中村は、高知県の西部に位置し、四万十川が流れる風光明媚なところである。
応仁の乱で京を逃れた、前関白・一条教房は、この地で国司となり、居館を構えた。
その子孫は、土佐一条家となり、土佐の大部分を支配するようになった。
司馬遼太郎の 「夏草の賦」 には、土佐一条家の盛衰が記されている。
旅した時は中村市であったが、町村合併で、隣接する西土佐村と合併し、 現在は四万十市になっている。
中村へ訪問しようと思ったのは、司馬遼太郎の 「夏草の賦」 に登場するからである。
「夏草の賦」には、
「 応仁の乱により、京を避けた 前関白一条教房(のりふさ)が、
一条家の領地だった、土佐幡多郡に下向すると、国内各郡の土豪たちが彼の家来(家人)になり、彼を国司にして、その国都を幡多郡中村に造営した。
土佐では、一条家を 「御 所」 と通称し、 その国都の中村には 御殿がつくられ、
町割は京にならったため、 「 都を見たくば中村へゆけ 」 といわれるほどに、
典雅な城下になった。 」
と書かれている。
一条教房は、一条兼良の長男で、関白まで登りつめた人物である。
「
彼が関白を辞去した頃、応仁の乱が始まる。
戦災を恐れ、最初は奈良に避難したが、父が奈良に避難してきたため、
一条家の所領のあった、土佐国幡多荘の中村に下向し、館を建て、住み始めた。
幡多郡の豪族(国人)達は、国司として臣下し、教房は当地で 五十八歳の生涯を閉じた。
その長男は、当地に土着し、幡多郡以外にも、領地を拡大。
また、教房と一緒に来た、公家や武士、職人により、京都の文化が移入され、
中村繁栄の基礎が築かれた。 」
一条教房が居住していた、中村の館は、
中村本町の、渡川と後川に挟まれた小森山(小高い丘陵)にあった、と伝えられる。
現在そこにあるのは一条神社である。
江戸時代の初期の1607年に、一条氏の遺臣が、中村館跡に、
一条教房と土佐一条氏の歴代当主及び連枝を祀ったのが始まり、とある。
中村中心部の地図を見ると、碁盤型の町並になっていて、 その東側を後川 (鴨川) 西側を四万十川が流れている。
「
この地形はミニ京都で、司馬遼太郎の指摘通りである。
しかし、 昭和二十年(1945)に起きた、東南海地震で、この一帯は水没したため、
史跡に残るものは残っていない、 」
一条兼定の時代になると、一条氏の名声が失墜する。
一条兼定の素行が悪く、家老達に豊後へ追放される。
その後は兼定の嫡男・内政が擁立されたが、長宗我部元親に後見を頼み、大津御所に送られた。
司馬遼太郎の 「夏草の賦」の「中村の御所」 では、多くのページを割いて、
そのいきさつを書いている。
「 家老達は、兼定を捕え、船に乗せて西に流し、日向国に流した。
それを長宗我部元親は黙認し、城内から、「 家老らの陰謀で、城主を追放したのは、
逆賊なり 」 という噂を流す。
その噂を信じた家臣団と長宗我部軍により、 家老達に出家させ、
追放してしまう。 そして、兼定の嫡男・内政を傀儡政権にして、手を汚すことなく、
一条家の領地を入手したのである。
元親は、中村城主に、実弟の吉良親貞を置いて、当地・幡多郡を支配させた。
天正三年(1575)、 日向に追放された一条兼定は、中村城奪還のために、
伊予の法華津播磨守らの助勢を得て、
栗本城に要害城を構えて拠点とし、元親軍と四万十川を挟んで戦った。
しかし、兼定軍は敗れて、奪還はならず、土佐一条家は。歴史から姿を消す。 」
中村市街図にある 紫色の凸形は、元親軍の配置で、川向うに一条兼定軍が配していたのである。
為松公園にある、 市立郷土資料館 (四万十市中村2356) を訪問。
資料館には、中村城跡出土品の瓦片・硯・軒瓦の展示はあるが、現品の展示物は少ない。
一条神社や栗本城跡等のパネル写真と、中村城や近郷の栗本城・今城の想像復元図や、
年表があるだけである。
前述の中村市街地、この後の中村城想像復元図と、今城想像復元図は、当館に展示していた
ものを借用したものである。
中村城は、為松山頂にあった四つの城群、 即ち、 東ノ城、 為松城、
(本丸)、 今城 の総称で、連立式の城郭である。
最初に築城したのが、一条教房を支えた一人、家老の為松氏で、為松城である。
資料館では、城の平面図が展示されていて、それによると、
「
郷土資料館の裏側の左手に東ノ城、資料館の裏側に為松城、
その右方の逆L字型の丘陵に、詰めの城(本丸)と今城が築かれた。 」
ように描かれている。
二の丸の北西にある山頂部が本丸跡で、「為松城跡」の碑が建っている。
郷土資料館に掲示されていた 「中村城想像復元図」 は、その姿を想像したもので、
土塁の上に二つの望楼と詰があり、
その下は三つの堅堀が掘られ、 城を守っている設計になっていた。
説明板「中村城」
「 為松城の詰(本丸)は、二百四十坪程の広さだったらしい。
城主とされる為松氏は、この地方の有力な豪族(国人)の出だが、
一条氏の入国以来家臣となっている。
しかし、一条政権の滅亡と共に所領を失い、歴史から姿を消した。
東ノ城の面積は、約六十坪程度で、一条氏一門の西小路氏の持城と考えられている。
一条政権が滅び、西小路氏も中村を退去すると、城は荒廃し、山畠となった。
現在は、地形が変化し、かつての城の面影はほとんど無いが、
わずかに土塁の一部が残っている。 」
「今城想像復元図」 には、中村城から右に向って、坂が下っていて、 中村城、二の塀、堅堀と続き、 その先が今城で上段、中段、下段の、三つの敷地の上に、 土こうと建物が建っていたと推定している。
関ヶ原の戦い後、戦功により、山内一豊に土佐一国が与えられると、
山内一豊の弟の康豊が入城し、高知藩の支藩・中村藩二万石の居城となった。
二代目藩主・山内政豊(別名良豊)の慶長十八年(1613)に、
新たに中村城として修復されたが、
翌々年の元和元年(1615)に布告された一国一城令に伴い廃城となった。
なお、中の森に残っている石垣は、山内政豊が城を修復した時代のもののようである。
幡多郷土資料館は、中村城の二の丸跡に建てられたという。
驚くことに、天守閣の形である。 中村城は土塁の城で石垣もなく、
天守閣もない。
愛知県の犬山城をモデルにした模擬天守という。
資料館の天守閣からは、四万十川、東山を臨み、市街地を一望することができた。
中村城の跡地は為松公園として、随所に桜が植えられている。
当日は花見客で賑わっていた。
その中を少しだけ歩いただけなので、
一部に土塁が残っていることが、確認できただけで終わった。
中村城へは土佐くろしお鉄道 中村駅から車で10分
旅をした日 平成二十一年(2009)三月二十八日