小倉は、律令制度時代に、豊前国企救郡の一地域になったが、
今日の小倉の基礎を作ったのは、小倉城を築城した、細川忠興である。
その後、小笠原氏の統治下で明治を迎え、小倉県の県庁所在地になった。
福岡県に統合後は、小倉市になったが、現在は北九州市の一部を構成している。
門司は、第二次世界大戦の終結前までは、大陸への客船が出入りする賑わいのある港であった。
◎ 小 倉
小倉は、律令制度時代に、豊前国企救郡の一地域になったが、 今日の小倉の基礎を作ったのは、小倉城を築城した、細川忠興であろう。
「 小倉城の前身の城は、十三世紀中頃、
紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれる。
戦国時代に入ると、北九州の覇権を狙って、菊池氏・毛利氏・大友氏などが、
戦いを繰り広げた。
天正十五年(1587)、毛利勝信が総石垣造の城郭を築いたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、
改易になった。
東軍についた細川忠興は、徳川家康より論功報償として豊前国が与えられ、
四十万石の大名になり、中津城に入城する。
慶長七年(1602) から、毛利勝信が築いた小倉城を改築し、七年かけて、
南蛮造の天守などを建てた。
併せて、城下町を整備し、紫川で東西に二分し、
西は主として侍町、東は町人や下級武士の町とした。 」
新幹線で小倉駅に到着し、駅構内で名物のチーズカレーを食べ、一服した。
在来線に乗り換えて、西小倉駅に行き、
駅を出て清張通りを進むと、十分程の交叉点の左手に小倉城の堀がある。
交叉点を左折して進むと、道の右側に八坂神社の鳥居がある。
堀にかかる橋を渡ると朱の東楼門があり、その先に八坂神社があった。
ここは小倉城北の丸跡である。
「八坂神社の由来書」
「 元和三年(1617)、小倉城主・細川忠興が、神殿を鋳物師町に建立し、豊前国の総鎮守とし、
祇園社と称した。
寛永九年(1632)、細川氏は肥後国に移り、代わりに、小笠原忠真が十五万石で入城したが、
神社の庇護は小笠原氏へ引継れ、明治維新を迎えた。
昭和九年、陸軍が師団を置いていた跡地の北の丸に遷座された。 」
八坂神社の境内を通り抜けると、小倉城の郭と天守閣が樹木の間から見えてきた。
「大手先門跡」 の石柱の先には、近代的なビルの北九州市役所などが見える。
「 細川忠興が築城した小倉城は、
「唐造り」 とよばれる全国でも珍しいもので、
本丸を中心にして、南に松の丸、北に北の丸、それらを囲い込むように、
二の丸・三の丸・外郭が配された梯郭式平城であった。
慶応九年(1866) の長州戦争で、 小笠原氏の小倉藩は、長州軍の攻撃前に小倉城撤退を決め、
八月一日、小倉藩自らの手で、小倉城に火をつけて、焼失させてしまう。
明治時代の廃藩置県で、小倉県となり、県庁所在地となったが、
明治九年(1876)に福岡県に合併され、県庁所在地ではなくなった。
明治八年(1875)には 陸軍歩兵旅団の本部が松の丸跡に、
明治三十一年(1898)には、第十二師団司令部が本丸跡に置かれた。
大正に入り、師団は久留米に移転、昭和九年、八坂神社が北の丸跡に遷座された。
小倉城の跡地には、 小倉北勝山公園と八坂神社、小倉城庭園 などがある他は、
北九州市役所などの公共施設が建っている。 」
目の前に、天守閣がある。
「 細川忠興が建てた天守閣は、四重五階の大天守と、
一重の小天守からなる連結式層塔型天守である。
大天守は、最上階外廻縁が幕府への遠慮により、 重数(階数) を少なく見せるため、
雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、 いわゆる唐(南蛮)造りで、
最上層の入母屋破風を除き、破風が一切ないものだった。
この天守は、天保八年(1837)に失火により御、殿とともに焼失。
その後、天守台に 「御三階」 と呼ばれる建築を建てて、天守の代用としたとされる。
現在の天守閣は、昭和三十四年(1959)に、鉄筋コンクリート構造によって建てられたものである。
豊前小倉御天守記や小倉城絵巻、延享三年巡見上使御答書等を基に設計されたが、
地元観光面からの要望によって、
大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が追加されている。 」
天守閣の前には平成十年(1998)に大名屋敷と庭園を開設した。
また、堀の周りには櫓が再建されている。
天守閣の周囲を歩くと、「第十二師団司令部跡」 の標柱や、長州戦争の大砲があった。
また、いくつかの門跡が表示されていて、門跡の石垣には当時を偲ぶ感じがした。
小倉城へはJR山陽新幹線・鹿児島本線・日豊本線小倉駅から徒歩15分、鹿児島本線・日豊本線西小倉駅から徒歩10分
◎ 門司
昨夜、小倉から下関に移動し、ふく料理を食べ、ホテルへ宿泊した。
下関から関門汽船で、門司に渡る。
あっという間に対岸の門司港に到着した。 船を待っている時間の方が長かった。
門司港からJR門司港駅までに古い建物が残っている。
「 門司は、明治二十二年に、石炭を運び出す特別港に『指定され、 貿易港としての地位を固めた。 大正から第二次世界大戦まで、門司港からは一ヶ月の間に、 台湾、中国、印度、欧州へ六十隻もの客船が出航していたといわれる程の繁栄を見せ、 銀行・商社・船会社が支店を構えた。 現在は、門司港レトロとして、九州を代表する観光地になっている。 バナナのたたき売りの発祥地ともいわれるところである。 」
オレンジ色タイルと白い石の帯が調和したデザインの外観、八角形の塔屋の美しいビルは、
大正六年(1917)に建てられたもので、当時は大阪商船門司支店として営業していたのである。
一階は待合室、二階はオフィスとして使われていて、
外国へ胸躍らせて旅立つ人々で大変賑わっていた、という。
その先にある白いビルは日本郵船門司支店だったビルである。
交叉点を左折して行くと左側にあるのは、
国の重要文化財に指定されている、旧門司三井倶楽部の建物である。
「 旧門司三井倶楽部は、 大正十年に三井物産の社交倶楽部として建てられたものである。 ハーフティンバー様式 (木骨様式) と呼ばれる、 ヨーロッパ伝統の木造建築工法で建てられたもので、 木造の骨組みの間を漆喰やレンガ、石などを使って埋めて壁が作られ、 木造の骨組みがそのまま外観デザインのアクセントとなっている、 大正モダンを感じさせる建物である。 内装には、各部屋にマントルピース(暖炉)が配置され、 ドア枠、窓枠、大階段の親柱などには幾何学模様のアールデコ調の飾りがされている。 全国を講演をする為に来日した、アインシュタイン博士が宿泊した。 」
現在の旧門司三井倶楽部は、一階がレストランやイベントホール、
二階にはアインシュタインメモリアルルーム、
門司出身の女流作家、林芙美子の資料室がある。
その他、周囲には門司港税関などレトロな建物が残っているが、
これらを見ると門司港の繁栄ぶりはいかばかりと思った。
訪問日 平成二十八年(2016)一月二十日〜二十一日