城崎温泉は開湯1100年を越える古湯で、
平安時代以前から京や大和の公家にも知られる長い歴史を持つ。
江戸時代には海内第一泉と呼ばれ、桂小五郎も身を寄せている。
また、明治〜昭和初期には、志賀直哉や島崎藤村など、多くの文豪が訪れている。
令和四年(2022)四月六日(水)、天橋立を見学後、京都丹後鉄道宮豊線のはしだて5号で、 豊岡に出て、JR山陰本線で城崎温泉駅に着いた。
駅を出ると、右側にあるのは、さとの湯である。
外湯 「駅舎温泉」 とも、呼ばれている。
「 千四百年前より、温泉が湧き続ける城崎では、
古くから心身を癒す風土があり、受けつがれている。
そのような城崎らしさに 現代性をプラスして誕生したのが さとの湯。
エキゾテイックな雰囲気が漂い、ハーブの香りや滝の音に満ちた不思議な空間である。
サウナ風呂は、ドライ・ミスト・ペンギンの3種類、サウナ好き必見の外湯である。
800円 月休 13時〜20時40分(閉館は21時) 」
ロータリーに、島崎藤村の文学碑がある。
この碑にあるのは、山陰土産の中の文章で、藤村自筆のものを複写したものである。
細川たかしの城崎悲歌の歌碑もあった。
駅前の左右の通りにある商店街には食堂などがあり、奥に山が見えた。
右に真直ぐ行くと、大峪川が流れていて、4つの太鼓橋が架かっていた。
この川の両側が温泉街である。
橋の袂の柳は淡い黄緑色で、情緒がある。
橋を渡ると、「北柳通り」 の行燈があり、その左に句碑があった。
城崎文学まつり入選作の表題があり、3名の方の句が刻まれていた。
その先には外湯の柳湯がある。
「 中国の名勝西湖から移植した柳の下から湧き出したというので、この名がある。
以前はこの裏側にあり、外傷やはれものに著効果があったといわれる。
大浴場・足湯あり 600円 木休 15時〜23時
柳の湯の前に、富田砕花の歌碑があった。
「 城崎のいでゆのまちの 秋まひる 青くして散る 柳はらはら 」
橋の手前の道を左に行くと、左側に城崎駅通り公園があり、その先に駐車場がある。
この通りは南柳通りで、左折すると、城崎文芸館があった。
その一角に、志賀直哉の 「城崎にて」 の文学碑がある。
文学碑は、月日を経たためが、文字が読みづらくなっていたのは、残念である。
その下に説明碑「志賀直哉文学碑」があった。
「 当城崎温泉に湯治治療中の著作
城崎にて 暗夜行路
は、城崎のたたずまいをよく表現した名作として居られ、氏自身も、
城崎の印象去りがたきせいか、直哉と署名を寄せられたので、建立した。 」
南柳通りに戻り、先に進むとコンビニの先に駐車場があり、
その奥に、城崎麦わら細工伝承館がある。
道は橋を渡るが、橋を渡った左側の川に沿った小道は木屋町通りで、
桜並木が続いている。
車道を進むと、交叉点の右手に、 外湯 ・ 一の湯がある。
「
一の湯は、江戸時代中期、医学の創始者・後藤良山の高弟・香川修徳が、
その著 「薬選」 で、当時は新湯といわれたこの湯を天下一と推賞したことから、
名付けられた。
横の小庭の 「海内第一泉」 と刻まれた石碑は、近代温泉学の権威・藤沢博士の書である。
桃山方式の歌舞伎座を思わせる建物で、町の中央に位置し、名実共に城崎温泉の象徴である。
大浴場・洞窟風呂・足湯
600円 水休 7時〜11時 」
左折して進むと湯の里通りで、右手に四所神社がある。
説明板「温泉祖神 四所神社」
「 鎮座地 豊岡市城崎町湯島
御祭神 湯山主神
タ岐津媛神
タ紀理媛神
市杵島媛神
由緒
古来、四所神社と称せられ、和銅五年(708) 当郷の住人であった日生下権守が、
