸→」 の道標があり、坂を上る石段がある。 
本来はここに道はなかったのだが、 見学者用に城主館から三の丸への階段がつくられたようである。 

「 人吉城は、藩主の居館・御館の右手の山(丘)に 三の丸・二の丸。本丸が配されていた。   」

三の丸へは、距離は短いが、けっこう急である。 
階段を上りきると、東屋がある広場に出た。 
ここは三の丸の北西部で、西の丸といわれたところである。 
右側(南側)に、三の丸を横断する南西曲輪石垣がある。 

東屋がある西の丸の北からは、 球磨川に架かる水の手橋や、市街地が一望できた。 

三の丸への階段道
     東屋と石垣      人吉市眺望
三の丸への階段道
西の丸 ( 東屋と南西曲輪石垣 )
人吉市眺望


石柱の周りに礎石があるところは、於津賀社跡で、説明板が建っている。

説明板「於津賀社跡」
「 初代相良長頼の入国前の人吉城主であった、 平氏の代官の矢瀬主馬佑を祀る霊社跡である。 
第2代頼親が建立し、初めの頃、御墓(塚)大明神という。  文化18年(1840)に再興され、元和年間(1620年頃)に於津賀と改め、 寛永7年(1630)に造替られた。 
社殿は南向きで、 板葺きの御殿(神殿)と添殿(拝殿)の2棟があり、現在その礎石が残っている。 
   平成5年3月 人吉市教育委員会  」

上記を補足すると、

「 源頼朝に仕えた、遠江国相良荘 国人の相良長頼は、 元久二年(1205)、 肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。
当時、この地を支配していたのは、 平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑であった。   相良長頼は、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺した。 これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は、恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。
三の丸に、鎮魂の為に建立されたのが、「於津賀社」 である。   」

その南西に三の丸を分断する石垣があり、右側の道を石垣に沿って進む。
石段をのぼると三の丸の南東曲輪である。

かなり広い芝生広場で、周囲の崖の上には竹で編んだ垣根を巡らせ、 奥には、二の丸の石垣が見える。 
江戸時代には、三の丸を分断し、一段高くなった南東曲輪石垣のあたりに、 二軒の塩蔵が建っていた、という。
今は、二の丸の石垣の前に、「三ノ丸跡」 の石柱があるだけである。 

於津賀社跡
     三の丸石垣      三の丸跡
於津賀社跡
三の丸石垣
三の丸南東曲輪


奥の二の丸石垣には、二ノ丸からの排水溝が見える。 

三の丸北東曲輪から、二の丸石垣に沿って、階段を降りると、三の丸の北曲輪の一角に出る。  
案内には、 「 中御門の手前あたりに井戸があった 」 と、あるが、 石垣や通路の上に草が生い茂り、草叢のようになっていて、確認できなかった。 

右手の石段を上りきったところの両側に、二の丸の石積み(石垣)がある。
ここに、 「埋門」 があったといわれる。

二の丸石段と排水溝
     三の丸北西曲輪      二の丸石垣と埋門跡
二の丸石段と排水溝
三の丸北西曲輪
二の丸石垣と埋門跡


石段の上には、樹木が多く植えられており、視界をさい切っているが、 二の丸跡である。 
ここには、 江戸時代、六棟の建物が建つ二の丸御殿があった。 
今は、「二の丸跡」の説明板と、 「二の丸跡」の標柱が立っているだけである。 

