司馬遼太郎著の「夏草の賦」の上巻には
「 英雄豪傑が各地に輩出し、互いに覇をきそいあった戦国の世、
四国土佐の片田舎に野望に燃えた若者がいた。 その名は長宗我部元親。
わずか一郡の領主でしかなかった彼が、武力調略ないまぜて土佐一国を制するや、
なだれ込んだ。
四国を征服し、あわよくば京へ ・・・ 。
が、そこでは織田信長が隆盛の時を迎えようとしていた。 」 という見出しがある。
妻に勧められて読んだ「夏草の賦」に誘発されて、長宗我部元親ゆかりの高知の城跡をたずね歩いた。
岡豊城は、
四国を平定した戦国の風雲児・長宗我部元親の居城として知られる中世の城跡である。
平成二十年(2008)、国の史跡に指定された。
また。平成二十九年四月六日、続日本100名城の第180番に選定された。
◎ >岡豊城
岡豊城は、高知市の北東に位置し、南国市岡豊町八幡にある。
駅からは離れているので、レンタカーで行った。
国道三十二号から県道384号に入り、信号交叉点を南に登っていくと、
歴史民俗資料館がある。
ここから南西にある岡豊城跡公園までが、岡豊城跡である。
「 岡豊城は、南国市の北西部、香長平野の北西端に突き出た、
標高八十七メートルの岡豊山に築かれた城である。
岡豊城は、詰(本丸に相当する)を中心とする本城といわれる部分と、
西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の二つの出城からなる、連郭式の構造である。
本城は、 詰と堀切により隔てられた二ノ段、
詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三ノ段、 四ノ段からなり、
城の中心部への出入口になる虎口は、西部に造られている。
昭和六十年(1985)より、平成二年(1990)にかけて、発掘調査が行われたが、
詰、詰下段、三ノ段では礎石建造物跡や、土塁の内側に石積みが発見された。
多量の土師質土器と共に青磁、白磁、染付などの輸入陶磁器、
瀬戸、備前、常滑などの国産陶器、
渡来銭、小刀、火縄銃の部品や弾丸などが見つかったという。 」
資料館を少し見てから、資料館脇の石段を登ると、「二ノ段」 に出た。
説明板「二ノ段」
「 二ノ段は、堀切によってへだてられた曲輪で、長さ四十五メートル、
最大幅二十メートルのほぼ三角形であり、南部には高さ八十センチの土塁が残っていた。 」
二ノ段から詰に向うと、谷のような堀切がある。
説明板「堀切」
「 堀切は、尾根などを空掘によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設である。
岡豊城の堀切は、詰と二ノ段の間に一本、 北に延びる尾根上に二本、
西の伝厩跡曲輪との間に二本、同じ曲輪の北西部に二本造られた。
堀切は、いずれも幅三メートル〜四メートル、深さ約二メートル。
中でも詰と二ノ段を隔てるこの堀切が最大のものである。 」
堀切はすこしじめじめしていて、姫しゃがが咲いていた。
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岡豊城跡には、多くの染井吉野が植えられていて、
城跡から見た眼下の桜は満開で、美しかった。
桜の名所にもなっているようである。
岡豊城が築造さられたのは、発掘調査の結果、十三世紀〜十四世紀頃と考えられている。
「 長宗我部氏のルーツは、
鎌倉時代初期に、信濃より地頭として赴任した長宗我部能俊に始まる。
長岡郡宗部郷に定住したことから、宗我部氏を名乗ったが、
隣の香美郡にも同じ名字の宗我部氏がいたため、
それぞれは、郡名の一字を付け加えて、 長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。
室町時代、応仁の乱後の永正四年(1507)、管領・細川政元が暗殺されると、細川氏本家で家督・管領職争いが起きた。
そのため、直轄領の土佐の支配力が低下し、
長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の 「土佐七雄」
と呼ばれる有力国人の勢力争いが勃発した。
翌、永正五年(1508)、長宗我部兼序は、
本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって攻められ、岡豊城は落城する。
土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は、 永正十五年(1518)、 一条氏の取り成しで旧領に復し、岡豊城に入り、
岡豊城を足掛かりに、土佐の有力大名へ成長し、
一条氏、本山氏、安芸氏とともに、土佐を四分するまでになった。 」
石段を上がると、「詰下段」 に出る。
説明板「詰下段 礎石建物跡」
「 詰下段は詰の東に附属する小曲輪跡で、
礎石建物一棟跡と土塁などの遺構が発見された。
礎石建物は二間X五間で、面積は五十三平方メートルと大きく、
東の土塁と西の傾斜面に建てられていた。
土塁は幅二十五メートル、高さは一メートルと考えられる。
土留めのため、二〜三段の石積みがある。
詰下段は、堀切に面し造られた土塁や建物などを見ると、
二ノ段から詰への出入口を守るために建てられた小曲輪だったと考えられる。 」
岡豊城は登るに比例し展望が開け、 眼下に香長平野をおさめ、
遠く太平洋を望むことができる。
南には、国分川がながれ、自然の要害を形成していた。
その上の広場が詰、 一般的には本丸といわれる部分である。