神託によって創設し、ついて、養老元年(717) たまたま当地方に来訪し、
神前に参籠中の沙門道智上人(温泉寺開山)に託宣あって、城崎温泉(まんだら湯)
が発見されたと伝えられている。
祭日
温泉祭 四月二十三日
秋 祭 十月十五日
秋祭には、神輿の渡御、山車六台の供奉があり、「城崎だんじり」として、
特に有名である。 」
その先の右側に瓦屋根の建物があり、その中央が、 外湯 ・ 御所の湯 の入口である。
門をくぐると、 外湯 ・ 御所の湯 がある。
「 南北朝時代の歴史物語 「増鏡」 に、
「 文永四年(1267)、後堀河天皇の御姉 ・ 安嘉門院 が入湯した。 」 という、
記事がある。
御所の湯は、それに由来する。
江戸時代、西隣に陣屋がおかれ、「殿の湯」 または「 鍵の湯」 と呼ばれた湯があったが、
明治になって、御所の湯に統合になった。
京都御所を彷彿させる現在の建物は、平成十七年七月に四所神社の隣に新築移転した。
室内・檜風呂と露天風呂・岩風呂からなる大浴場。
800円 第一・第三木曜日休 7時〜11時 」
御所の湯と入口の間にある庭にはシーズンには水が入れられ、蓮が咲いているようである。
訪れた時はピンクのしだれ桜が咲き、美しかった。
道の反対にある小路は木屋町小路で、個性豊かな店が十軒ある。
湯の里通りを更に進むと、右側に 浄土真宗本願寺派の宝池山蓮成寺がある。
その先の左側にある三階の建物は、私が泊まった旅館・喜楽である。
「 城崎温泉は、小規模の旅館が多い。
また、朝食付きや素泊まりの旅館も多いのが特徴である。
訪れて見て分かったのであるが、城崎温泉での入湯は旅館ではなく、
外湯に入るが一般的である。
城崎温泉の歴史を辿ってみると、もともとは城崎温泉の旅館には内湯は
なかった。 鴻の鳥が怪我を癒しているのを見て、
温泉を発見したという言い伝えがある城崎温泉は源泉に小屋を建て、
その回りに湯治小屋を建てたのが始めで、それ以来、宿は食事と休憩、宿泊するのみで、、
宿泊者には外湯に行く浴衣と履物・タオルなどを手渡すことが義務化してきた。
利用者の増加で新たに湯の掘削が行われた時、
旅館の一部から新湯は旅館の内湯に使用しようという声があがったが、反対の声も多く、
議論の結果、旅館の内湯を一部認めるが、外湯文化を残すため、
源泉を一元管理する温泉組合をつり、外湯と旅館の内湯に供給することと、
旅館の内湯は認めるが最小の規模にすること、そして、旅館の高さは、
三階建てとすることが決まった。
以上のようなことで、小生は翌朝、旅館の内湯利用はやめ、
外湯に行くことにし、朝食前に鴻の湯に入り、一服後、城崎を跡にしている。
訪れて感じたのは、温泉街にある店に同じものを扱う店が少なく、
競合していないことである。 」
その先に、三木屋旅館があった。
当初、ここに宿泊しようと思っていたのだが、コロナの時期で、
多くの旅館が閉鎖中で、その一軒であった。
その前に、「維新 史跡 木戸松菊公遺跡 松本屋屋敷跡 」 の石柱が建っている。
また、「桂小五郎潜居の宿」 の説明碑があった。
「 元治元年(1864)七月、京都には蛤御門の変が起きた。
幕府から追われている身となった桂小五郎(木戸孝允)は、
但馬の地に身を潜め、再起をうかがっていた。
当初は出石の住人であった広戸甚助の手引きで但馬に逃れ、
甚助・直蔵兄弟の手を借りながら、出石に潜伏していたが、
同年九月に当館の前身となる「松本屋」に身を移している。
当時の「松本屋」は、タキという娘と母親が切り盛りをしており、
