高知市長浜にある若宮八幡宮は長宗我部元親ゆかりの神社である。
長宗我部元親が初陣戦勝を祈願した、出蜻蛉の社として、有名である。
雪蹊寺は、四国巡礼霊場第三十三番札所である。
長宗我部軍が大敗し、多数の犠牲者を出した戸次川戦の戦没者供養塔と、
長宗我部信親の墓がある。
◎ はりまやばし
高知駅からバスで若宮八幡宮へ行く場合、二つのルートがある。
一つは、高知駅バスセンターから、とさでん交通の領石出張所行きにのって、
八幡バス停で下車し、NACOバスの高知医大ー久枝線右回りに乗り、
住吉通バス停で下車し、歩いて4分で若宮八幡宮前に到着。 所要時間1時間で料金は850円
である。
バスの間隔は、一時間に1本、多くて2本である。
もう一つのルートは、高知駅からはりまや橋まで歩く。 約15分
はりまや橋から、高知東部交通 高知ー安芸線 安芸行きに乗り、住吉通バス停で下車。
後は上記と同じである。 所要時間は、40分程で、料金は510円である。
バスの間隔は一時間〜一時間半に、一本しかない。
従って、ナビで行けるルートを検索して、行くことをお勧めする。
小生は、後者を選び、はりまや橋まで歩いた。
この区間には、バスも土佐電も運行している。
高知橋バス停を過ぎると、高知橋がある。
橋を渡ると、蓮池町通の交叉点がある。
「 右折して行くと、約一キロ先に高知城がある。
蓮池町通停留場は、
昭和三年(1928)、はりまや橋ー高知駅前の間の開通に合わせて、設置された、というから、
古い歴史を持つ。
そこから二百メートル歩くと、右側に 「 一番街 OBIYAMAHI 」 の表示のある、 ドーム型のアーケードの商店街がある。
「 OBIYAMAHIは、帯屋町のことである。
歴史的には、元和五年(1619)五月二十一日の山内一豊の親子借用証書の宛先に、
「おびや町」としるされているので、町はそれより前からあったことになる。
町名は、大商人の帯屋勘助に由来する。 商店街の北側に、高知大丸があり、
西側に県庁や高知市役所があることから、飲食店や映画館、パチンコ店が集まり、
その賑わいは京町や中種崎へと広がりを見せた。
高知大丸は、その後、京町市丁目に移転、大丸前には、自由民権運動の中心となった、
「立志社」の碑がある。 」
そこから少し歩くと、はりまや橋に到着した。
はりまや橋交叉点の手前に、現在使用されている、長さ二十メートルの橋と、
その奥に赤い太鼓橋が見える。
「 かって、ここに堀川が流れていて、
川に架けられていたのが播磨屋橋である。
堀川は昭和三十年代に、下流を除き、大部分が埋め立てられ、現在はりまや橋公園になっている。
播磨屋橋は何回か架け替えられたが、最後の橋は昭和の初期に架けられ、
戦後拡張された。 しかし、堀川が埋められたあと、橋は取り壊され、
主塗りの欄干は他に移され保存された。
平成十年(1998)、橋の跡に御影石の欄干などを設けた現在の構築物(橋)が出来た。 」
その右側がはりまや橋公園で、朱色の橋がある。
これは、江戸時代から明治末期まであった木造橋をイメージして、
平成十年(1998)に縮小して再現したものである。
コンクリート製であることや、長さが十メートルに満たないことから、
札幌時計塔、長崎のオランダ坂と並び、日本の三大がっかり名所と、揶揄されているというが、
小生も同感である。
説明板「はりまや橋」
「 土佐の高知のはりまや橋で、坊さん、かんざし買うを見た 」 のよさこい節である。
はりまや橋は、江戸時代の初期、堀川を挟んで、商いを営んでいた播磨屋と櫃屋がお互いに
行き来するために架けた、私費の橋が、その始まりとされています。
周囲の賑わいとともに、のちに公共の橋にとなり、橋の上には十九文屋と呼ばれる小店が、
並んでいました。 五台山竹林寺の坊さんが、思いをかけた人のために、かんざしを買ったのは、橋の南詰東側にあった、橘屋という小間物屋であったと言われています。
