高知城の歴史
「 山内一豊は、浦戸城が手狭いなため、高知平屋中央の
標高約四十五メートルの大高坂山上に城を築くことにした。
家康の許可を得て、旧織田秀信の家老・百々綱家を雇いいれ、總奉行に任命。
百々氏は、石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていた。
百々氏の指揮のもと、本丸の造営と鏡川、江ノ口川など、治水工事が行われ、
慶長八年(1603)一月、本丸と二ノ丸の石垣が完成、
同年八月に本丸が完成し、山内一豊らは、九月、浦戸城より移った。
工事が全て終了したは、慶長十六年(1611)、二代目藩主・忠義の時代で、
三ノ丸の竣工である。
一豊は、河中山城と命名したが、忠義が高智山城と名を変えた。
その後、文字が短縮され、高知城に名を替え、地名も高知になった。
享保十二年(1727)、高知城下で起きた大火は高知城に燃え移り、
追手門以外の殆どの建物が焼失した。
八代藩主・豊敷が享保十四年(1729)、深尾帯刀を普請奉行に任じ、城の再建に着手、
寛延二年(1749)に天守や本丸御殿、櫓や門などが完成したが、
全ての工事が終了したのは宝暦三年(1753)のことである。 」
高知城は高知市丸ノ内1丁目と高知市の中心地にある。
JR高知駅前で、とさ電に乗り、はりまやや橋で乗り換えると、二十分足らずで、高知城前
停車場に到着した。
高知城は、北方二百メートルに、水堀があり、南方は高知県庁になっているが、
城の形は残っている。
「 高知城の前身は大高坂城である。
南北朝時代に、 大高坂松王丸がここに砦を築いて、
南朝方に味方して戦った記録があるが、敗北して落城した。
戦国時代の天正十六年(1588)、土佐を統一した、長宗我部元親が、その跡に城を築き、
岡豊城から移った。 しかし、城下が低湿地のため、水害になやまされ、
三年程で浦戸城へ移転。
長宗我部元親が死去し、家督を継いた盛親は、
関ヶ原の戦いで、西軍に就いたため、徳川家康により改易され、
土佐の国は、掛川城主の山内一豊に与えられた。
現在の高知城は、土佐藩初代藩主となった山内一豊によって築城された城である。 」
城の正門は大手門ではなく、追手門という名になっている。
「 慶長年間の創建、 寛文四年(1664)に再建されたもので、
当城では珍しく、大きな石を積んだ石垣で桝形を構成し、
内部が見通せないように、右側(南に向いて)建てられた両脇戸付櫓門形式の正門である。
重厚な入母屋造、本瓦葺き、桁行は十一間、梁間は四間で、
その木割は太く堂々とし、 欅を用いた主柱や扉、雁木などには、
銅製の飾り金具が取り付けられている。
その規模は大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。
楼門の二階は、内側が石垣よりせり出した懸造(かけづくり)で、
櫓下の門を潜る敵に対し、床板を外して頭上から攻撃できる仕組みになっている。
また、桝形虎口入口南には武者隠しの区画が塀と共に現存している。 」
天守閣と大手門(追手門)がそろって現存するのは、 当城と弘前城、丸亀城の三城だけである。
下の左側の写真は、入門し、振り返って写したものであるが、茶色系の色の石を 組み合わして造形的にも美しい。
「 土佐に行くよう命じられた山内一豊が最初に入った城は浦戸城である。
しかも、簡単に土佐に入国できた訳ではない。
長宗我部残党による抵抗があったためである。
慶長五年(1600)、土佐に入国しようとした一豊は、
一領具足 と呼ばれる、長宗我部氏の残党の抵抗に遭い、 入国出来ない状態だった。
十月十九日、家康の命を受けた井伊直政が、
家臣の鈴木平兵衛と松井武太夫に城の受けとりに赴かせたが、
長宗我部氏の旧臣は、「浦戸一揆」 と呼ばれる、五十日間に及ぶ頑強な抵抗を行った。
結局、策謀によって鎮圧され、 城内に立て籠もっていた二百七十三人の旧臣は殺害され、
翌慶長六年(1601)一月、ようやく、 一豊は浦戸城に入城することができた。 」
司馬遼太郎の「夏草の賦」の上巻に、 長宗我部氏は一領具足の協力を得て、
高知統一を果たしたことが記されている。
よそ者の山内氏の土佐入りにはゲリラのように抵抗したのである。
追手門をくぐると 「板垣退助像」 が建っているが、 その先に天守閣が見えた。
板垣退助像の脇の石段を歩き、登っていくと、
山内一豊の妻 ・ 千代(見性院)と馬の銅像が建っている。
山内一豊が出世したのは千代の内助の功があったことを表す銅像で、