説明板「二の丸跡」
「 戦国時代までの人吉城は、東南の上原城を本城とする山城であり、 この場所は  「内城」 と呼ばれる婦女子が生活する地区であった。  天正17年(1589)、 第20代長毎(ながつね) によって近世城としての築城が始まると、 本丸や二の丸の場所となり、 慶長6年(1601) には、石垣が完成している。  二の丸は、 江戸時代の初めに、 「本城(本丸)」 と呼ばれているように、 城主が住む御殿が建てられた人吉城の中心となる場所である。 
周囲の石垣上には、瓦を張り付けた土塀が立ち、 北東部の枡形には、櫓門式の 「中の御門」 ( 2.5間X9.5間 ) があり、 見張りのために番所が設けられた。  また、北辺には、御殿から三の丸へ下る 「埋御門」 が土塀の下に作られ、 この他に、「十三間蔵」 ( 2間X13間 ) や井戸があった。 
三の丸は、二の丸の北・西部に広がる曲輪で、 西方に於津賀社と、2棟の塩蔵 ( 2.5間X6〜7間 ) を、 東の 「中の御門」 近くに、井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。  その周囲には、当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、 「竹茂かり垣」 と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。 
これは、人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的があった。 
二の丸御殿   享保4年(1719) の 「高城二ノ丸指図」 によれば、 御殿は。北側を正面にするように配置され、 「御廣間」 ( 4間X9間 ) ・  「御金ノ間」 ( 6間四方 ) ・  「御次ノ間」 ( 4間X6間 ) の 接客・儀式用の 表向建物と、 「奥方御居間」 ( 3間X8間 ) ・ 「御上台所」 ( 3間X9間 ) ・ 「下台所」( 5間X8間 ) の 奥向 の建物の合計6棟からなる。 
これらの建物は、すべて板葺きの建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、 建物の間には、中庭が作られている。 
この内、 「御金ノ間」 は、襖などに金箔が張られていた書院造りの建物で、  城主が、生活・接客する御殿の中心となる建物である。 
   平成5年3月  人吉市教育委員会  」 

このまま進めば本丸だが、それに気が付かず、三の丸へ下りた。 
そのまま進むとあったのが、御中御門 跡の石垣である。 
石段両側の石垣の上に、 櫓門がドーンと乗っていたことを想像すると、その巨大さには驚く。 

中御門は右枡形になっていたようで、石段が右へ右への続く。 

「 中御門の東側は、三の丸東曲輪があったところである。 
ここには建物は建てられず、広場のままだった、といわれる。 」

二の丸跡
     御中櫓門石垣      御中門跡
二の丸跡
御中櫓門 石垣
御中門跡


石段を上りきると、先程の二の丸跡の杉林の左端に出た。 
奥に続く道を進むと石段がある。 

石段を上ると、「本丸跡」 で、東屋と「本丸跡」の説明板がある。
本丸は、この山で一番高いところにある。 空地になっていて、礎石跡があるだけである。 

説明板「本丸跡」
「 本丸は、はじめ 「高御城」 と呼ばれていた。 
地形的には天守台に相当するが、 天守は建てられず、 寛永3年 (1626) に護摩堂が建てられ、 その他に、御先祖堂や、時を知らせる太鼓屋、 山伏番所があった。 
礎石群は、 板葺きで、 4間四方の二階建ての護摩堂跡である。 
中世には、「繊月石」 を祀る場所であったように、 主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。 
  平成5年3月 人吉市教育委員会  」

(注) 相良長頼が、 矢瀬主馬佑の城を拡張し、 人吉城の基礎を造ったが、 その築城の際、 三日月型の模様の入った石が出土した。  
上記の 「繊月石」 は、それを指すのだろう。 
このため、人吉城の別名は、「繊月城」とも、 「三日月城」 とも言う。

見晴しは良くないので、長くはいられない。 
そのまま、  御中門まで下り、 御下門跡に向かって、石段を下りていく。 

 

本丸への石段
     本丸跡      石段を下る
本丸への石段
本丸跡 (護摩堂跡)
石段を下る


道は左右にカーブしながら続く。 下方に高石垣が見えてきた。  これが、御下門跡 の石垣群である。 
御下門櫓門 の建っていた場所の真下 、 中央にある石組は、 門扉を閉めた時、 中央で止めるための石材である。 

説明板「御下門跡」
「 御下門は、「下の御門」 とも呼ばれ、 人吉城の中心である、本丸 ・ 二の丸 ・ 三の丸 への唯一の登城口に置かれた門である。   大手門と同様の櫓門形式で、 両側の石垣上に、 梁間2間半 ( 5m ) 、桁行 10間 (20m) の櫓をわたし、 その中央下方の 3間分 を門としていた。  門に入った奥には、出入り監視のための門番所があった。 
  平成5年3月 人吉市教育委員会  」

下まで下りて、 御下門の石垣を見ると、 三段構成になっていて、 一番下は、古いタイプの石垣、 二段目には櫓門が載っていた。  一番高い三段目石垣の上に、建物が載っていたのかは不明という。 