戦後に埋め立てられた堀川は、平成十年(1998)、のはりまや橋公園の設置にあわせて再現され、
江戸時代のはりまや橋を再現した朱色の欄干の太鼓橋が架けられました。
それに加え、 明治期に実際使われていたものを再利用した鋳鉄製の橋、
自然石で造られた自然石の欄干を持つ、昭和25年(1950)に築橋された現在の橋と合わせて、
ここには時代とともに移り変わった、3本の橋が仲良く並んでいます。
こうして、堀川はウッドデッキ沿いに、四季折々の花が咲く、
親しみやすい水辺に生まれ変わりました。
付近の商店街には、全国的にも珍しい、木造アーケードがあり、
公園と一体になったイベントも開催されるなど、商店街を中心に周辺一帯を含めた、
町めぐりも楽しめます。
公園の南側に位置するはりまや橋交叉点では、花壇などの整備により、
四季を飾る鮮やかな草花が街、街にうるおいをもたらしてくれます。
観光の途中にひと休みしたり、待ち合わせをするのに、よく利用されています。
また、はりまや橋東側のビルの壁に、からくり時計が設けられており、
9時から21時の間の各正時に、よさこい節に合わせて、からくりが繰り広げられます。
天候等により、休止する場合があります。
からくり時計を見ていると、時間になったら、扉が開き、高知城とはりまや橋と 踊り子達が飛び出してきて、よさこい節が流れた。
◎ 若宮八幡宮
はりまや橋バス停から、安芸行きのバスに乗った。
二十数分乗り、住吉通バス停で、降りた。
少し南に行くと、左右に若宮八幡宮の参道があり、鎮守の森公園となっている。
桜の咲く時期に訪れた。
両側に狛犬が並ぶ鳥居があり、鳥居をくぐり、参道を進む。
「長宗我部元親公初陣の像」 の幟がはためている。
宗我部元親が、二十二歳で初めて戦いに臨んだのは、当時、
宿敵・本山氏の家来が守っていた長浜城の攻防戦である。
柵に 「馬防柵」 の説明がある。
「 鎮守の森は、若宮八幡宮の馬場先の松原だったところで、 長宗我部軍は長浜城の攻略した後、 浦戸城に立てこもった本山茂辰軍を封じ込め、 若宮八幡宮前から海岸まで、馬防柵を築いた。 馬や兵の侵入を防ぎ、 鉄砲棚として効果を発揮したとされる。 」
その先には、大槍を手にした長宗我部元親の大きな銅像があり、
対面の下には、四国の地図がある。
元親の死後四百年で作成されたもののようだが、堂々とした武者振りをしていた。
説明板「長宗我部元親公銅像」
「 この銅像は、元親公没後四百年にあたる平成十一年(1999)五月に、
地元有志の発案により、 建立されました。
元親公は、永禄三年(1560)五月、二十二歳の折り、 本拠地の岡豊城を進発し、
宿敵、本山氏の守る長浜城を陥落させ、 初陣を飾りました。
その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、 戦勝を祈願したことから、
この地に初陣の勇姿を再現したものです。
その後、約二十五年かけて、四国全土を掌握しましたが、 豊臣秀吉の軍門に降り、
慶長四年(1599)に、六十一歳で、京伏見の館に没しました。
銅像の高さは、台座部分も含め、約七メートル、 槍の長さは五・七メートルあります。 」
参道には、 道の両脇に植えられた桜が咲いていた。
道の左側に、「どろんこ祭・神田」 の看板があり、 その奥に、祭で使用される、儀式田がある。
その先に、二本の石柱があり、結界の綱が柱の間に架けられている。
その先には、犬型の狛犬と常夜燈があるが、かなりの年数を経ているものである。
その先に、「若宮八幡宮」の額がある大鳥居があった。
説明板「鳥居のいわれ」
「 長宗我部元親公は、当社を出陣祈願の社と定め、天正十四年秋、豊臣秀吉軍の先鋒として、
九州征伐に赴く際、社頭に武運長久を祈り、いざ出陣という折りも折り、
軍旗が鳥居の笠木にかかり、墜落す。 衆人これを不吉となし、出陣を見合す形勢となるも、
