土佐神社は、土佐国の一宮で、JR土佐一宮(いっく)駅の北西にある。
駅から県道249号を西に進むと、大谷川があり、一本松橋を渡ると、県道と別れて、右折する。 右側に、神橋を思わせるような石垣があり、
その先の右側に、 「国幣中社 土佐神社」 の石柱が建っている。
その近くに不、文字が読みづらくなった説明板があった。
説明板「土佐神社」
「 御祭神は、味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ、と、雄略天皇。
(五世紀後半)時代の創建で、土佐の総鎮守である。
現在の社殿は、元亀元年(1570)に、長宗我部元親が再建したものであり、
鼓堂、楼門は、山内忠義(二代藩主)再建、建立したものである。
本殿、幣殿、拝殿は、、明治二十七年(1904)に、楼門は昭和五十七年(1982)に、
国の重要文化財に指定されている。
大祭は、シナネ様と 言われ、日中松明をつけて、御神幸に従う行事で、、
十数万の参詣人がある。 」
(注)説明板の祭神に、味鋤高彦根神と雄略天皇の名が記されているが、
神社の説明では、雄略天皇ではなく、
一言主神(ひとことぬしのかみ) としている。
司馬遼太郎の 「夏草の賦」 の上巻に、長宗我部元親と土佐神社の関係が分かる話があり、
「 出産の記念に、社殿が建て替えられたことと、一言主神 」 の記述がある。
(原文のまま) 「 元親は、本山茂辰との戦火で、 土佐一宮が焼かれたままであることを思い出し、始めての出産に際し、 神社に 「 男児をさずかれば社殿を建てる。 そのあかしがみえるまで、雨ざらいだ 」 といいはなって祈願した。 ほどなく男の子が生まれた。 すると、元親は 「 すぐ、一宮を再興せよ 」 と、 作事奉行に任命し、約束を果たした。 (中略) この神社は元親の時代は 「 いっくさん 」 と呼ばれていた。 (中略) この祭神は、一言主(ひとことかみ) という、ちょっと滑稽な名をもっているが、 もともとは、大和葛城山中に住み、 葛城族として勢力を誇っていたが、 雄略天皇の時、 無礼なことを言ったため、 土佐に移されたという記述が釈日本紀にある。 」 と書いている。
神社では、
日本書記に、 「土佐大神、神刀一口を以って、天皇に進る」 とあることから、
土佐大神を祭神としている。
また、土佐風土記に 「土佐の高賀茂の大社あり。
其の神の名を一言主神と為す。 其の祖は詳かならず。 一説に、味鋤高彦根神なりといえり、とあり、祭神の変化がみられることから、 祭神を、一言主神と味鋤高彦根尊 としています。
この二祭神は、古来より、賀茂氏により、大和の葛城の里にて、厚く仰ぎ祀られた神であり。
賀茂氏かその同族が、土佐の国司に任じられたことにより、当地に祀られたと、
伝えられています。 」
としている。
小生も興味を持ち、しらべてみると、 「 土佐神社の歴史は古く、 古代の延喜式神名帳には 「都佐坐神社」、 日本書紀や土佐国風土記には 「土左大神」 の記述がある古社であり、 大和の賀茂氏の一族が移住し、祖先神を祈り続けたという話は納得できる。 なお、現在の社名になったは、明治四年(1871)である。 」
その先に、「神光門」の幣額がある楼門が建っている。
「 楼門は、 高知藩二代藩主・山内忠義が、 寛永八年(1631)に建てたもので、
国の重要文化財に指定されている。
屋根は入母屋造、銅板葺き、初層は三間一戸で、桁行は三間、梁間は二間の二階建ての門である。
一階の左右の間に、随身が祀られている。
二階は、一階より背は低く、勾欄を付した廻縁がめぐらされている。 」
鳥居をくぐると、参道で、道の両側に植えられた桜が咲いていた。
その先に駐車場があり、その奥の左側に手水舎があり、その先に鳥居が建っている。