門の外は、東外曲輪である。 
球磨川寄りの土地は立ち入り禁止になっていた。 
人吉水害ではこの川寄りの低い土地は水に浸かり、被害がでたためだろう。 

左折して川に沿って進むと、「故郷乃廃家」 の歌詞が書かれた石碑があり、 「犬童球渓」 の説明板があった。

説明板「犬童球渓(いんどうきゅうけい)」
「 本名を犬童信蔵という。 明治12年(1879)3月20日、人吉市西間下町で出生。  昭和18年(1943)10月19日、同所で逝去。  生涯の大半は教職にあり、最後は地元の旧制人吉高等女学校で指導にあたった。  人吉が生んだ偉大な音楽家で、作詞・作曲は360余作品にのぼる。  なかでも 「故郷の廃家」、「旅愁」 は、広く知られている。  この2曲は、 旧制新潟高等女学校在籍中に、 ふるさと人吉をしのんで作詞されたものと思われる。 
 (以下省略)  」

御下門櫓台
     御下門跡      「故郷乃廃家」の歌碑
御下門櫓台 (中央) 門扉止石
三段 の 御下門石垣
「故郷乃廃家」 の 歌碑


その先の左手、芝生地には礎石群があり、「大村米御蔵跡・欠米蔵跡」 の説明板がある。 

説明板「大村米御蔵跡・欠米蔵跡」
「 人吉藩では、藩内12ヶ所に 米蔵を置き、このうちの 間(村)蔵 と 大村蔵 は、 それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟づつあった。  大村米御蔵 (西側礎石群) には隣接して、 欠米御蔵(東側礎石群) があった。 
両方とも瓦葺きで、 4間 X 10間 の長大な建物であった。  発掘調査で、「御用米」 「免田納米」 「上村納米」 と墨書した木札が出土している。  右手の門は堀合門である。 
    平成4年3月  人吉市教育委員会  」

その先に 「史跡 人吉城跡」 の石柱があった。
その先に、 復元された堀合門 と 御館の城壁(石垣)がある。

説明パネル「堀合門」
「 堀合門は、藩主が住む御館の北側にあった表門で、 文久2年(1862) の 「寅助火事」 でも難を逃れました。 
明治4年(1871) の廃藩置県以後は、城外の士族である、新宮家(土手町)に移築され、 人吉城唯一の現存する建造物として、市の有形文化財に指定されています。 
形式的には棟門と呼ばれるもので、 化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の曲線が特徴的である。
門跡の発掘調査では、 門柱を建てた2つの礎石跡と、その西側にあった排水溝が確認されました。 
この門は、旧位置での発掘調査結果や、移築され現存する門、 絵図に描かれた絵図に基づいて、 平成19年度に、塀や排水溝とともに、復元しました。 
    平成20年3月  人吉市教育委員会  」

江戸時代には、その先の右側に、 水の手門 があった。 

説明パネル「水ノ手門跡」
「 慶長12年(1607) から、球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。 
水運を利用するため、 川に面した石垣には7個所の船着場が造られ、 その中で最大なものが水ノ手門である。 
この門は、 寛永17年(1640) から幕末まで、 人吉城の球磨川に面する城門であった。 
享保13年(1728)、 「御修理場御本帳写」 によると、 門の規模は三間で、 門の内側に板葺きの御番所、茅葺の船蔵があった。  平成11年度の発掘の結果、 門は大きく壊されていたが、 階段や排水溝が確認できた。 
川側にあった船着場は、石張りの傾斜面になっていて、 水位の増減に対応できるように工夫されていた。  水ノ手門近くにある 大村米蔵跡 ・ 欠米蔵跡の発掘調査では、 「御用米」 「免田納米」 「上村納米」 といった木札が出土していて、 免田や上村方面から、年貢米が球磨川の水運を利用し、 この門から城内に運び込まれていたことがわかる。 
    平成19年3月  人吉市教育委員会  」

大村米御蔵跡・欠米蔵跡
     堀合門と石垣      水ノ手門跡
大村米御蔵跡 ・ 欠米蔵跡
人吉城跡碑 と 堀合門 ・ 石垣
水ノ手門跡


その先の城壁を見ると、城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んである。 
これは 武者返し という仕組みのようである。 
城壁の下に、「武者返し」 の説明パネル板がある。 

説明パネル板「武者返し」
「 御館北辺の石垣上には、絵図にみえる長櫓があったが、 文久2年(1862)の 「寅助火事」 で焼失した。  翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、 その上端に、槹出工法(はねだしこうほう) による 「武者返し」 と呼ばれる突出部をつけた。
この工法は、西洋の築城技術で、 嘉永6年 の 品川台場(東京) で 初めて導入され、 五稜郭(北海道) や 龍岡城(長野) 等の西洋式城郭で採用されているが、 旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。 
    平成5年3月  人吉市教育委員会  」