公は殊更に、 「 敵を笠にかけて、討つの前兆である。 」 と祝し、出陣する。
果たせるかな、豊後戸次川にて、島津軍と戦うも惨敗し、嫡子信親公以下、
七百余人の将兵は、異郷に討ち死にす。 帰郷後、元親公は、この鳥居を不祥の鳥居とし、
海上遥かに流しやる。
爾来、二百八十余年間、鳥居なき社として有名なるも、慶応元年、地震の際、
鳥居の根石の自然に浮き出したことから、衆人これを神意とし、再建す。
時に明治三年三月の事なり。 更に、その後、昭和十一年一月に建て替え、
昭和五十五年十月には従来の木の鳥居から、鉄筋コンクリートに変わり、今に至る。 」
その先の右側に手水舎、左側に社務所がある。
その先の正面に、若宮八幡宮の社殿がある。
「 若宮八幡宮は、源頼朝が 文治三年(1185) 京都六条に、
左女牛若宮を創建し、 土佐国吉川郷の土地を同社の神領地として寄進。
その神領地鎮護の神として、 石清水八幡宮の御分身を勧請したのが当社である。
永禄三年(1560)、 長宗我部元親は初陣に臨み、 ここに陣を張り、 一衣戦勝を祈願し、
「長浜城を攻め落とせたら社を建ててやる。 駄目だった建てない。 」 と言ったと伝えられる。
長浜城を攻め落とした後、 若宮八幡宮は長宗我部氏の戦勝祈願の第一社と定められ、
社殿を出蜻蛉式建築に改める。
これに対し、一宮の土佐神社は、凱旋報斎社として、 入蜻蛉式建築に改めたことから、
両社は対をなす土佐独特の神社となっている。
慶長五年(1600)に土佐国に移封された山内一豊も、 祈願八社の一社として、
年々の祭祀を行い、明治維新を迎えた。 」
若宮八幡宮の社殿は、向拝・拝殿・昇殿・本殿の順序に建てられている。
若宮八幡宮は、高知市南部の長浜・御畳瀬・浦戸・横浜の総鎮守になっている。
「 長宗我部元親が、合戦の度に、当社で戦勝祈願を行うようになり、 拝殿は出蜻蛉式に、建て替えられた。 蜻蛉は、勝虫ともいわれ、古来より縁起物とされた。
本殿の右側には天神社があった。 祭神は、天水分大神である。
説明板「天神社」
「 祭神は、天水分大神(一云 菅原道真公)
縁起沿革は未詳ながら、明治三十五年に、 天神宮千年大祀が執行されたと、
棟札にある。 逆算すると、延喜三年(903)、に創建されたことになるが、
この年は菅原道真公が、太宰府で亡くなった年である。
(中 略)
当社の場合、後方の向山の山中に、旱天にも涸れることない湧水があることから、
元々、天水分大神 「水の分配を司る神」 を祠った。
この辺り一帯の産土神ではなかったか。
後世、道真公の天神信仰と結びつき、今日に至ったものと思われる。 」
◎ 雪蹊寺(せつけいじ)
雪蹊寺は、若宮八幡宮の北方にある。 若宮八幡宮から一キロ強という距離である。
県道34号を北上し、 新川川橋を渡ると、雪蹊寺前バス停がある。
交叉点の右手には雪蹊寺バス停があり、「四国三十三番霊場」の石柱があり、右側の石段の先に
、お堂が建っている。
説明板「高福山 雪蹊寺」
「 延暦年間(782〜806) 弘法大師が開基されました。
もとは高福寺といいましたが、鎌倉時代に、
運慶と湛慶作の毘沙門天の仏像など(国重文)が安置されたところから、
慶雲寺と改称された経緯があります。
戦国時代、月峰和尚を中興の祖とし、臨済宗に改宗され、長宗我部元親の菩提寺となり、
元親の法名にちなみ、 雪蹊寺 と改称されました。
慶長五年(1600)、盛親の敗戦で、 山内一豊公の入国となり、七十石を拝領しました。
歴代の住職やその弟子に、朱子学を学んだ天質と、小倉三省、谷時中などを輩出し、
南学の中心地ともいわれています。
明治二年 廃仏毀釈により、廃寺になりましたが、 同12月 山本太玄和尚を住職とし復興され、
その弟子 山本玄峰和尚は、昭和の傑僧といわれました。
本尊 薬師如来立像。 」
境内に入ると、正面に、平成十六年に改修された本堂、左手に、客殿と納経所があり、
その左に、昭和六年改修の馬頭観音堂がある。
