名所訪問

「 島原の乱の一因となった寺沢氏が築いた唐津城 」  


かうんたぁ。


唐津城を築いたのは、寺沢志摩守広高である。 
彼は豊臣秀吉に仕え、肥前国六万石を拝領、 文禄元年(1592)の朝鮮出兵に際し、肥前名護屋城の普請を務め、 出征する諸将や九州の大名の取次を担当、 戦功により二万石の加増を受けている。
関ヶ原の戦いでは東軍に組みし、徳川家康の信頼を得て、 天草四万石の加増を受け、唐津藩十二万石の大名になり、長崎奉行にまで出世した。  
唐津城を造営し、天草には富岡城を築き、城代・代官を派遣して統治した。  唐津や天草の土着豪族を弾圧したが、その結果、唐津は安定して、繁栄した。 
しかし、このことがあだになった。 
広高死後、、広高の子・堅高時代の寛永十四年(1637)に、 天草の実石高が与えられた国高の半分だったことから住民に過大な負担が生じ、 また、キリシタンへの弾圧が行われたことから、天草・島原の乱が起きた。 
乱終息後、寺沢堅高には、天草領四万石の没収と、 出使が認められないという沙汰が下された。  斬首になった島原藩主の松倉勝家に比べれば軽い処分であったが、 出使できないという精神的苦痛から、 正徳四年(1647)、江戸の海禅寺で自害した。  嫡子がなかったため、寺沢家は断絶し、唐津藩は改易になった。 」


唐津へは福岡空港が近いが、前日、佐賀市に泊まったので、 JR佐賀駅から唐津へ向かった。 
佐賀駅で、十五時三十八分発の各駅停車に乗ると、 二両連結のディーゼル車で、車掌はいないワンマンカーである。 
この区間はスイカは使えなかったので、切符を買って乗って、 十六時四十四分に唐津駅に着いた。 
宿泊先は「渚館きむら」で、駅前でタクシーに乗るとあったいう間に着いた。
海岸に面した料理旅館で 、いかなどの地元でとれた魚料理が売り物なので、そこを宿にした。 
夜になると潮鳴りがし、浜には虹の松原に連なる西の浜の白砂の砂浜が続く。 
いかを中心とした魚料理とうまい酒で満足し、寝てしまった。 

翌朝、周囲を散歩する。 
宿を出ると、唐津湾、虹の松原に連なる西の浜の白砂の砂浜が続く。 
その先には唐津城が目の前に広がり、白砂の砂浜が続く先に唐津城の姿が見えた。 
唐津城の下まで来ると、 「唐津藩武家屋敷の門」 と書かれた割烹旅館を発見。 

説明板「唐津藩武家屋敷」 
「 慶長七年(三百八十年前) 初代藩主寺沢公が、 名護屋城の解体資材をもって唐津城を構築した折、 藩家老の門として建造されたものである。  この門の巴瓦唐草瓦の形模様が、各個異なっているのは、名護屋城が急造のため、 築城資材を全国各地から寄せ集めたことに起因する。  鬼瓦は寺沢公の陣屋の門で、慶長時代の面影を残す貴重な門で、 幕末の藩家老・掘家の門を修復したものである。 」  

朝飯を食べるため、宿に戻り、チェックアウト後、バスで唐津城に行った。 
唐津駅前から市内循環のバスで、「唐津城前」で下車すると正面に天守閣が見えた。 
唐津のいたるところから唐津城の雄姿が見られるのが唐津の人の自慢と、 昨夜宿の。人から聞いた。 
ここには 「舞鶴公園案内図」 と 「唐津城」 の説明板があった。

説明板「唐津城」
「 唐津城は慶長十三年(1608)に完成した平山城です。  城を築いた寺沢志摩守広高は豊臣秀吉の側近で、 築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれています。 
城は本丸・二の丸・三の丸・外曲輪に分かれ、 本丸には天守台、二の丸には藩主の住居と藩庁があり、 三の丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し、 町奉行所が置かれていました。 
城には寺沢氏以降は代々譜代の大久保・松平・土井・水野・ 小笠原の諸氏が入城しました。  寺沢氏の十二万三千石で始まり、廃藩前は六万石でした。  明治十年から本丸跡は現在の舞鶴公園として、一般に開放され、 藩主の跡地は高校敷地となっています。 
周囲は一キロ、面積四・三ヘクタール、 海抜四十三メートルにそびえる現在の唐津城天守閣は、天守台跡に、 慶長様式で、文化観光施設として、昭和四十一年に完成したものです。  天守閣は五層五階、地下一階で博物館、展望所等があり、 展望所からは松浦湾の全景が一望におさめられます。  また、唐津城は別名舞鶴城ともいわれ、 観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれております。 」