なお、鳥居の右手には、秋葉神社の祠がある。
鳥居をくぐると、七段の石段があるが、右手に赤い鼓堂がある。
「 拝殿の南東に建つ鼓楼は、
土佐藩第二代藩主の山内忠義が、 慶安二年(1649)に建立したもので、
国の重要文化財に指定されている。
鼓楼は 二重で、 屋根は入母屋造・柿葺き、下層は 「袴腰」 と呼ばれる形式で、
黒色の板を張り、 中央に出入口を設けている。
上層は桁行三間、梁間二間で、 彫刻や柱が彩色で彩られていて、
なかに、時を知らせる太鼓がおさめられている。 」
その先には、輪抜祓所・神饌所・神庫の順に建っている。
輪抜祓所に近いところに、禊岩とその説明板がある。
説明板「禊岩(みそぎいわ)」
「 境内西方の しなね川は、禊川とも称し、
身心を清める禊の神事が、おこなわれていました。
この岩は、御神事を行う斎場に、古くから祀られていましたが、
平成十一年 川河改修工事により、やむなく、この場所に、お辺ししました。
祭祀上、貴重な石であり、祓所の神として、人々の心身を清める御神徳があります。 」
その近くに、「礫石(つぶていし)の謂れ」 の説明板がある。
説明板「礫石(つぶていし)の謂れ」
「 古伝に、 土佐大神の土佐に移り給し時、 御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ、
宮を建て加茂の大神として崇奉る。
或時、神体顕はされ給ひ、 此所は神慮に叶はすとて、 石を取りて投げさせ給ひ、
此の石の落止る所に、 宮を建てよと有りしが、
十四里を距てたる此の地に落止れりと、 是即ち、
その石で所謂この社地を決定せしめた、大切な石で、 古来之を つぶて石 と称す。
浦の内と当神社との関係、斯の如くで、往時御神幸の行われた所以である。
この地は、蛇紋岩の地層なるに、このつぶて石は、桂石で全然その性質を異にしており、
学界では此の石を転石と称し、学問上特殊の資料とされている。
昭和四十九年八月 宮司 」
中央にある社殿は、入母屋造りの前面に向拝を付けた本殿と、 その前方の十字形をなす幣殿・拝殿・左右の翼・拝の出で構成される、 これまで訪れた神社にはなかった形式である。
「 本殿の前の幣殿、その手前に拝殿があるのは普通だが、
その間の左右に翼殿を付けているので、上から見れば十文字のように見える。
これは、本殿に向かって、とんぼが飛び込む形に御立てた 「入蜻蛉形式」 というものである。
本殿は、朱塗りで、彫刻があしらわれている立派なものである。
「
本殿は桁行が五間、梁間は四間、一重で、前面中央三間に向拝一間を付けている。
屋根は、入母屋造で柿葺。 外面は、全体に極彩色で彩られ随所に、彫刻が施されていて、
本殿内部は内陣と外陣に分かれている。 」
長宗我部元親は、 出陣の際には若宮八幡宮へ参拝し、
凱旋してくる時には、 土佐神社に参拝、報告したといわれる。
若宮八幡宮の社殿は出蜻蛉形式で、土佐神社は、入蜻蛉形式である。
そういうことから、土佐では、若宮八幡宮と土佐神社で一対をなすとしている。
土佐神社は、国を納める長宗我部氏にとっても、 山内氏にとっても、重要な神社だったことが分かった。
土佐神社の隣に、四国八十八ヶ所第三十番札所・善楽寺があった。
「 寺伝により、弘法大師が高賀茂大明神(現土佐神社)の別当寺として、
神宮寺とともに創建したと、いわれる。
明治の廃仏毀釈で廃寺になっていたのを、昭和五年に再建した寺である。 」
本堂は昭和五十七年の建立である。
弘法堂(大師堂)は、大正時代の建立。 弘法大師像は、廃仏毀釈の際、
墨で黒く塗って難を逃れたことから、厄除け大師として、知られる。
土佐神社へはJR土讃線土佐一宮(いっく)駅から徒歩で、約25分
旅をした日 平成二十一年(2009)三月二十七日