本堂の右横に、明治四十三年建立の大師堂がある。
空海(弘法大師)を祀る大師堂の前では、は四国巡礼三十三番札所に到着した
数人のお遍路さんが詠歌をあげ、御参りをしていた。
宿坊はないが、 門前には 「おへんろさんの宿高知屋」 がある。
本堂の右奥に 「長宗我部信親公墓所へ ←』の 標柱があるので、 本堂横の渡り廊下の下をくぐり、墓地に出た。
本堂の右奥に三基の墓があり、 右手前は月峰和尚の墓、 左手前は戸次川戦没者供養塔、 奥は長宗我部信親の墓である。 ここには説明板が建っていた。
説明板
「○ 月峰和尚の墓
香宗我部系、中山田泰吉の三男として、天正九年巳年(1581)秋、
香美郡香宗北屋敷(現野市町香宗)に生まれる。
十歳の夏、出家、その後、長浜村雪蹊寺の中興の祖となる。
慶長五子年(1600)九月、関ヶ原の廃線後、浦戸一揆のとき、仲に立ち、開城に貢献しました。
同十四酉年(1609)正月二十五日寂。
○ 戸次川戦没者供養塔
○ 長宗我部信親公墓
天正十四戌年(1586)十二月十二日、 豊後の国(大分県) 戸次川畔で、
薩摩の島津義久の大軍と対峙しましたが、
四国勢の主将 ・ 仙石秀久の無謀な渡河作戦のため、
対岸に控えていた五千の島津軍の伏兵により、仙石勢は敗走しました。
信親以下の土佐勢はふみとどまって奮戦しましたが、衆寡敵せず、七百余人と共に、
二十二歳を一期として、戦死しました。 」
戦後、信親の遺骸を貰いにきた使者の谷忠澄に対し、 島津軍の新納忠元は、
涙を流して弔意を表し、
元親の求めに応じて、 信親の遺骸と武具(刀は刃毀れ、 鎧は傷だらけの状態だったという)を
返還した上、信親の豪勇を賞賛し、 谷を信親討死の地に案内したという。
信親の勇猛な戦いぶりは、 後の世まで語り種となった。
雪蹊寺境内を右に出て、 真直ぐ進むと、 秦神社がある。
「 明治の廃仏毀釈で、明治三年(1870)雪蹊寺が廃寺となり、 翌年、本堂跡に、当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした、秦神社が建立された。 長宗我部元親と信親が祀られている。 」
境内に、「長浜城址」の説明板が建っていた。,/p>
説明板「長浜城址」
「 雪蹊寺と秦神社の背後の山が、長浜城址であり、 今でも頂上に通じる山道と、
山の斜面に掘られた竪堀跡が二ヶ所に見らます。
戦国時代に、土佐、吾川の両郡を支配していた、本山梅慶 (茂宗)の子 ・ 茂辰の支城で、
大窪美作守(弁作)が 城主でした。
長宗我部国親は、 父の兼序(かねつぐ)の死と、
岡豊城落城の首謀者であった本山氏の討滅を決意していたが、
その機会ができたので、 国親の元家臣であった福留右馬允の手引きによって日時を定め、
永禄三年(1560) 五月二十六日の雨風激しき夜、 種崎がら海を渡り御畳瀬より、
長浜城を奇襲して攻略しました。
今も城山の北西の谷を 夜討ちが谷 と伝えています。 」
右手に鳥居があり、その奥に石段が続き、「西宮神社」の説明板が建っている。
ここは、摂社の西宮神社の入口である。
説明板「西宮神社」
「 天正十四年 豊後の戸次川の戦に出陣する際、長宗我部氏の家臣、芳原七郎は、
曽和家所有の畑で、馬蹄にかかった神鏡を拾いあげた。
この戦いは歴史な激戦で、長宗我部信親公以下、
七四〇余名の土佐武士が討死するという敗北をきしましたが、 無事帰国した七郎は奇瑞あると、
この鏡をここに祭り、西の宮と称した。 その後、御社号が同じことから、
攝津国の西宮神社から、恵美須大神を御勧請し、合祭したため、西宮式とも、又、
西の宮権現とも称したが、明治元年、西宮神社と改称した。
(以下 省略) 」
以上で、長宗我部家とゆかりの深い、若宮八幡宮と雪蹊寺の参拝を兼ねた観光は終わった。
雪蹊寺(せつけいじ)へは、 とさでん交通バスで「長浜」下車、徒歩300m
旅をした日 平成二十一年(2009)三月二十六日