「 詰は、岡豊城の中心となる曲輪で、 標高八十七メートルの岡豊山の頂上部にあり、 東には二ノ段、 南から西にかけては三ノ段、 四ノ段が詰を取り巻くように造られた、 一辺四十メートルのほぼ三角形の形状をし曲輪である。 」
詰の中には、「岡豊城跡」 の石碑が建っているが、 西南部には建物跡の礎石が復元されていた。
説明板「詰 礎石建物跡」
「 詰の西南部で礎石が発見された。
建物跡の南端は、四十センチ〜六十センチの割石を幅一メートル〜一メートル五十センチ、
長さ十六メートルに敷かれた石敷遺構で、その北側には建物跡の礎石が続いている。
建物跡は五間X四間、一間X一間の二棟で、面積は七十五u、三u。
この二棟は石敷遺構と繋がって、東西方向の大きな建物である。
詰の建物跡は、近代城郭の天守の前身とみられる二層以上の建物だったと考えられる。 」
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その先に三ノ段がある。
説明板「三ノ段」
「 三ノ段は、詰の南と西を囲む曲輪で、南部は幅五メートル、
西部は幅三メートル〜八メートルの帯状になっていた。
発掘調査で、礎石建物跡一棟と、中央部に詰への通路になっている階段跡、
そして土塁の内部に石垣を発見。
岡豊城の土塁には石垣はないとされていたが、
西側の土塁には、
二十センチ〜四十センチの割石を一メートルほど積んだ石垣があることが分かった。
階段跡は、岩盤を削り、両側は野面積石垣である。 」
階段跡のすぐ北には礎石建物跡が接していて、 通路は南から階段を通り、
詰に登れるようになっていた。
標識 「←展望広場四ノ段 子供広場伝厩曲輪→」 があるので、展望広場に向う。
四ノ段には、石碑が建っているが、入口には虎口があったようである。
展望広場に入る手前にの高台に、外に向って、
「長宗我部・岡豊城跡」 の大きな石碑が建っている。
展望広場の眼下には城の防衛を担った国分川が流れている。
長宗我部元親はこの風景を見ながら、四国統一の夢を見たのだと思った。
「 長宗我部元親は大飛躍、 天正二年(1574)、
主家であった一条兼定を豊後に追放し、土佐国を平定し、
天正十三年(1585)には四国を統一した。
しかし、それもつかの間のことで、 羽柴秀吉の進攻により降伏し、
土佐一国に押し込められてしまう。
天正十六年(1588)、大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが、
治水の悪さを理由に、再び、岡豊城を本拠とした。
天正十九年(1591)、浦戸城を築いて移転し、長宗我部氏歴代の居城・岡豊城は廃城となった。 」
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展望広場を下ると、竪堀がある。
説明板「竪堀(たてほり)」
「 竪堀は、敵の侵入を防ぐために、城の斜面に上から下に掘られた堀である。
詰の西斜面や伝厩跡曲輪(出城)の南斜面に、連続して掘られている。
その断面は、箱型やU字型になっていて、岩盤を削って造られている。 」
竪堀をみて下ると、三叉路に出た。
これは、本城部分の南側の小山にある伝厩跡曲輪への通路である。
道標に従っていくと、伝厩跡曲輪に出た。
展望台のような木製の構築物と、丸い石碑が建っていた。
また、「伝厩跡曲輪」の説明板があった。
説明板「伝厩跡曲輪」
「 この曲輪は、詰の西南方向にある出城で、伝厩跡曲輪と呼ばれているもので、
戦いの時には、西方からの攻撃に対し、
詰を中心とする本城を守る出城としての役割を果すためのものである。
長さは約三十メートル、幅は十七メートルの楕円形の形状をしていて、
周囲は急な斜面に囲まれていた。
また、北西には二本の堀切、南斜面には竪堀群がある。 」
「四ノ段虎口→」 の道標の先には、 土塁で囲まれた空地があり、 説明板がある。
「 城の中心となる出入口を虎口と呼んでいる。 もとは小口と書いていたが、後で虎口の字を用いるようになった。 虎口は敵から攻められないようになっていた。 」
以上で岡豊城の見学は終わる。
岡豊城は石垣を使用する近代の城郭と違い、
土塁と簡単な建物で構成される山城時代の城だなあと思った。
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◎ 岡豊別宮八幡宮
岡豊城跡を出て、城の北部にある 「岡豊別宮八幡宮」 に向う。
道の脇の鳥居から急角度の石段が延々と続いている。
登り切ると、鳥居の先に、拝殿がある。
「 岡豊別宮八幡宮は岡豊城の鬼門にあたり、元親が特に崇敬し、
出陣にあたっては常に戦勝を祈願したと、伝わる長曾我部家の氏神である。
昔は長宗我部氏ゆかりの品を多く所蔵していたが、大正年間の大火で、大半が焼失し、
県立歴史民俗資料館に、元親が画工真重に命じて作らせたという、三十六歌仙の画額、
十四枚と出陣の際、使用した、と伝えられる熊蜂の盃が保管されているだけという。 」
その奥に本殿があった。 思っていたより、立派な本殿である。
お参りを済ませて、岡豊城の探勝は終わった。
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岡豊城へはJR土讃線高知駅から、とさでん交通バス ・ 領石、オフィスパーク、
田井方面行き で、学校分岐(歴史館入口) 下車、徒歩約15分
JR土讃線土佐大津駅からはタクシーで15分
旅をした日 平成二十一年(2009)三月二十七日