高知の日曜市は、高知城下で、元禄三年(1690)に始まり、今日まで三百年以上続けられているという、歴史を持つ市である。
開店時間は午前六時から十五時というので、食事前の散歩を兼ね、様子を見に行った。
開かれるのは、高知城へ続く追手筋である。
道の両脇にテントが張られ、トラックから、荷物を下ろし、開店準備をしていた。
まだ早かったので、高知城に向った行くと、道筋にはあんぱんまんと鯨が描かれた
「オーテスジ8」 というような看板がある。
また、歩道には、土佐犬を描いたタイル画があった。
ひろめ市場の北側にある、土佐女子中高校の校舎脇の歩道に、
「北会所 並 教授館址」の石柱が建っている。
ここには、かって、北会所と教授館があった。
説明板「教授館」
「 土佐八代藩主山内豊教が、宝暦10年(1710)藩校として創設、
始めは教授場と称したが、9代藩主豊ちかは教授館と改称した。
朱子学中心に、藩士の教育に当り、谷真潮、宮地春樹、戸部良煕などが教授役として
有名であった。 」
追手筋二丁目の角に「追手筋」の説明板がある。
説明板「追手筋」
「 高知城の正門追手門から東の廿代筋までをつらぬく表通りで、
参勤交代行列もここを通り、山田橋へ向かった。
はじめは大門筋といわれた。 家老、中老、連枝などの広壮な屋敷や、
北会所(藩庁) 、藩校教授館などがあった。
追手門の前は広場になっており、大腰掛や訴訟箱が置かれていた。 」
その先には、「まんが甲子園通り」の看板がある。
その先の屋敷塀の下部に「山内容堂公誕生之地」の石柱と説明石があった。
説明板「山内容堂」
「 名は豊信 15代藩主 酒を好み、詩や書をよくす。 吉田東洋に藩政改革を命じた。
幕政に参画したが、井伊大老に退けられた。 土佐勤王党を弾圧するも、
時の流れを感じ、後藤象二郎の策をいれ、大政奉還を建白。 」
突き当たりに高知城の水堀があり、その先に追手門がある。
「旧丸の内」の説明板があった。
説明板「旧丸の内」
「 江戸時代、 御城内 と呼ばれていた内掘内側の地域をまとめて
昭和十一年(1936)につけられた町名。 藩政初期の高知城内には、
蛇行していた江ノ口川が直線化され、町城内に住宅地が増えた。
本丸の南下には、西に藩主の下屋敷、東に藩主用馬場、
追手門東には藩祖山内一豊夫婦を祀る藤王神社があった。 」
ここで、朝飯を食べるため、ホテルに戻った。
九時過ぎ、日曜市に行く。 人が多く出ていた。
日曜市には、新鮮な野菜や果物だけでなく、金物、打ち刃物、植木等、
普通では見られないものも出品している。
出品準備していたフルーツも売られていた。
その隣には、背の低い植木が陳列されていた。
「南国土佐元気成分 なるま」 の絵の前に、
よさこい踊りで使用される、鳴子二つの間に、姫達磨が展示されていた。
食べ物屋も多く出店していたが、朝飯を食べた後なので、遠慮した。
この後、桜が見ごろの高知城へ行った。
旅をした日 平成二十一年(2009)三月二十九日