銅像があるのは杉ノ段である。
説明板「杉ノ段」
「 かって杉の巨木が多くあったことからこの名がついた。
北の部分は塗師部屋があり、また、長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵があった。
二の丸に上がる道に南側に残る井戸は深さ約十八メートルあり、一日三回井戸水を汲み、
藩主が住む二の丸御殿に運んだ。
この段を北に廻った部分には重要な書類などを保管する証文蔵が離れて建っていて、
南には鐘つき堂などがある太鼓丸があった。 」
現在は桜が植えられていて、いくつかの石碑が建っている。
目のまえにあるのは、解体修理した三の丸曲輪の石垣である。
説明板「三の丸の石垣」
「 三の丸の石垣は、慶長十六年(1611) 二代藩主、山内忠義の時代に築かれたものだが、
解体調査でその中から古い石垣の一部が発見された。
その石垣は、山内一豊か長宗我部元親の頃に築かれた石垣だろう。 」
その先に、本丸を守る石垣と櫓があるが、石垣から石樋がとび出している。
説明板「石樋(いしどい)」
「 高知県は有数の多雨地帯のため、高知城は排水に注意がはらわれている。
石樋は排水が直接石垣に当らないように石垣上部から突き出して造られていて、
その下に水受けの敷石をして地面を保護している。
石樋は本丸や三の丸などを含め十六ヶ所が確認されている。 」
杉ノ段から天守閣に向うと、広い石段があり、 右に曲がる枡形になっているところに出るが、 鉄門があったところで、鉄門の石垣は打込みハギで造られている。
説明板鉄門
「 この場所には、左右の高い石垣をまたいで、入母屋造り二階建ての門が設けられていた。
ここに入ると二の丸から本丸に通じる重要な位置にあるため、
石垣は整然と築かれていて、門の扉には多くの鉄板が打ち付けられているので、
鉄門 と称された。
小さな枡形を形成している門の内側には番所があって、弓と鉄砲を持った番人と足軽がつめていた。
右と正面の石垣上には、矢狭間塀がめぐらされていて、門内に侵入した敵を三方向から攻撃できるようになっていた。
左に曲がって石段を上ると、矢狭間塀のために、二の丸方向への道は見えず、
正面の詰門方向に導かれるように巧妙に設計されていた。
左に曲がって、石段を上がると矢狭間塀のため、二の丸の道が見えず、
むしろ詰門への石段が連続して見えるので、
自然に詰門方向へ導かれるような巧妙に設計されていた。
石段は十八段あって、 一八雁木 と呼ばれていたが、現在は十五段になっている。
石段の中間から鉄門の二階に上がれるようになっていて、
そのあたりの石には、切り出し時の歯の跡がそのまま残っているものが見られる。 」
天守閣は見えるのになかなか天守閣に辿りつかない。
ようやく天守閣の入口らしい門が見えてきた。
近づいて見ると小さな扉しかない。 これは詰門である。
「 詰門は本丸と二の丸の間に設けられた空掘をまたぐ形で建てられた櫓門で、橋廊下と呼ばれていた。 一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっていた。 門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、 入口と出口の扉の位置が筋違いになっていて、 通り抜けにくいからくり門になっていて、隠し鉄砲穴が設けられていた。 また、東から本丸にいけないようになっていた。 二階は二の丸から本丸への通路でもあり、内部に三室の畳敷きとし、 家老・中老・平侍と身分に応じて詰める場所が定められていた。 」
詰門の先にある石段を上ると二の丸に通じる。
右側の石段を下ったところが三の丸のあったところだが、
明治六年の廃城令による公園化で、すべての建物が取り壊された。
詰門の右側を上がったところは二の丸跡である。 今は広い空き地になっている。
「 二の丸は本丸の北、三の丸へ西上方に位置し、
三の丸より約八メートル高く、標高約四十メートル、外輪の長さ二百七十メートル、
総面積は四千百二十八平方メートルの台地である。
ここに建てられた二の丸御殿は、政務をとる表御殿と、
藩主が日常生活をする奥御殿が連続して建てられ、
一部は二階建てになっていた。 総面積は千二百二十三平方メートル。
明治六年の公園化により、二の丸御殿は壊され、今はない。
現在残る築山は、奥御殿上部の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。