武者返しは、城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、 ねずみ返しのように、城壁越えを阻止すると共に、 割合簡単に落下させられるようになっていて、 城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。

当日も修復工事が続けられていて、 城壁の端の石に番号が振られ、 その順番に積み直し、 固定のため、 テグス糸で囲われていた。 

以上で人吉城の見学は終了である。 

武者返しのある城壁
     修復中の石垣      日本100名城スタンプ
武者返しのある城壁
修復中の石垣
日本100名城スタンプ




水の手橋を渡り、右手に行くと、「球磨川下り」 の船が出るのであるが、  コロナの影響でやっていなかった。 
観光客もいなく、小生も市内の温泉に泊まるのはやめて、熊本で泊まることにした。 

左折して球磨川沿いにある商店街を車で走らせた。
このあたりは床上浸水で被害をうけた地区で、 今も修理ができないままになっている家を何軒も見た。 

最後に訪れたのは、出町橋を渡った先の右手にあった 「青井阿蘇神社」 である。 

青井阿蘇神社由緒
「 当神社は、第五十一代平城天皇 の 大同元年(806)、肥後国阿蘇郡鎮座阿蘇神社 の御分霊を 阿蘇の神主此所 に勧請すと、 御鳥羽天皇建久九年 相良氏当郡に封じられ、其の後、 慶長二年、 二百五十余社 の宗社と定め、 神領二百十六石を供莫し、 大宮司をして統轄せしむ。  祭礼最も壮厳を極め、 神社を中心として、領内に祭政一致の範を示し、 子孫累代其の遺風を守り、 明治初年に及ぶ。 爾来 、当地方の一の宮として、 郷民深く尊崇す。  本殿、渡殿、幣殿、楼門は国の重要文化財にして、 慶長五年(1600)、 藩主 相良長毎之を奉納す。  豪華絢爛たる桃山様式の代表的建造物で、 楼門の神額は 天台座主二品法親王 の 親筆 である。  明治五年 郷社に列格、 昭和十一年県社に昇格、 昭和三十四年神社本庁の別表神社に加列せらる。  」 

青井阿蘇神社は、 千二百年以上の歴史を持ち 御祭神は 健磐龍命(たけいわたつのみこと) 、 阿蘇都媛命(あそつひめのみこと) 、 国造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと) である。 
茅葺の桃山様式の楼門は、 華やかさと迫力を醸しだし、 圧倒的な存在感を示している。 

拝殿には 向背が付き、 その後に、幣殿、廊、本殿が続く。 
屋根は茅葺という今まで見たこともないものである。 

「  社殿群 ( 本殿 ・ 廊 ・ 幣殿 ・ 拝殿 ・ 楼門 )は、 慶長十五年(1610) から 慶長十八年にかけて造営されたもので、 統一的な意匠を持ち、 完成度が高い。  近世球磨地方に展開した独自性の高い意匠を継承しつつ、 桃山期の華麗な装飾性を機敏に受け入れ、 近世球磨地方の社寺造営の手本となっている。  
雲龍など要所を飾る華麗な彫刻、 特異な拝殿形式は広く南九州に影響が認められ、 南九州地方の近世社寺建築の発展において、 深い文化史的意義が認められることから、 平成20年6月9日、 熊本県で初で、 茅葺社寺建造物初の国宝指定を受けた。 」

楼門の外に出ると、鳥居が見えたが、蓮池に架かる神橋の欄干は壊れて、横たわっていた。 
水害のすさまじさを感じた。
神社の駐車場の上にあるカフェに寄り、暑かったので、氷水を頼み、一服。
人吉の旅は終わった。 

青井阿蘇神社授与所と楼門
     国宝の本殿と幣殿      鳥居と壊れた橋
青井阿蘇神社授与所と楼門
国宝の本殿と幣殿
鳥居と壊れた神橋



熊本駅から高速バスでJR人吉駅まで約1時間30分
鹿児島空港から直行高速バスで約1時間
JR人吉駅から徒歩で10分
(注) 令和二年七月に豪雨により、JR八代駅〜人吉駅(肥薩線)の線路が洪水で押し流され、 開通の見込みは立たないという。
八代駅〜人吉駅に、高速バスが運行されているので、それを利用するといい。

訪問日    令和三年(2021)八月二十五日



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