潜伏中はタキから世話を受けたという。
潜伏に使われた部屋には、「朝霧の晴れ間はさらに富士の山」 と、
墨書された板戸があったと伝わるが、大正十四年(1925)に起きた北但大地震で、
建物とともに消失している。
右に建つ記念碑は、直蔵の息子・正蔵の尽力により、
出石郡教育会が建てたものである。 」
その先の三叉路で左折すると、大峪川があり、橋の手前の
左の小路は木屋町通りで、桜があふれるように咲いていた。
橋を渡ると突き当たりに、 まんだら湯 がある。
600円 水休 15時〜23時
大浴場、半露天風呂
建物の前には、由来碑と、円い形の吉井勇の歌碑があり、 歌碑の後ろに、「まんだら湯」 の説明板が建っている。
説明板「まんだら湯」
「 養老元年(717)、温泉寺開祖・道智上人の曼荼羅一千日祈願によって湧き出たので、
その名がある。
その後、八百年を経た頃、にわかに湧き上がって熱湯となったが、
折よく来あわせた京都の僧・日真上人が曼荼羅を書いて泉底に沈め、
修法の結果、数日にして適温に復したという。
前庭の碑はこの由来を書いたものである。
屋根は仏縁にちなんで、御堂を模し、入口は唐破風、山すその緑に包まれて、
清楚な趣をもっている。
曼荼羅湯の名さえ かしこしありがたき 仏の慈悲に 浴むとおもへば
吉井勇(昭和八年來遊)
まんだら湯の入口の右側に行き、左折すると、極楽寺があった。
「 臨済宗大徳寺派の禅寺で、室町時代の創建であるが、衰退した。
この寺を再建したのは、江戸時代初期の僧、但馬出身の沢庵和尚である。
入口に、楼門式の山門があり、その先の左側に大正十年(1921)に再建された大きな本堂がある。
堂内には、鎌倉時代末期の本尊・阿弥陀如来像が祀られている。
本堂前に、枯山水が広がっている。
一面に広がる白砂の中、ところどころに浮かぶ石。
無言で語りかけてくるようなこの石庭は 「清閑庭」 と呼ばれている。 」
極楽寺から北に向うと、大峪川が左から右にカーブし、北に向うところに出る。
直進するとロープウエイに出られが、右折して大通りに出て、北に向う。
道の右側には旅館が軒を並べていて、大峪川の両側は桜並木で、
城崎温泉の桜も名所の一つである。
右側の駐車場の先の奥に、鴻の湯 がある。
「 昔、足を怪我したコウノトリが傷を癒しているところを
見ると、温泉が湧き出ていた。
これが鴻の湯である。
700円 火休 7時から23時 」
鴻の湯の反対、大峪川の脇に、源泉がある。
説明板「城崎温泉 薬師源泉」
「 自然湧出量 150L /毎分
揚湯量 400L /毎分
湧出温度 81.0度
掘さく深度 500メートル
この泉源は、鴻の湯裏の貯湯タンクの水位変化によって、自動的に揚湯して
タンクに送り込むようになっています。 」
その先の大師山の中腹にあるのは温泉寺である。
「 山号は末代山で、高野山真言宗の別格本山である。
天平十年に、城崎温泉の開祖の道智上人による開基で、
山号と寺号は天武天皇により賜ったものである。
温泉寺本殿は、国の重要文化財に指定されている。
桁行五間、梁間五間、入母屋造、銅板葺で、
室町時代初期の至徳四年(1387)頃の建立で、正徳三年(1713)と昭和四十五年(1970)に、
解体修理が行われている。
本尊の十一面観音立像は平安時代中期の作、千手観音立像は、平安後期の作で、
国の重要文化財に指定されている。
境内に建つ宝しょう印塔は室町前期の建立で、国の重要文化財に指定されている。 」
以上で、城崎温泉の散策は終了である。
旅した日 令和四年(2022)四月六日〜七日