二の丸には、目付役所や数寄屋櫓、家具櫓や長局などの建物もあった。
西北隅にあった乾櫓は、城内の八つの櫓の内で唯一の三階建てで、
二階と三階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、小天守のようだった。
また、北の一段下がったところに水の手門があり、
綿蔵、綿蔵門を経て、城八幡や北門へ通じていた。 」
本丸に入るため、懐徳館入口とある建物で入館料を支払い、中に入ると詰門の二階に出る。
御筒床があり、平侍溜間、中老溜間、家老溜間、大御小姓部屋など、
畳の部屋が並び、鉄砲狭間や弓矢狭間が設けられ、敵を攻撃できるようになっていた。
本丸は標高約四十四メートルの変形の土地で、総面積は約千五百八十平方メートルある。
「 本丸には、天守閣を始めとして、本丸御殿、東西多聞や廊下門(詰門)、黒鉄門、納戸蔵などが配され、外回りは銃眼のついた矢狭間塀でつないでいる。
本丸の全ての建造物が完全な形で残っているのは、
現存十二天守では高知城のみで、大変貴重な遺構である。 」
詰門を出ると、正面に本丸御殿(懐徳館)、 奥に天守閣がある。
「 本丸御殿は、懐徳館とも呼ばれ、慶長八年(1603)に創建された。
規模は小さいが、書院造りの様式をもち、武家の住宅建築としての格式を整えており、
国の重要文化財になっている。
対面所としての機能に加え、雪隠や御茶所が設置され、藩主の居室的性格を備えており、
初代藩主、山内一豊夫妻が一時期住んだといわれている。
高知城には、二ノ丸御殿、三ノ丸御殿があったため、
藩主入国の際に行われる 「城内巡見」、 「天守閣登城」 などの特別な儀礼を除けば、
本丸御殿は使用されることはなかったといわれる。
享保十二年(1727)、 城下から出火した大火にあって焼失するが、
延享四年(1727)に再建工事が開始され、 寛延二年(1749)に完成した。
本丸御殿には、上段ノ間、二ノ間、三ノ間、四ノ間などがあり、
これらは襖で仕切られている。
雪隠ノ間は藩主専用のトイレである。 」
殿さま専用のトイレを見たが、
特別な儀礼を除けば本丸御殿は使用されなかったというので、
何回使用されたのか?と思った。
上段ノ間の脇に、天守取合ノ間 があるが、
これは藩主が天守閣への登城する入口と思われる。
部屋の襖には屏風絵が描かれていて、日本庭園も立派である。
黒潮の波を形どった欄間は、 土佐の左甚五郎といわれた、 武市高明(通称甚七)の作、
と伝えられる。
本丸御殿の周囲は、石垣の上の塀や櫓で、守られて、 南矢狭間塀には、物見窓が設けられている。
「 鉄砲狭間からでは、敵兵全体の動向を把握するのが難しく、 土壁上面寄りに一間隔で横長に横連子の武者窓を設け、 本丸東南部の物見を一手に引き受けていた。 」
天守は、城を築城した寛永八年(1603)に完成したとされるが、 享保十二年(1727)の大火で焼失し、 現在の天守は 寛延二年(1749)に完成したものである。
「 天守閣の高さは十八メートル五十センチで、 他の城郭に見る天守台はなく、 北側の大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、その上に直接建ち上げる形にしている。 内部が見通せないように右側に建てられていて、入口は本丸御殿に接して建てられている。 建坪は約百八十八平方メートル、延べ面積は五百平方メートルで、外観は四重、内部は三層六階建ての構造で、 二重の入母屋造の屋根の上に二重の屋根の上に望楼を載せる望楼型の天守である。 初層と二層は総二階造りで八間×六間、三層と四層は四間四方、五層と最上層は三間四方の造りである。 二層大屋根と最上階にそれぞれ銅製のしゃちを置き、大屋根の南北に千鳥破風、 第三層の寄棟部分には東西に唐破風を置く安土桃山時代の様式、窓は突上窓と連子窓など、 外観を美しく見せる工夫が各所に施され、力強い軒先の反りも見事で、 小規模ながら南海道随一といわれた面影を今も残している。 天守の最上階には初代一豊の先の居城、遠州掛川城を模して造ったとされる廻縁高欄が付けられていて、 外に出て展望が出来るようになっている。 」
天守閣の上からは見晴らしも良く、眼下には桜や梅、桃の花盛りだった。
江戸時代には天守閣の裏側は一段下がったところに梅ノ段があり、
詰門の一階から通じていたというが、今は梅林になっている。
高知城へはJR土讃線高知駅から徒歩約25分
旅をした日 平成二十一年(2009)三月二十九日