砂浜から見た唐津城
     武家屋敷門      唐津城
西の浜から見た唐津城
武家屋敷門
南から見た唐津城


唐津城へは右手の坂道を登る方法と、 城の奥にあるエレベーターで上がる方法がある。 

「 エレベーターは有料だが、 天守閣の脇に「あ―」という間に到着する。 
江戸時代の藩士は坂道を登っていったので、その実感を味わうには坂道がよい。 」

唐津城に残る遺構は、石垣や掘の一部のみである。 

「  唐津城は、江戸初期の慶長七年(1602)から慶長十三年(1608)にかけて築城された。
唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、浦島山に築かれた城で、 周囲は一キロ、四・三ヘクタールの面積である。 
天守閣があるのは、 唐津湾に突き出た海抜四十三メートルの満島山上で、ここは本丸跡である。 
明治四年の廃藩置県で、唐津城は廃城となり、建造物は取り壊された。 」 

現在ある天守閣は、昭和四十一年に建設された、五階五層、 地下一階のコンクリート製の模擬天守である。 
天守閣の入口には、「舞鶴城」 の説明板があった。

「 ご案内
唐津城にご來城いただき、誠にありがとうございます。 
この唐津城は、東の浜の松原と西の浜に連なる白砂が、 両翼を広げて舞い上がる鶴に似ており、 城の天守閣がその鶴の頸に見えることから、別名、舞鶴城ともいわれております。
天守閣には、寺沢・大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が、 城主をつとめたときのゆかりのある品々や、 唐津の文化であります唐津焼の「古唐津」を展示しており、 また、最上階は旧城下町、松浦湾、虹の松原、 鏡山を見渡すパロラマが広がる展望所となっております。  ぜひ、唐津の旅の思い出にご入館いただきますようご案内します。
   唐津市           」

展望所からは松浦潟の全景が一望でき、 松浦川の右岸には国の特別名勝・虹の松原が広がっているのが見えた。 

「  寺沢広高は、新田開発を行う際、防風林を造成し、手厚く保護したが、 防風林は 虹の松原 として、現在まで存続する。 
寺沢広高は唐津の発展に寄与した、と唐津の人々に慕われているようである。 」

坂道
     天守閣      虹の松原
城への坂道
模擬天守閣
奥にかすむのが虹の松原


展望所からは下を見ていると、駐車場の一角に城門とそれを囲む土塀を見つけた。

「 これらは復元された門と土塀だが、 北面には現在も海にそびえる石垣が残っている、という。 
唐津城の北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれた。 」

坂を下り、階段の西側に入って行くと、 二の丸の石垣の下に、「御住居・学問所」 の説明板があった。

説明板御住居・学問所」
「 この石垣の南側は、唐津城の中核部、 藩主の住居と藩庁がおかれていたニの丸にあたります。  現在は、佐賀早稲田中学校・高等学校には高く石垣を廻らせた遺構が残っていますが、 この中に藩主の住居と藩庁がおかれていました。  多くの藩士が毎日出仕していたことでしょう。  また、グランド部分には、藩校などの学問所や蔵や馬場、厩などがありました。 」

その西側は、朝散歩で行った武家屋敷があるところで、 その一帯が三の丸があったところである。

「  外曲輪は町人の町で、唐津城の南方に位置し、唐津駅前が含まれる。
一方、江戸初期頃から唐津焼の生産が始まっている。 」

唐津駅前に、「唐津曳山」 の銅像があった。
唐津くんちは、天平勝宝七年(755) 創建の唐津神社の祭として、 寛文年間(1661〜1673) に、始まったとされる。 

「  文化十四年(1817)、小笠原氏が、磐城棚倉藩より唐津藩に転封となる。  二年後の文政二年(1819)、初代・小笠原長昌の時、 伊勢神宮を参拝後帰途についた、刀町の石崎喜兵衛が、京都祇園祭を見て感動し、 帰郷後、仲間達と獅子頭を製作し、神社に奉納。  これが、 唐津神社の秋季例大祭である唐津神祭が、現在のような曳山を引く祭に変化するきっかけ となった。 現在一番曳山である赤獅子がそれである。  漆で仕上げられた巨大な獅子頭。 台車には囃子方が乗りこみ、 囃子を奏でながら巡行する 「囃子ヤマ」 は、 他町内に大きな影響と驚きの反応を与えました。  文政七年(1824)には青獅子、 天保十二年(1841)には亀と浦島太郎と、 各町はこぞって製作し、明治九年(1876) の 13番曳山「鯱」、 14番曳山「七宝丸」まで、14町14台の曳山が現存している。 」

からつ曳山会館へ行くと曳山を見ることができる。

駐車場
     二の丸石垣      「唐津曳山」の銅像
駐車場、門と土塀
二の丸石垣
「唐津曳山」の銅像


唐津城へはJR筑肥線唐津駅から徒歩約20分 

旅した日   平成二十八年(2016)一月二十二日



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